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???フラグ 1

月末忙しすぎぃ


(クソ! クソクソクソクソォッ!)


 いくら手を引かれているとは言え、視界不良の状態で走るのは運動神経が良い阿久野健次でも難しい。

 しかし、それを全くもって気にする余裕がない程に彼の(はらわた)は煮えくり返っていた。


 失敗しようのない計画だった。体育祭に決行する事で、学校行事に風紀委員と生徒会を釘付けにし、捜索の手が掛かるより先に文野風花を籠絡する。

 勿論、文野風花という人物が一筋縄でいかない事は存分に理解していたが、精神的にも肉体的にも追い詰めれば、所詮は人である彼女も心が折れるだろうと。そう高を括っていた。女の扱いに自信があった事も、その慢心に拍車をかけた。

 実際、兄が倉庫へ来た時には完全に彼女の反骨精神は挫けていたし、想定外ではあったとは言え、流れは自身に傾いていたと断言出来る。


(クソがァ! 絶対に許さねえッ!)


 それをたった一人の人間にぶち壊しにされた。それも、気にも留めなかった相手に。

 海鷹夜景。あの文野風花が熱を上げていたから伝手を使って極力調べ倒した存在。それで判明した特筆すべき点は、学園では色々な騒ぎを起こしている為、色々な人から注目を浴びているという事くらいで。

 他に自分と比べて勝っているのは年齢だけ。それ以外は至って平々凡々。今はともかく学園を卒業してしまえば、凡俗に埋もれて誰からも認知されなくなる程度の存在。


 それが空を駆けてまで邪魔をしにくるなんて、誰が想定しようか。

 たった一人の女を助ける為だけに、どうして危険な勝負に挑めるのか。

 少なくとも、阿久野が彼の立場なら同じことは出来ない。失敗する可能性とその時のリスクを考えれば、攫われた時点で諦めるしか他はない。勝負を挑まれたとて、なんとか誤魔化すしかない。


(この僕が! あんな奴に劣る……!? 認められるか、そんな事!)


 そこに器の違いを感じざるを得なくて、彼は苛立ちの他に劣等感にも苛まれる。

 どれだけ言い訳を連ねても、実際に敗走したという事実が阿久野を追い詰める。

 それがドス黒いまでの感情となって鎌首をもたげ、彼の胸中を塗り潰していった。


「ふぅ。ここまで逃げれば安心やな」


「うん……?」


 だから、気づかない。

 自分が既に虎穴の奥へと誘われているという事実に。

 突然、突き放す様に離された手より、目前の相手が纏う雰囲気が変化した事に彼は戸惑う。

 先程までの少年さ感じたハスキーボイスは見る影もなく、何もかもを柔らかく包み込む穏やかな声音はどこか母性すら感じて。


「ほら、これで顔を拭きいや」


「あ、ああ……」


 矢鱈手触りの良いハンカチを言われるがままに受け取って、彼は顔についた精液を拭い去る。

 まだ目に若干の痛みは残っているし、不純物を洗い流そうする瞳の生理現象によって目の端から涙が零れてゆくが、漸くドロドロとした不快感が取り除かれて、暫くぶりに鼻からの呼吸も可能になった。

 言わずもがな、阿久野は歴とした異性愛者だ。男に精液を掛けられて喜ぶ性癖なんて微塵もないし、その匂いを感じ取るのも嫌だったので、今の今までずっと口呼吸で過ごしていた。

 故に、久方ぶりに鼻から新鮮な空気を取り入れようとして、何か嗅ぎなれない匂いに眉根を寄せた。


「なんだ……?」


 思わず瞼を開けたが、滲んだ視界では全ての輪郭がぼやけて見える。

 かろうじて、先程までとは違う倉庫に居るって事は理解出来るのだが、照明が全部落ちている為、窓から差す心もとない光だけが辺りを仄かに浮かび上がらせていた。


「ん、ちゅる……んはぁ、じゅぷ、んぁ……こんな味なんや、先輩のって……ぬふっ……」


 そこに不気味すぎる笑い声が響けば、如何な阿久野と言えど戦慄する。

 何度も瞬きを繰り返し、なんとか視力を回復させて目を凝らして見れば、いつの間に自分から取り上げていたのか、恍惚とした表情でハンカチを吸っている少女が居た。

 そう。見覚えの全くない少女が。


「だ、誰だ……!」


「誰っていけずやなあ、大将。あそこから連れ出した恩人やで、うち?」


「お、お前の様な奴は知らない!」


 明らかに演技と分かる程の白々しさで落ち込むおかっぱの少女。足下には何故が帽子が落ちてあった。

 自分と年の差は全く感じないし、身の丈も差がある。制圧しようと思えば、大して苦もなく出来る自信が阿久野にはあった。

 だけど、どうしてか底知れぬ物を本能が感じ取って、無意識に一歩後退(あとずさ)る。

 その(かかと)が何かに触れた。


「ん、なん──!?」


 後ろを振り返って、彼は愕然とする。

 広い倉庫の中、薄暗い地面の上に見覚えのある男たちが片端から倒れていて。

 どういう事だと思案しようとした瞬間、両足の感覚が消え去って視界ががくんと落ちた。

 更なる混乱に襲われつつも、なんとか膝を立てて倒れる事だけは免れる。それでも、まるで力が入らない身体では、他の男達の仲間入りするのも時間の問題だろう。


「個体としての差はないのに効き方に差があったなあ。これも大量すぎる精液のせいなんか? ふふっ、ほんとオモロい人やな、先輩って」


「ふざ──!」


 楽しそうに笑う少女の言う先輩が誰を指しているのかなんて、あまりにも明白。

 誰も彼もが口にする海鷹夜景という名前は阿久野を激昂させるのは十分で。

 火事場の馬鹿力か、憎しみに支配されるがままに立ち上がり、せめて目前の少女を無茶苦茶にしてやろうと手を伸ばす。


「おいたはあかんなあ」


 そして、女の肩に触れた瞬間、阿久野の天地はひっくり返っていた。


「え、あ……?」


「でもまあ、大の大人すら数秒で意識を失う場所で、そこまで動けるのは賞賛に値するわ。……うん、そやな。何かに使えるかもやし、特別にうちの麾下(きか)に加えたろ」


 背中から落ちたのに、衝撃があまりにも小さかったから投げられたと気づくのに遅れた。投げた癖に落とす際に手加減をされたのだと否が応にも分かる。彼我の実力差を痛感し、阿久野は頭が冷えると同時、顔をしかめた。

 その彼の胸の上に、無造作に小瓶が投げ落とされた。


「これは……?」


「ほー、まだはっきり喋れるんか。感情の力って偉大やなあ。後ろ向きなのがアレやけど」


 どこか感心したような少女に阿久野は視線だけで続きを促す。


「解毒薬や。とりあえず、あんさんと後二人くらいは助けたるけど、他は会長に引き渡す事になるなあ。そうなると主犯をどう誤魔化すか考えんと。あの人、平然と心読んでくるから対峙すると堪えるんよね」


 麻痺し始めた手で苦戦しながら瓶の蓋を取り、彼は中身を飲み干す。

 解毒薬という言葉に嘘はなかったのか、それともプラシーボ効果なのか、身体に感じていた気怠さが消えた。


「どうして助けた」


 身体を起こして胡座を組み、阿久野は目の前の少女を睨みつける。


「言ったやん。何かに使えるかもしれんって。一応、家柄も優秀やしな。まあ、暫くは大人しくして貰うけど」


「お前は海鷹夜景達の仲間じゃないのか?」


「ちゃうで」


 一蹴された事に驚く。ならば、何故助力したのかという当然の疑問が浮かぶ。


「ああ。勘違いして欲しくはないんやけど、先輩の事は好きやで? だから、先輩の味方ではあるんよ。けどな、他の女が関わっているとなると話は別や」


「つまり?」


「先輩の寵愛を受けるのは、うち一人だけでええねん」


「……なるほど。独占欲か」


「人は誰しも持っているやろ? うちはな、それが人より大きいみたいでな。先輩の目が他の女に向くのが許せないんよ」


 少女の表情はずっと薄い笑顔。なのに、先程から阿久野は冷や汗が止まらない。

 笑顔の裏で明らかに怒っている少女が怖い。その怒りがこちらへ向いてない事に安堵感を覚える程度には恐ろしい。


「じゃあ、僕は君が先輩とくっ付ける様に手助けをしたらいいのかな」


「余計拗れそうやし必要ないわ。イキんなや」


 鼻で笑われて、さすがに苛立ちが彼の顔に出た。


「うちに呼ばれるまでは何もせんでええから。そんな事より、はよ助ける二人選んでな。飲んだ解毒薬の効果もそろそろ切れるで?」


 話は終わりだと言わんばかりの少女に急かされて、個人的に信用の出来る二人を見繕う。

 そして、彼らに解毒薬を投与しながら、阿久野はおかしな点がある事に気づいた。

 少女曰く、解毒薬は即効性がある代わりに持続性は長くなく、効いている間に外へ出る必要があると。

 阿久野はてっきり少女も解毒薬を服用しているものだと思っていたのだが、彼女は彼が見る前でそんな素振りは一切見せていなかった。


「は? 解毒薬を飲まないのかって?」


 だから、当然のように訊ねた。

 その疑問に、少女は意外そうに何度か目を瞬かせた後、口角を吊り上げる。


「逆に聞くんやけど、毒蛇が自分の毒で死ぬと思うん?」


 聞かなきゃ良かったと阿久野は後悔した。

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