三話、初めての夜
この回はR15の場面があります。苦手な方はご注意ください。
狭霧はこの日も下女の仕事を引き受けていた。
もう十二月に入り寒さも厳しくなってきている。ここの所、泰正と夜中に会っては話をしているが。泰正は狭霧に接吻をするくらいで清い仲を保っていた。事情を知っているのは昌くらいなものだ。けど狭霧は嫌な予感がしていた。綺螺姫のことだ。最近彼女がちょっと冷たいと思う。けど確かな事は言えない。どうしたものかと思いながら廊下の拭き掃除に精を出す。手が冷たいが気にせずにやった。
「……狭霧殿」
背後から声をかけられた。汚れた雑巾をそのままに振り返る。そこには泰正が佇んでいた。表情はちょっと不機嫌そうだ。
「……泰正様。いかがなさいましたか?」
「……拭き掃除を終えたら。侍女を遣わすから。私の部屋に来てもらいたい」
「はあ。わかりました」
泰正は珍しく怒らずに用件だけ言って帰っていく。狭霧は何だか胸騒ぎを感じたが。それでも頭を切り替えて拭き掃除を続けたのだった。
夕刻になり狭霧の部屋に侍女がやってきた。つんけんとした感じで用件を告げる。
「……上野様の命により罷り越しました。わたくしに付いて来てくださいませ」
「ご足労様です」
狭霧が言っても侍女は返答をしない。その代わり、すっくと立ち上がり歩き出す。狭霧は慌てて追いかけた。いくつかの廊下を過ぎ、曲がり角を行った。しばらく経ってある部屋の近くまで来た。
「こちらです」
侍女は言うと引き戸を開けた。蝋燭の灯りが見える。狭霧は頷いて中に入った。侍女は戸を閉めると行ってしまったようだ。きょろきょろと辺りを見回す。ふとここは板床だと気付いた。一段上がった奥に畳の部屋がある。よく見ると褥が敷いてあった。暖かそうな綿入りのものだ。驚いているとひたひたと人の歩く音が聞こえた。
「……来てくれたようだな」
狭霧の元に来たのは寝衣に身を包んだ泰正だ。これにはさらに驚いて目を見開いてしまう。
「……泰正様?」
「狭霧。もう観念して俺の妻になってくれ。そうしたら守ってやれるし」
「何を言って。私はまだ嫁ぐつもりはありません」
狭霧が言い募ると泰正はちょっと眉をひそめる。苛ついたのかすぐ近くにやってきた。そして狭霧の手首を強く掴んだ。あまりの痛さに顔を歪めた。
「これは若殿の命でもある。逃げる事はできない。狭霧、お前はもう俺に嫁ぐのが決まったんだ」
「……え。そんな話、聞いていません」
狭霧が答えると泰正は黙り込んだ。背中と膝裏に両手を差し入れて気がついたら横抱きにされていた。そして褥の上に降ろされた。
「……狭霧。こんな形で結ばれたくはなかったが。仕方ないんだ」
「……泰正様。信じていたのに」
そう言って狭霧は一筋の涙を静かに流した。泰正はそれを親指で拭ってやる。静かに唇に接吻をされた。初めての接吻の味は苦いものだった。
翌朝、狭霧は喉の酷い渇きと全身の鈍い痛みで目が覚めた。横には泰正がすやすやと眠っている。よく見ると彼は非常に整った顔をしていた。そう思いながらぼうとしていた。不意に泰正が眉のあたりをぴくっと動かす。ゆっくりと瞼を開けた。
「……狭霧。起きていたのか?」
「……はい」
掠れた声で答えた。狭霧は起き上がり脱いだ衣を着付けようとする。が、足の付け根や腰の鈍痛によって上手くいかない。泰正は気付いたようで素早く自分の衣を羽織るとこちらにやってきた。
「無理はするな。着付けは俺がやるから」
「すみません」
謝ると泰正は「気にするな」と言う。その後、泰正に衣を着付けてもらい、帯を締めてもらった。
「ありがとうございます」
「……声が酷いな。ちょっと待ってろ。水をもらってくる」
泰正は衣桁にあった上着を羽織って寝間を出ていく。狭霧は昨夜の事を思い出した。自分は泰正と一夜を過ごした。男女の関係になってしまった。それに考えつくと顔から血の気が引く。指先から冷たくなっていくようだ。父の信玄にどう言えば良いだろう。逡巡していると引き戸が開けられた。
「……狭霧」
入ってきたのは泰正だ。手には竹筒がある。後、竹の葉で包まれた何かもあったが。彼は閉めると狭霧に近づいてきた。
「水と朝餉をもらってきた。竹の葉の包みに喉に良い花梨の実の蜜漬けも入っている。食べたらいい」
頷いて受け取る。狭霧は竹筒の蓋を開けた。きゅぽんと音が鳴る。中の水をごくごくと飲んだ。体に染み渡る感覚がした。一通り飲むと蓋を閉める。竹の葉の包みも開けると三つ程の握り飯と薄黄色の蜜漬けらしき果物、大根のお漬物が入っていた。木の枝で作ったお箸もあった。それを手に取り握り飯を頬張る。塩の味がして美味だ。二個食べると大根のお漬物もぽりぽりと口に入れた。それらを食べ終えてから花梨の実の蜜漬けも食べてみた。ちょっと苦いが堪えて完食する。残った握り飯を泰正に勧めた。
「……残り物ですみません。よかったらどうぞ」
「ああ。じゃあ、もらう」
そう言って泰正は残ったもう一個の握り飯を一口で頬張った。指に付いた米粒も綺麗に食べた。狭霧は竹筒の水をもう一度飲んでから泰正に返す。
「あの。色々とありがとうございます。そろそろ、私は侍女用の部屋に戻ります」
「……待ってくれ。お前はもう俺と夫婦なんだ。今夜には俺の館に来てもらう」
えっと狭霧は二の句が継げない。泰正は立ち上がり部屋を出て行ってしまう。しばらく驚きのあまりその場を動けない狭霧だった。