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 現実のトイレで目を覚ました俺はえげつない虚脱感に襲われつつも、それを堪えて1階へ降りる。

 やっべ、気を抜くと崩れ落ちそう。ま、まあ? 本当は死んでたらしいし? 仕方ないよな。

 うん。この世界で生きていけるなら、この煩わしさも我慢しようじゃないか。

 それに考えてみると、この倦怠感ももう二度と味わう事はないだろうし、ある意味でいい経験になったとも言えるかもな。


「あら? ルミナちゃん、おはよ」


「おはようございます、心春さん」


 廊下とリビングを繋ぐ扉を開くとキッチンの中を忙しなく動き回っていた心春さんが俺に気づいて微笑んだ。

 彼女は武藤(むとう) 心春(こはる)。その名の通り、水夏の母親で腰まで届くウェーブの掛かった空色の髪に、水夏よりも更に大きい母性の塊を胸部に持つ。

 というか、これが経産婦だと……。出産を経てその抜群のプロポーションは、普通にメインヒロインの貫禄がある。

 神様から聞いた──無理矢理聞き出した──ヒロインの特徴には当てはまらないが、仮に違ったとしても、媒体によってはサブヒロインとして脚光は浴びそうではある。


 親子丼。

 一年我慢すればワンチャンあるか……?

 ご褒美があるとないとで、俺の気合いも変わってくるが?

 かのシェイクスピア先生も『備えよ。たとえ今ではなくともチャンスはいつかやって来る』と言ってるし、俺は耐え忍ぶぞ……!


「お、ルミナ。水夏はどうした?」


 ソファに腰掛けて、ニュースが流れているテレビを見ていた秀秋さんが俺に視線を移す。

 彼は武藤 秀秋(ひであき)さん。ビシッとキメたスーツが似合う全てが出来る男。完全な善意で俺をこの家に迎え入れてくれた人で、足を向けて寝ることは決して出来ない。


「俺のベッドで寝てます」


「寝て……!? ルミナ、お前ついに……」


「……ん?」


 秀秋さんの掛ける丸眼鏡が光に反射する。

 なんだろう。記憶の中では知的な雰囲気がある良いおじさんなんだが、猛烈に嫌な予感がする。


「ヤったのか!?」


「ヤってませんけど!?」


 直接的すぎぃ!

 もっと娘さんを大事にしてください!

 いやまあ、おっぱいは揉んだし、太腿も触ったし、色々としたけど。


「わぁーっ!? うわあああぁぁぁっ!」


 何故か上の階から悲鳴の様な物が聞こえる。

 ついで、ドタバタとした足音と共に階段を駆け下りて来る物音。

 犯人が誰かなんて言うまでもなく。


「あらあら、今日はなんだか慌てん坊さんね、水夏」


「うぅ……、おはよ。お父さん、お母さん」


 真っ赤な顔でリビングに現れる水夏。

 少し乱れた髪の毛と皺になった制服、上がった息がエロく見えて、俺は目を逸らす。

 煩悩退散。空即是色色即是空。


「あっはっはっ! 水夏、ルミナのベッドは気持ちよかったか?」


「お父さん!? 何を言っているの!?」


「ん? ルミナがさっきそう言ってたんだが」


「ルミくぅん……」


 おっと、その恨めしげな声音とジト目は俺に効く。

 多種多様な嗜好を持つ俺にはご褒美でしかない。

 水夏の両親が居るから二人きりに比べて安全地帯かと思ったが、そうでもないらしい。


「あの、秀秋さん」


「ふむ。外堀から埋める為にもパパと呼んでくれてもいいんだよ?」


 外堀って本人に伝えたらダメな奴では。

 とりあえず、笑って誤魔化しておこう。ははは。

 よし。そんな事より本題を。


「体調が少し優れなくて、念の為に今日は学園を休みたい──」


「えっ!? そうなの!? 大丈夫、ルミ君!」


 案の定、水夏が近寄ってくるのを手で制する。


「風邪だと移るかもしれないから」


 そう言うと水夏は素直に動きを止めた。

 それでも、心配そうにこちらを伺う表情は真剣そのもので。うーん。かなりの罪悪感が込み上げてくるな。


「……うん。確かに言われてみればちょっと顔色が良くないかもね」


 俺の顔をジッと見つめていた秀秋さんが眉根を寄せる。

 そりゃ、命の灯火が消えましたからね。トイレの中で。とは言え、これはまたとないチャンスではある。

 体調自体はほぼほぼ問題ないと言えるし、この世界の事やヒロインの事など色々と調べたい事があるから纏まった猶予が欲しいんだよな。


「まあまあ。ルミナちゃん、食欲はある?」


「今は少し……。余裕が出来たら自分で作って食べます」


 全然あるのだが、ここで皆と食事をすると仮病だとバレてしまう。あくまでも記憶の中での話だが、心春さんの料理は美味しいんだ。油断したらペロリと平らげる事が可能なくらいに。

 かと言って作り置きしておいて欲しいなんてワガママを言えるほど図太くもない。

 まあ、時間対効果が高いカップラーメンとかで良いでしょ。この家にあるのなら、だけど。


「あらあら、それはダメよ、ルミナちゃん。こういう時は甘えていいの、家族なんだから」


 ま、ママ……。

 ハッ!? 溢れる母性と包容力で脳が誤認しただと!?

 やはり一児の母。バブみを感じておぎゃるなら本物が良いって死んだばっちゃが言ってたし、それに賛成だ。


「お粥、用意しておくからちゃんと温めてから食べてね?」


「……はい。ありがとうございます」


 やばいなぁ。ヤバい。

 人の優しさか心に染み渡る。

 独りに慣れていたからこそ、この親切心がダイレクトに伝わる。

 後で部屋に戻って軽く泣こう。そうじゃないと、いつかどこかで涙腺が崩壊する。

 そうなれば、この家族達が更に心配するのが目に見えて分かる。


「学園には僕から連絡しておくよ」


「始業式が終わったらすぐ帰ってくるからね!」


「ん? 水夏はそのまま部活に行くんじゃなかったのかい?」


「ルミ君が気になって練習なんて身に入らないよ」


「はは、それもそうか。じゃあ、ルミナの事は水夏に任せるとして、ルミナもルミナで具合が急変したらすぐに連絡するんだよ」


「晩御飯は元気が出る物を腕によりをかけて作るわね〜」


 大きな窓から射し込む暖かな春の日差し。

 それに負けず劣らず心地の良い空間。

 恵まれた主人公に転生したという実感はある。

 それでも、それでもだ。


「嬉しいなあ……」


 思わず漏れた本心。

 ゲームの世界とは言え、この人達は紛れもなくこの世界で生きている。心がある。

 未だ先行き不安なのは変わらないが、少なくとも俺の居場所はここにあるんだと実感した。

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