二話 恋とは?
狭霧はさてどうしたものかと悩んでいた。
泰正が狭霧に文を送ってきたからだ。
まあ、今夜にでも会おうというものだったが。
待ち合わせの場所は桜の大樹の下でだ。
ふうと息をつく。
どうすればいいのだろうか。
昌に相談してみよう。
そう決めた後、狭霧は昌を探して回った。
狭霧はやっと昌を見つけた。
そして泰正から文が届いたと話す。
すると昌は驚いた表情になる。
「……上野様が狭霧さんに文を?!」
「そうなの。私によ。なんかね、今夜にでも会おうと書いてあるの」
「今夜にかあ。狭霧さん。それ、恋文ではないんですか?」
恋文と言われて狭霧は黙り込んだ。昌はどうしたのかと慌てた。
「あの。狭霧さん。大丈夫ですか?」
「……え。ああ、大丈夫よ。昌ちゃん。これは恋文なの?」
仕方ないので昌は狭霧に文を見せるように言う。渋々ながら手渡されたので昌は内容に目を走らせた。
『狭霧殿へ
今夜にでも会おう。待ち合わせの場所はあの桜の木の下だ。
是非とも来て欲しい。それでは。
上野より』
短い文章ではあったが。読んで昌は狭霧をまじまじと見つめた。
「……これ。どう読んでも恋文ですよ。上野様もやりますね」
「ええっ。そうなのかしら。私にはただの文にしか見えないわ」
「狭霧さん。あなた鈍いですね。わたし、今になって心配になってきました」
昌はため息をついた。ここまで色恋事に疎いとは思わなかった。狭霧は今年で十六になるはずだが。もう、今のご時世ではどこかに嫁いでいてもおかしくない。だというのにこれまで色恋事に遠くていられたのはお方様と若殿、父君のおかげに他ならないなと思った。何と言っても狭霧はかの武田信玄公の娘だ。そんじょそこらの男がおいそれと手を出せるはずがない。この館の中にいたから狭霧は無事でいられたのだ。そう結論づけると昌は苦笑する。
「狭霧さん。今夜になったら桜の木の下で待ってみたらいかがですか。上野様は約束を破る方ではないと思いますよ」
「……そうね。行ってみるわ」
狭霧は頷いた。昌は泰正の恋路がうまくいく事を密かに願ったのだった。
そうして夜になって狭霧は庭にある桜の大樹の下で泰正を待っていた。が、初冬の寒い中で薄衣でいるのは思ったよりもきつい。カチカチと歯が鳴り小刻みに体が震える。まだかと思っていたらかさっと落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。俯けていた顔を上げるとそこには見慣れた背の高い人影があった。
「……ああ。待っていてくれたのか。狭霧殿」
「文にここで待つようにとありましたから」
「そうだったな。狭霧殿、もし良ければだが」
「何でしょう?」
「……明日もここで会わないか。温石や上着は持って来るから」
何故とは狭霧は聞かなかった。すぐに今の季節では体が冷えてしまうとわかったからだ。泰正は苦笑したらしい。
「まさか、そんな薄着で待っているとは思わなかった。狭霧殿。もうちょっと気をつけた方がいいぞ」
「わかりました」
頷くと頭に手をぽんと乗せられた。くしゃくしゃと撫でられる。狭霧は泰正の大きくて温かな手に驚く。
「狭霧殿。もう、武田の父君の元に帰るか?」
「え。上野様。何を言って……」
「……もう北条の館もいつ戦になるかわからん。今は氏政様の父君が健在だからいいが。綺螺姫様に男が生まれなくて焦っておられるようだし」
それを聞いて狭霧は成る程と思った。泰正が自分をこちらに呼び出したのはこの事を伝えるためだったのか。泰正は頭から手を離すと狭霧の肩に手を置く。
「狭霧殿。綺螺姫様に何かあったら俺を頼るといい。仕事の面倒くらいは見てやるよ」
「はあ。それは有り難いですけど。上野様の迷惑になりませんか?」
「別に迷惑になんかならん。むしろ、君の事は好ましく思っている」
狭霧ははっきりと言われて驚いた。まさか、泰正が自分を好ましく思っていたとは。
「……上野様。私を好きになったって何も出ませんよ」
「それはわかっている。狭霧殿。俺が君に声をかけていたのは心配だったからだよ。もし、君に乱暴を働く男がいたらと思うと。平静ではいられない自信がある」
真面目な調子で言われて狭霧は頬が熱くなるのがわかった。
こんなにまっすぐ想いを告げられるのは初めてだった。泰正の射るような視線から逃げたくて顔を俯ける。すると泰正は肩に置いていた手を背中に回す。そのまま、そっと腕の中に閉じ込められた。要は抱きしめられたのだが。狭霧は泰正の鼓動が早く鳴っているのに気づいた。
「上野様」
「今だけは泰正と呼んでくれ」
耳元で囁かれた。狭霧はどうしたものやらと戸惑う。
「……泰正様。私なんかを好きになったって得な事はないですよ。碌な事がないというか」
「それを決めるのは君じゃない。俺だ」
それはそうだけどと狭霧は思った。泰正は抱きしめたままでしばらくいる。不意に腕を解くと額に接吻した。唇の柔らかさと熱さに狭霧は余計に恥ずかしくなる。かっと体が熱い。
煌々とした月光の下で恋人同士になった二人を複雑な思いで綺螺姫は見つめていた。それには誰も気づかないのだった。