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「…………君」
声が聞こえる。
「ル……君」
肩に優しい感触。
まるで赤子が寝る揺りかごの様な心地よい振動が俺の意識をゆっくりと浮上させる。
「ルミ君、朝だよ」
耳朶に染み込む癒しの旋律。
ううむ。俺はいつの間に天上の調べを奏でる場所に来たのか。
全く身に覚えがない。
「あ、起きた? おはよう、ルミ君」
見慣れない天井だった。
どこだ、ここ。少なくとも俺の部屋じゃないな。
視線を動かすまでもなく、視界に映る少女。どうも、俺の顔を覗き込んでいたらしい彼女は目が合うとたおやかに微笑む。
空の様に晴れやかな青色の髪が、とても綺麗だった。
……青色? 厳密に言えば空色。またの名をスカイブルーとも言う。
はて。こんな現実離れした髪色があるか?
「え? なになに? どうしたの?」
伸ばした手で髪に触れる。
そのサラサラとした手触りは明らかに手入れを怠っていないのが理解出来て。
「地毛……?」
「うん? そうだよ?」
さてさて。
少し落ち着かせて欲しい。
そもそも、俺の人生において、女性から親しげに話しかけられる事も、ましてや朝起こしてくれる様な親密な関係の存在は居ない。
そもそも、女性の知り合いが居ないからな。
「…………」
「ルミ君?」
髪から手を離して上半身を起こす。
違和感と言えば、この呼び名。
何か色々と混濁した記憶を一つ一つ紐解く為に俺は小さく深呼吸をする。
ああ、そう言えば。初期不良がどうとかと言われていたような──
「ぁぐっ……!」
「ルミ君!? ど、どうしたの!? 大丈夫!?」
まるで眼窩の裏を突き刺したみたいな痛みが一瞬だけ走り抜けて、思わず頭を抱える。
俺の傍に居た少女──武藤 水夏が慌てた様に寄り添ってくれた。
「…………だした」
「えっ? なんて?」
「思い……だした……!」
「わあっ!?」
俺の勢いよく上がった顔に、危うくぶつかりかけて水夏が仰け反る。
少し申し訳ない気持ちになったが、それよりも大事な事。
未だ靄に包まれていて全部が全部ではないけれど、ここに至るまでの経緯は全て思い出した。
まずは名前。
海鷹 夜景。
夜景と書いてルミナリエ。自分としては最早慣れ親しんだ物ではあるが、バッキバキのキラキラネーム。故に子供の頃は成人したら改名しようと思っていたのだが、今や両親の唯一遺した物がこの名前のみとなれば、折角の貰い物を切り離すのも惜しく感じて。
だから、敢えて変えなかった自分自身を示す物。
まあ、本来の意味である電飾と書いてルミナリエと呼ばせなかっただけマシとしたってのもあるが。ロマンチストな両親だったんだろうな。
で、そんな俺をルミ君と呼ぶ目の前の少女は武藤 水夏。
俺の幼馴染みで、両親を失った俺を家族として迎え入れてくれた武藤家の一人娘……らしい。
いや、前世の俺に幼馴染みなんて居ないから実感がどうも、ね。
「しかし……」
「……?」
可愛い女の子に名前で呼ばれるのは興奮しちゃう。何分、初体験なので。しかも、何かと距離感が近い。凄い。幼馴染みって最高だな。
俺の視線を受けて小首を傾げる水夏。彼女のトレードマークでもあるポニーテールが同じ向きに傾いた。
見れば見るほど現実離れしている。その髪の色と同じ瞳の色も、水泳部なのに無駄に育った胸部も。制服から伸びたすらりとした健康的でシミひとつない手足や化粧っ気なんて微塵もないのに見るものを惹き付ける顔の良さも。
それら全部を引っ括めて、思うことは唯一つ。
「……可愛いな」
「ふぇっ……!?」
あ、面白いくらいに赤くなった。
ふと思い出した話なんだが、水夏の父親と母親は当初、俺を養子にするつもりだったらしい。
だが、それを断固として反対したのが水夏。その理由を彼女は語らなかったが、その真っ赤になった様子から二人は察したらしい。
当然、こういうゲームの主人公は鈍感である為、それを聞いても理解出来なかったのだが──寧ろ、嫌われていると勘違いして軽く一悶着あった──俺には分かる。
養子となると、俺と水夏は兄妹になる。血の繋がりはないし、婚姻関係を結ぶ事に問題はないとは言え、世間体までは預かり知れない。
何より、幼馴染み以上に近い距離は異性の魅力を感じさせなくなる可能性もある。
え? 何が言いたいのかって?
まあ、つまるところ、だ。
水夏は俺の事が間違いなく好きである。
だってそうだろ?
誰が好き好んで好きでもない異性を起こしてくれる?
誰が好き好んで好きでもない異性の心配をする?
「か、か、かわ、かわかわ可愛いって……」
「本心さ」
本来の主人公なら誤魔化しただろうか。言うて、どんな立ち回りをしていたのか分からないけど。
でも、俺はそんなヘタレた事はしない。既に好感度が振り切っている相手に照れ隠しなんて要らない。直球をただ真っ直ぐに放り込むだけ。
精一杯の低音ボイスで囁きながら、水夏の手を掴むと軽く引き寄せる。俺の予期せぬ行動に固まった水夏は、いとも簡単にバランスを崩した。
「あわ……あわわわわ……! ち、近いよ、ルミ君……!」
空いている手をベッドに付くことで、なんとか倒れないように踏ん張っている水夏。だが、そのせいで顔がかなり接近した。それこそ、ふとした拍子にキスができそうな程。
それに気付いて彼女は俺から目を逸らす。
ああ。その慌てた表情すら可愛くて素晴らしい。朝の生理現象のせいで自己主張している聞かん坊と早鐘を叩く胸の鼓動が全然治まらない。
「くふっ……」
もう、ヤるか。
確実に押せばいけるだろ、これ。
「ルミ君……?」
「いつも起こしてくれてありがとな、み……水夏」
ヤバい。
女性への免疫のなさが出た。
思ってたより下の名前で呼ぶことに照れと緊張があった。心臓が張り裂けそうだ。
主人公の記憶では普通に呼んでいるのだが、それはあくまでも記憶の中。
これではいけない。モテモテになるにはもっとスマートに、そして紳士的にならねば……!
そう。例えるなら情熱的な口説き文句で有名なイタリア人のように……!
「んーん。それくらい全然だよ」
にへらと。蕩けた笑みを浮かべる水夏。
天使かな? 幼馴染みなのだから、俺の様子がいつもと違う事に気づいているだろうに。
それとも、これが神の辻褄合わせか。
「Ti voglio bene」
「え?」
間違えた。
イタリア人の事を考えていたから、いつか使えるかと思って覚えていたイタリア語が出てしまった。
落ち着け、俺。めくるめく肉欲の世界へ踏み出すんだ、今ここで!
「ほ、本当に感謝してるんだ」
「わっ! る、ルミ君!? えっ!? なにこれっ!?」
最早、ただの勢いで抱き締める。
頬が熱い。心音の主張が止まらなくて胸が痛い。これではイタリア紳士なんて夢のまた夢だろう。
そんな事より、
(柔らかいし、良い匂いだ……!)
それに尽きる。
理性がドロドロに溶けていく音が聞こえる。
だが、俺は誇り高き童貞。ここが俺に都合がいいエロゲの世界であっても、相手の同意なしに襲うのはハードルが高い。
チキン? 違うね。嫌われたくないのさ! 弱虫だから!
「だ、だから……水夏! お、俺と……俺と……?」
ふと、水夏の抵抗の弱さが気になった。抱き締めた際に騒がしかった声が鳴りを潜めている。
なんなら何か全体重が俺に圧し掛かってきていて、失礼承知で言っちゃなんだが少し重い。
それに違和感を覚えて、恐る恐る胸の中に居る彼女を見下ろす。
そこに、
「きゅ〜…………」
「えぇ……」
恐らく俺と同じような真っ赤な顔で、目を回している水夏の姿があった。