忘れてしまいそうなぐらいに何もない一日
「結季ちゃん、今日は何しよっか」
朝ご飯を食べ終わったところで、麻依がそう話し掛けてきた。こたつの天板にはすでにタブレットが置かれていて、何をすることに決まっても準備万端、といった感じになっている。
「そうね……」
こうやって考えるのも、なんだか久し振り。
バレンタインがあったり麻依が風邪を引いたりだとかでここ最近は騒がしい日々を過ごしていたけれど、ようやく平凡な一日が戻ってきたような気がする。
なんてことを思って壁に掛けられたカレンダーを見てみたら、まだバレンタインデーがある行と一行しかずれていなかったのだけど。
大変なことが続いたからいつもより脳の容量を多く取っているのだろうか。つらい時間も長く続くけれど、麻依と過ごす時間がつらいわけはないし、きっとそう。
けれどそれは、今日のような落ち着いた日の記憶が薄くしか残っていない、とも言い換えられてしまう。
そんなことはない……つもりなのだけど、感覚なんて当てにならないし。
どちらが正しいにせよ、一日一日にもう少しバリエーションを付けたほうが良いように感じた。
のんびり麻依と過ごすだけなのも大好きだけど、こればかりは仕方ない。
これから先、何年か後に昔のことを思い出そうとしたけど、一ヶ月に数回だけの特別な日のことしか思い出せない。なんてことになってしまったら寂しいし。
特別な日は大切だけど、普通の日があってこその特別な日だから。
私が瞬間記憶能力だとかの持ち主だったならそれで大体解決するのだけど、私はただの一般人。そんな上手い話はどこにも存在しない。
「結季ちゃん、何か考え事してる?」
こうやって麻依が覗き込んでくれるのだって、ずっと覚えていられたらいいのに。
「ええ、少し。何も忘れなければいいのに、ってことを」
「ほんとにね。忘れるなんて概念無ければいいのに」
麻依はそう言った後、指輪を包み込むように右手で左手を握り込んだ。目線はずっと私のほうに向かっているから、きっと無意識なのだと思う。
寂しさが詰まっているであろうその右手に、もう一つの指輪がはまった私の左手を被せる。
「だから、今日みたいな何もない一日にもバリエーションを増やそうと思ったの。全部忘れないことはできないでしょうけど、それでも忘れにくくはなるでしょ?」
「……うん、そうだね」
そう答えた麻依の表情はなんだか硬い。
冷たい感情があの右手から遡ってきたかのようで、被せた私の手に思わず力がこもった。
私は、もしかして変なことを言ってしまっただろうか。けれど、自分じゃ分からない。
分からないまま、麻依の手を握る。
麻依の不安が長続きしなければ良いけれど。
麻依には、何かと不安定なところがあるから。
私以外のやつが原因の時も、マフラーを貰った翌日のように、私が原因の時も。そのことを引きずって、落ち込んだり、泣いてしまったりすることがある。
別に落ち込むことが悪いというわけではないし、それが麻依の性格なのだから、むしろ歓迎というか拒むものではないと思うのだけど、落ち込んだ麻依を見るのはあまり好きじゃない。
麻依が落ち込んでいるということは、私が麻依を守りきれなかったり、守るはずの私が麻依を傷つけてしまった、ということだから。
今だってそう。麻依を不安にさせた挙句、その原因に辿り着けないでいる。そんなの、麻依の隣にいる意味が無い。
手を被せているのだって、麻依の不安を取り除けないからやっている、単なるごまかしでしかないから。
ガラスに入ったヒビを指でなぞっているような不安定さを感じる。
不安定なのはどちらなのだろう。
麻依か、それとも、麻依の隣にいる資格を失いかけている私自身か。
それも分からないまま、両手で麻依の手を全て包みこむ。
「なんか、心配させちゃってごめんね。別に全然何とも思ってないから」
麻依は笑顔を作ると、大丈夫だよ、と付け加えた。
そんなの大丈夫じゃないことの証拠なのに。
表情のほうも、氷が溶け残っているみたいに少し硬さがちらついている。
「私のほうこそごめんなさい。不安にさせてしまって」
「謝らなくていいよ、本当に大丈夫だから。それより今日何するか考えないと」
分かりやすく話を逸らされた……。
分かりやすいだけにその裏にある『聞かないで』の意思も見え透いていて、さらなる踏み込みが許されない。
「……そうね」
と、返すことしかできなかった。
こういうときに一歩踏み込むことができたらいいのだけど、麻依に不快な思いをさせてしまったらと思うと足が竦んでしまう。
大丈夫だとは、どうしても思えない。
勘の部分も経験則の部分も、同時に黄色信号を灯らせている。
それなのに、麻依の抱えている不安を直接聞いて解決することはもうできなくなってしまった。
仕方なく、麻依に言われた通り今日何するかを考える。
「結季ちゃんはしたいことないの?」
「私は……今のところ特にないわ」
思いつくものはいくつかあるけれど、どれもパッとしない。それに今は私の希望より、麻依の希望を叶えることのほうが大事だろうし。
「麻依はどうなの?」
「……わたしも特に、かな。結季ちゃんのすぐ近くにいたいとは思うんだけど」
「それはいつものことじゃない」
そもそも休みの日に離れたことってあったかしら。出会ったばかりの頃にあっただけで、この関係になってからは無かったはず。
思い出せないということは、きっとそういうこと。そんな珍しいことを忘れるわけ無いし。
「まあそうなんだけどね」
あはは。と、麻依の乾いた笑い声が部屋に響く。
思っていた以上に麻依の様子がおかしい。
私と二人きりなのにそんな笑い方をするなんて。
それに近くにいたいことをいつも以上に強調するのだって、心細くなっていることの裏返し。
隣にいる麻依がいつも以上に脆く、次に何かあったら砕けてしまいそうに思えた。
……やっぱりなんとかしないと。
その一心で、麻依の手を掴んで、そのまま引っ張り上げるようにしてこたつから立ち上がる。
「わっ! 何するの結季ちゃん」
「今日したいことができたの。いいでしょ?」
「それはもちろんいいんだけど……」
麻依の返答を聞いて、手を掴んだまま連れ去るように二階の私の部屋に向かう。
若干強引になってしまっているのは、私も不安だから。
麻依が何を思って、そしてどれほどの不安を感じているのか分からなくて、もどかしい。
焼け付くような焦燥感が、私の一挙一動を無理矢理に早めている。
階段を上って、部屋の扉を開けて、二つくっ付けられた敷かれたままの布団に潜り込む。
「ほら、麻依も入って」
「う、うん」
麻依も布団の中に潜り込ませて、外と完全に隔たれるように掛け布団の位置を調整する。
「なんか結季ちゃん変だよ? 大丈夫?」
「それは私のセリフ。変なのは麻依のほうよ」
「えっと……そうかな」
「あれだけ不安げにしておいて何もないは無いでしょ?」
麻依は何も言わずに私から目を逸らした。
沈黙は肯定という意味でいいのだろうけれど、不安の中身はどうしても言いたくないみたいだった。
そこまで拒むのは何か理由があってのことだろうから、問い質すのは諦めよう。
……どうしても、気にはなるのだけど。
「それで、ここに来て少しは安心した?」
麻依は私の胸に顔をうずめて、うん、と答えた。私の緊張の糸も、少し緩む。
「だったらよかった」
麻依を連れて布団の中に潜り込んだのにはちゃんとした理由がある。
麻依の不安がどんなものなのかは分からないけれど、私と麻依しか存在しない小さな空間に来たら、私がどこにも行かないことを感じて安心してくれるだろうと思ったから。
不安を直接解決するのと違って特効薬のような効果はないけれど、それでも不安を紛らわせるぐらいはできるだろうと、そう思ったから。
麻依の頭を、指輪のある左手でそっと撫でる。
悪いことを全部忘れられますようにと、願いを込めて。




