???フラグ 2
「ひぃ……ひぃ……!」
まるで何かから逃げる様に必死の形相で走る男が居た。周囲の人間から訝しげな視線を向けられるのも何のその、自身が後暗い事をしていたという自覚もあって、その足は駅から離れてもすぐには止まらず、幾つかの道を奥へ奥へと駆け抜けて、人の気配が全くない路地裏で壁を背にして力尽きる様に崩れ落ちた。
(なんだあれは……なんだあれは!)
突然の全力疾走。その弊害で当然の様に酸欠状態に陥ったのだが、錯乱していた男にとってはそれすらも瑣末事で。口調を取り繕う余裕もなく頭を抱える。
彼の目論見は完璧だった。実際、桐原火燐に対して効果的な脅迫を提示する事が出来ていたし、反撃の芽を事前に摘み、幾日にも渡る痴漢行為で反抗心も奪い、無抵抗な身体を好き勝手に弄ぶ事で快楽を植え付けた。
失う物がないからこそ出来る防御を全く考えない攻勢を前に、火燐は為す術もなく堕ちるしかなかった筈である。
だと言うのに。何故、自分は火燐を手中に収めるどころか、積み重ねた過程を投げ捨てながら逃げ出したのか。
確かにイレギュラーはあった。会う筈のない人間と出会った。まさか、品行方正を地で行く聖まあち学園の生徒の中に、テストを蔑ろにする存在が居るとは想定していなかった。
それでも。それでも、だ。痴漢という物を嗜む以上、万事が万事、筋書き通りに行く事なんて有り得ない。だから、ちょっとやそっとの事では動揺しない自信があった。
しかし、その矜持はとある男に、それこそ跡形もなく木っ端微塵に粉砕された。
(あれが本当に、人間が出来る目なのか……!?)
思い出すだけでも震える。見えない手で心臓を鷲掴みにされたかの様な感覚。睨まれるなんて生易しい物じゃない。あの瞬間、正しく生殺与奪を握られていたと見て間違いないと直感が訴えていた。
この場に海鷹夜景は居ないのに、限界を訴えている足の悲鳴を無視してでも、無性に走り出したくなる。ここより先のどこか遠くへ。
それに加えて、男の肝を何よりも凍らせたのはあの凄惨な笑みだった。それは悪魔という表現では到底及びもつかない程に生温く、現代に蘇った魔王と称しても相違ない程の圧力があった。
(あんな奴がターゲットの近くに居たなんて)
桐原火燐という存在を調べあげている最中、海鷹夜景という名前は何度か見かけた。
だが、それだけだ。実際に遠目で観察しても、容姿はその目付き以外に取り留めて特徴もなく、極秘裏に入手した成績も別段飛び抜けてはいない。至って平凡な何処にでも居そうな学生の一人。
火燐と最も親しい異性であるという情報を拾いはしたが、風紀委員長として文武両道を行く彼女と並び立つにはあまりにも不足が目立つ。だから、気にも止めなかった。その昼行灯がこちらの目を欺く為の罠だと気づけなかった。
その結果がこれである。見事に足元を掬われたと言う他ない。恐らく、全てが彼の掌の上だったんだろう。
(まんまと踊らされた? となると人質の方も何かしら対策されていると考えるべきか)
今まで影も姿も見かけなかった存在が表に出てきたというのは、即ちそういう事。
妹の無事をチラつかせるのは火燐に対して効果的な策だったが、それが使えないとなれば最早彼女を縛る事は出来なくなる。そして、反撃が可能となった現状、男は逆立ちしても彼女には勝てない。
即ち、男が桐原火燐を堕とす事は恒久的に不可能になったという事で。
「……潮時だな」
彼の嗅覚がこれ以上の深入りは危険だと告げていた。
復讐を遂げられなかったのは確かに残念だが、海鷹の神算鬼謀を上回れる気が全くしないが故に諦めざるを得ない。
ここからでは、何をどうした所で挽回は不可能だろう。
男は大きく息を吐くと、壁に手を付きながら立ち上がる。まだ足は万全と言い難いが、この街からは一刻も早く立ち去りたい。そんな思いで足に力を込める。
「いいえ。手遅れです」
「は──?」
そして、次の瞬間には視界が下落した。
何が起きたのか分からぬうちに、何故か地面にうつ伏せになっている。
しかも、誰かによって両腕を背中に回され、上から押さえつける様に固定までされていた。こうなっては幾ら暴れた所で拘束から抜け出す事が出来ない。
「なっ、なん……誰だっ!?」
「誰と問われましても。知る必要なんてないでしょう?」
涼しげな声音は男の正面から。咄嗟に視線を向けるも物陰になっていてよく見えず、眉をひそめる。
辛うじて覗く綺麗な片足と声質から女性と判別は出来たのだが、それ以上の事は謎のまま。
「一体何を……これは立派な暴行だぞ!」
しかし、相手が女性であればやりようはあると。
圧倒的に不利な状況ではあるが、少しでも主導権を握る為に男は声を張り上げる。
「ええ。そうですね」
「えっ?」
故に。あっさりと肯定されてしまえば、毒気も抜かれるというもので。
恫喝によって動揺を誘うつもりが、逆に男の方が呆けてしまった。
「どうしました? もしかして、まだご自分の立場を理解されてません?」
「な、なにが……」
「私はそちらの言葉を否定しなかったんですよ」
「え、は……? ぎっ、ぎゃああぁぁぁぁっ!」
否定しなかった事柄が何を指すのか疑問に思う暇もない。
ボキリと。身体の内側を伝って響く嫌な破砕音。同時に襲い来る痛烈なまでの激痛。
痛みでのたうち回りたくても押さえられている為に出来ず、男の顔面は汗を始めとした様々な液体でぐちゃぐちゃになった。
「腕があっ! 腕があぁぁっ!」
「あら? たかだか腕の一本や二本で取り乱さないで貰えます?」
悶絶する男と違って心底つまらなそうに彼女は言う。
その態度が、まるで人を人と思っていない様で男の本能的恐怖を呼び起こす。
それは奇しくも、先程海鷹夜景に睨まれた時と同じ感覚だった。
「こっ、殺され……っ!」
「…………はぁ」
「……?」
しかし、恐れていた暴力はいつまで経っても振るわれず、不思議に思った男は痛みを堪えて顔を上げる。
「……自己嫌悪ですね。こんな木っ端に好き勝手されるなんて。後輩くんがあっさりと見逃す訳です」
未だ全貌を見せない声の主。その言葉の節々に大きな落胆が見えた。
理由は全く見当もつかないが、九死に一生を得る千載一遇のチャンスだと感じた男は苦痛によって口内に溜まっていた唾液を飲み込んで口を開き、
「さようなら、『無敵』になれなかった人。命に固執する貴方に用はありません」
「ぅぐっ!」
結局、言葉らしい言葉を吐く事もなく意識を闇に葬られた。
「この者の処遇は如何様になさいますか、邪重様?」
完全に男が落ちた事を確認してから、その身柄を押さえていた老紳士が立ち上がる。
「放っておきなさい。私が手を下すまでもなく、後輩くんに心を折られているようだから」
「……宜しいので? 火燐様を害した分は意趣返しすると意気込んでいましたが」
「私もてっきり後始末を任されたものだと思っていましたが、どうやら違うみたいですよ」
「と仰いますと?」
「後輩くんは火燐に気を取られて追いかけなかった訳じゃなく、追い掛ける必要性がなかったからあの場に留まったんです」
「っ!? あの一瞬でこの男を呑み込んでいたと……!?」
多少のことでは動じない老紳士の珍しい驚いた声。
だが、邪重にもその気持ちはよく分かる。ちゃんと説明をしてくれていれば、こうして無駄足を踏まずに済んだのにと思わない事もない。
「勝手にフォローしようとして、この言い草は流石に、ですか。けれど、ふふっ。本当に貴方はこちらの想定を容易く飛び越えてきますね」
「邪重様?」
「いいえ。なんでもありません。さて、学園に向かいますよ。幾ら生徒会長の権限が強くてもテストはちゃんと受けませんと」
今からだと一限の途中からの参加になるだろうか。だが、その程度のビハインドなど障害にすらなりはしない。
今頃は生徒会長が不在な事に気づいた学園が慌ただしくしている頃だろうか。とりあえず、何かしらの言い訳を考えておかないといけませんね、なんて笑みと独り言を零しつつ、邪重はその場から立ち去った。
気絶した男を見向きすらせずに。