稀有な人材でありたかった
矮小な自分自身が、誰かにとっての「あたり」の人でありたかった。
行き交う人々の、それぞれにある人生の浪漫。そこに伴う苦労や苦悩、喜びや怒りと裏腹に、大抵の人はそこにある輝きを見せることなく埋没している。当人にとっては一大事でありえても、無関係の他人にとってはありふれたことでしかなく、殊更に興味を持って触れる必要すらもない、ただの背景に過ぎないそれら。そして、その人々。
嘲笑や侮蔑の意味合いもなく、我々のような一般人の大半は、多くの人にとっては存在価値の乏しく、または無い群衆の一人に過ぎない。そこにいるという事実に、場所を取ることと、何かしらの反応が有り得るくらいの、ごく消極的な価値のみが伴う、普通の誰か。
他の特別な誰かにとっては、明確な価値でありえても。果たして、多くの人にとっては、そこに存在する人というのは、別の誰かで代用可能な誰かに過ぎないものだ。
……と、悲観的なことを書き出しに置いてはみたものの。
現実的に考えた場合、実際にそこにいる誰かというものを、本当の意味で別の誰かで完全に代用可能である、ということはまずない。
興味のない誰かにとっては、知らん誰かがまた別の知らん誰かに置き換わっていようと、前後の差を認識することすら難しいものではあるが、誰かと関わりがある誰かというものは、その「関わりのある誰か」にとっては固有の一人である。
その人がいて、その人に求められている対外的な性能――社会において期待されている存在価値の量は、その個人が有している固有の値である。故に、それを過不足なく代用可能な個人というものは、原則として存在していない。
それでも、いなくなれば、概ね別の誰かによって代替される。
いないものは、仕方ないから。すべきことは、変わらないから。いなくなった理由がなんであるにせよ、それが欠けたことによる影響は、不可逆の作用を伴って生じるのである。
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この歳になると――というのはほぼ嘘で、実際のところは働き出した頃や、なんならそれよりもっと前から、自分の死について考えることは多い。
もちろん、別に希死念慮が心の片隅にあり続けるとかそんなことは一切なく、今の私はたとえゴミのようにボコボコにぶん殴られ、世界の全てに強い憎悪を抱く羽目になったとしても、私自身は可能な限り生き続けていたいと思っている。
……実際にそうされたら「いっそ殺せ……!」となるかもしれんが、それはさておき。
なんにせよ、定命の生物にとっての「死」という終焉は、その存在を生命の継続に依存する限りは決して避けられない結末であるのは間違いなく、それが具体的にいつになるかは別にしても、望むと望むまいとにかかわらず、最終的には必ず死ぬ。
そんな在り方を儚んだか、それとももっと別の理由があったのかは知る由もないが、大昔の権力者は、無生物の性質に夢を見出していた時期があったらしい。鉱物にして液体の性質も併せ持つ、水銀を不老不死の霊薬と見立てて飲んでみたりとか、そういう系統の。
現代の科学知識においては、端的に無意味で有害だと断定されている(と思う)それも、当時は決して捨て難い一つの「信仰」として、明確な価値を有していた。試みが上手くいくにせよ、そうでないにせよ、不老不死を求める探求の成果の一部は、今に連なる科学知識として受け継がれているのだと思う。
とにかく、不老不死であること――不滅であること、永遠を求めることというのは、多くを手に入れた誰かにとって終着の執着であることが多く、特に権力者とかでもなかろうと……なんなら生に苦しみ喘ぐような小市民であってすらも、
「まだまだ全然生き足りない!」
と、死んですらもない間から嘆き悲しみ、求めたくなる甘美なものでありうる。無論、死んでから死なないように備えるのは無理だろうから、それは仕方ないことではあるわけだが。
しかし、同じような境遇でも、生苦を嫌って安寧に死にたがる人もいるし、その差がどこにあるのかは、実際のところ良くわかっていない。一説によると、自死を選択する人間は、知能の高い人間であることが多いらしいので、敢えて死ぬほど悪しざまに表現するのであれば、不老不死を求めるような人間というのは、全員ただのアホだということになるのかもしれない。
……というのはもちろん冗談で、知性の高い人間というものはリスクの予測が上手く、その技能が概ね状況の悲観によって得られていることから、あまり無根拠には希望を持ち難い性質を伴いやすいものと推測している。希望よりも絶望のほうが十分に大きいなら、いま生きていることは単純に損失だと考えられてもおかしくはない。そういうもん。
これをもって短絡的に「人間なんてのは馬鹿な方が幸せだよ」などと断定してしまっていいのかについては、私は賛同はしないけども。結局のところ、それって問題を如何に他人事として扱うかって話じゃあないですか。課題の解決は放っといていい問題じゃないと思います。
それでも、ここで言う幸福の定義を、そこに存在する一個の人間の充足ないし利益を指すとして考える限りにおいては、疑いようもなく馬鹿な人間のほうが幸福度は高い。人間の複雑さは、概ね他者との関係性の複雑性によって生じる。馬鹿は他者に配慮が出来ないから、他者から無限に奪える。後先を考える必要がないから、いくらでも身勝手に振る舞える。
全員が全員そんな感じなら、持続可能性などというものはこの世に全く存在しない。人間社会に生きるものとしては、社会のことを完全に度外視して生きるのは好ましくはないだろう、と考えている。人の人たる価値というものは、社会に対する貢献を欠いてはいけないのではないか。そんな感じ。
ただ、起きてもいない未来のことを過度に悲観して、未来につながる今を蔑ろにするのは、仮にそれが知性の高さに由来したとしても、結局は馬鹿らしい話でしかないわけで、わからんことは素直にわからんし、やれるだけのことをやって過ごすのがちょうどいいんじゃないか、とも思う。
というよりも、それ以上のことは出来ん。未来につながる最適の過程が分かればいいのだと夢想しても、そんなもん分かるわけないので、精々頭の良さを発揮して、良い結果に繋がりそうな努力に賭けるしかない。予想が合ってたら報われるし、そうでなければ無駄になるか、あるいは乏しい結果が得られる。世の中はそういうもん。
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……というか、何の話でしたっけ?
そうそう、誰かにとっての「あたり」でありたい、ないしはありたかったという話ですね。
大昔はともかく、昨今では全く触れる機会がないという方が珍しいであろう、所謂「くじ引き」の概念。やれ最高レアが当たっただの、やれ最低保証のゴミクズやんけだのと、今日もまた色んなところで籤は引かれ続けている。
別に、電子ゲームのキャラに限った話でもない。おみくじでも、シール付きのウェハースチョコでも、将又あたり付きのアイスや駄菓子でもなんでも構わないが、この世には「あたり」と、そうでない大多数のものが溢れている。何かを期待してものを選び、それが報われたかどうかに一喜一憂する……どれだけ確率が低かろうと、その「選ぶ」という行為にある種の気軽さがあるならばなお、我々は狂ったように賽を振り続けるわけだ。
そんなふうに、誰かに渇望される誰かでありたかった。
そこにいることを誇れる、優れた何かでありたかった。
最高レアである必要はないにしろ、誰かにとって必要なものでありたかった。
いないよりは、いるほうがいいものでありたかった。
いることを疎まれるような誰かにはなりたくなかった。
……そういうもので、あれただろうか。
自分自身で定義した、自分自身の理想的な姿には、今の自分も昔の自分も、未来の自分もどこまでも遠い気がする。求めた故に手に入らないのか、手に入るはずもない高潔なものを求めてしまったのか、それとももっと別のなにかなのかすら、知ることもなく。
存在の本質を、あるべき理念に汚染され、その願いを不明な膜に包まれたまま。
私は今日も、あるべき形に擬態しようとしている。好きな誰かに、嫌われたくないと強く恐れている。
それでも誰かに嫌われるなら、きっと自分もその誰かが嫌いなのだろうと。
想いも願いも、そこにあってそこにはなく。誰かとともにいる私は、誰かの姿を映す鏡のようで、他者を見る自分の中に映した誰かを見て、その誰かのために生きようとしている。……しているだけで、出来てもいない、不出来で愚かな存在のまま。
他者を想う気持ちは、複雑で処理が難しいから。
我々は独我に依って強く成る本質を裏に隠して、表面だけを取り繕って今日も生きる。
それ以外はごく単純に、よく寝てよく食べ、よく生きる。
ねえ。もしもそこに、誰かいるのなら。
――私は、あなたにとっての当たりであれているでしょうか?
回答はいりません。知るのは、怖いですからね。




