亜久野芳雄
「ぬふふ。よくぞいらした、海鷹殿!」
「まあ、暇だったから」
「またまた。男のツンデレなんて誰得ですぞ」
とある日曜日。招待状に従って訪れたのは白くて殺風景な部屋だった。元から備え付けられているベッドと薄型テレビが置かれた収納棚という最低限の家具しか見当たらず、とても物悲しい。
尤も、病室なのだから大仰に語るべく物がなくて当然ではあるのだが。
「その様子だともうすっかり本調子なのか」
「その節は心配をお掛けしましたな」
ベッドの上で肩を竦める巨漢。亜久野兄こと亜久野芳雄がそこに居た。
「していなかったと言えば嘘にはなるけど」
血だらけだったし。大した止血もしてなかったし。
「そうだと思って、拙者が入院している病院の住所を認めて送ったのでござるよ」
「どうやって調べ……いや、良い。なんか大体分かる」
「ぬっふっふっ。これでもストーカーでしたからな。海鷹殿の住所くらい御茶の子さいさいですぞ」
特定厨怖い。これがストーカーか。前世でも関わりがなかった分、身をもって味わうと害意がないと分かっていても身構えちゃうな。
期せずして、コイツに粘着されていた風花ちゃんが、芸能界から逃げ出した気持ちの片鱗を知れたね。そらトラウマにもなるわ。
俺自体はこの男に隔意を持っていなかったから、誘われるがままにホイホイやって来てしまったのだが……。さすがに無警戒だったか?
「それで? 俺に何の話があるんだ?」
病院に来るまでに買った見舞いの品──無難そうな菓子類を適当に詰め合わせた物──を手渡しつつ尋ねる。
受け取った手紙には用件までは書かれておらず、話があるから時間のある時に会いに来てくれという旨のみが記載されていた。
あまりにも簡潔すぎたから、差出人の所に亜久野という名前があって、且つ病院の住所と病室がなければ気味が悪いと即ゴミ箱行きにしていたね。
「ところで、文野さんはご健勝ですかな?」
「うん? うん、普通に元気だな」
あれ。何も考えずに答えちゃったけど、これ良かったやつか?
「それを聞けて安心しました。あんな事をしでかした私が彼女の事後を慮るなんて、身の程知らずこの上ないですが、大層気掛かりでしたので」
良かったやつらしい。ふぅ、失言したかと思ったわ。あんな事言っといて、やっぱりまだ風花ちゃんに未練があるのかって。
「ぬふっ。そんな顔をなさらなくとも、心配ご無用ですぞ」
それが顔に出ていたのだろう。亜久野兄が朗らかに笑う。
あの亜久野君の兄だけあって、顔立ちは整っているんだよな、こいつ。体型が体型だし、顔の輪郭もそこそこ丸いけれど、それがなんというか愛嬌あるというか。イケメンは太っていても強いらしい。ズルい。
「あの時の約定通り、拙者は文野風花嬢には金輪際接近及び接触もしませんし、彼女のお知り合いを脅かす事も致しません。そもそも、もうそんな熱意がありません」
俺が亜久野兄の恵まれた顔面造形を妬んでいたら、いつの間にか笑顔が苦笑に変わっていた。
でも、そうか。熱意がなくなったのか。元々が亜久野君に唆された事で植え付けられた想いだもんな。現金な話、気持ちが冷めると興味も薄れる。となると、ストーカー返り咲きの心配は本人が言うようにしなくて大丈夫か。
「それに」
「ん?」
「今はもっと拙者を虜にする存在を見つけたものでして」
「そうだったのか」
入院生活の中で誰かに惚れたって事は、相手は同じ患者か面倒を見てくれているナースとかかな?
まあ、本物の恋を見つけられたのなら何よりだ。
「病室が個室なのは良いんですが、こう一人だとどうしても自責の念で潰されそうになりましてな」
「うん」
「そんな状態でも、彼女の腕の中に居るとまるで幼子の様に安らかな気持ちになれたんですな」
そんな赤裸々な。というか、相手も抱き締めてくれるとかそれもう両想い越えて付き合ってんじゃん。行動力の塊か?
「正直、拙者は心音──ひいてはASMRというのを舐めていましたぞ」
「うん???」
流れ変わったな? そういや、最近の話なんだけど俺がよく見ているVTuberに毎日高額の投げ銭をしている輩が居たわ。
とんだ石油王も居たもんだと思っていたが、いやはや……まさかねえ?
「あれ程、安らぎを覚える物はありませんな。彼女のお陰で拙者は心の平穏が保てましたぞ」
「……その子の名前は?」
それとはまた別の話ではあるのだが、この前お隣にお住まいの芸能人からエッチな自撮りが送られてきたんですよね。
曰く、題名は“ゼロ距離心音”。実にタイムリーである。人間の頭部を模したダミーヘッドマイクを胸に抱き、耳の部分を露出させた肌に密着させた風花ちゃんの画像はとてもエロかった。
でも、どうして全裸なんでしょう? 画角とマイクの大きさ故に際どい所は隠れているとは言え、下まで脱ぐ必要性はないよね? あれかな? 俺が先輩の裸を見たという事実に対抗心でも燃やしたのかな?
「お。海鷹殿も気になりますかな? 良いでしょう良いでしょう。この世界は競争の激しさもあって、布教出来る機会は逃すなと先達からご教授されてまして」
そんな訳で何故か重なってしまった偶然。最早、この先の展開は赤子ですら容易に想像出来ちゃうんだが。
思わず遠い目をしてしまった俺に亜久野兄が取り出したタブレットの画面を向ける。
「この子が拙者の推しであり、今を時めくVTuber、電子の世界に咲いた花ことフローラ嬢でござる」
そこに、よく見知った緑髪のお嬢様が表示されていた。
ですよね。知ってた知ってた。期待を裏切らないでくれてありがとう。
しかしまあ、風花ちゃんの元ストーカーが、回り回って風花ちゃんが演じる子に辿り着いてるの面白すぎない? これも因果か。中の人の話なんて口が裂けても言えないけど。
「ふむ。もしかして、既にご存知……いや、同じ『ミツバチさん』でしたか?」
そら、デビューを横で見守っていたから。
なんて言える訳もなく、曖昧に笑っておいた。
ちなみに、ミツバチさんとはフローラを推す視聴者の事を指している。当然、俺は最古参ミツバチさんなのだが、他のミツバチさん達に対してマウントを取る気は更々なく、新規はいつだって歓迎である。例え、それが知り合いであっても……関係の希薄な知り合いであっても!
「であれば、同士として一つお願いがありまして。これが手紙に書いた拙者の話ですな」
言いながらタブレットの画面に表示された再生ボタンをタップする亜久野兄。
ん? これフローラのライブ配信を保存した奴じゃないな。動画時間が極端に短いし、見どころだけを抽出して並べている感じがする。
「入院生活があまりにも暇すぎて、所謂切り抜き動画というのを作ってみたのですが、海鷹殿から見て如何でござろう」
「えっ。如何も何も普通に良く出来ていると思うけど」
素人だから善し悪しが分からん。でも、慣れない中での頑張りは伝わってくる。
俺がオタクなのを知って助言が欲しかったのか。それくらいなら手紙に内容を書いてくれれても良かったのに。
「気になった事があるなら、なんでも仰ってくれて良いんですぞ」
「と言われてもなあ。ちゃんと字幕や効果音もあるし、フローラのテンション高い所は文字の勢いも出てるし……」
動画の中ではフローラがゲームをしながらお上品に阿鼻叫喚している。
無慈悲な初見殺しに唸り、無言の抗議で机を軽く叩いている所とか本当に好き。台パンにならない程度の配慮をちゃんと忘れていない辺り、心象がいい。
「強いて言うなら」
「言うなら?」
「さすがに30分は長い」
「これ以上、更に削れと申すか」
「寧ろ、もっと削れるだろ。三時間の配信なのに30分ってお前。せめて15分までは減らせ」
「そこまで言うなら海鷹殿も手伝ってくだされ。拙者だけでは取捨選択が出来ないでござる」
何故か巻き込まれた。あっ、本当の用件ってこれかぁ。
動画編集とか門外漢なんですけど。いや、不要な物を不要と言うだけだし、実作業するコイツもそこまでの手間はない……よな?
まあ、今日は時間もあるし、亜久野兄も俺という仲間を見つけて楽しそうな事だし、やれるだけやってみるとするか。知らない事を知る良い機会だ。
それに、なんとなくだけど、今後もまた関わりそうな気がするし、それを煩わしいと思わない程度には亜久野兄は面白い奴だしね。
「お兄ちゃん、聞いて聞いてーっ!」
後日、風花ちゃんと顔を合わせた際、視聴者が切り抜き動画を作ってくれたと喜んでいた。
製作者が誰であるかは言わぬが花なんだろうな、これ。