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一話、狭霧姫の日常

  桜姫が亡くなって早くも十年が過ぎていた。


 娘の狭霧姫は今年で十六になる。

 彼女は現在、晴信の正妻の静子姫が生んだ綺螺姫付きの侍女として北条家にいた。

 綺螺姫は十八歳であったが。

 北条家の氏政に嫁いでいた。

 綺螺姫は二度か三度身ごもっていたが何故か子が無事に育つ事はなかった。

 一番最初に生まれた男の子は生後二月もしない内に亡くなっている。

 綺螺姫はまだ十三歳で氏政も仕方ないと言っていた。

 そうして綺螺姫は三人目の子を身ごもったが。

 この子も無事には生まれず、亡くなった。

 狭霧姫もこれには心を傷めていた。


「……狭霧。今日も良い天気ね」


 そう言ったのは主で異母姉でもある綺螺姫だ。

 狭霧は頷いた。


「そうですね。お方様」


 言いながらも綺螺姫に糸切り(ばさみ)を手渡す。

 それを受け取った綺螺姫は縫っていた途中の長衣を畳の上に置いて糸に玉留めをする。

 ぱちりと糸を切った。

 今、綺螺姫は夫の氏政に贈る長衣や袴を仕立てている。

 こういう事は侍女にでも任せた方がいいのだろうが。

 綺螺姫は自分でやりたいと言ったので狭霧や年かさの侍女が一から教えていた。


「もう三人目を身ごもって一年は経とうとしているわね」


「ええ。お元気であればもう二歳になられていますね」


「そうね。せめて一人でも男の子が生まれてくれればいいのだけど。なかなか難しいわ」


 綺螺姫は淡々と言った。

 氏政は側室を迎えずに綺螺姫をただ一人の妻として扱っている。

 そのせいか綺螺姫に世継ぎを望む声があった。

 彼女が嫁いだのはわずか十二歳の時だ。

 なのに子が無事に育たず、落胆している人々も多いようだった。


「……お方様。そう気になさいますな。わたしは味方ですよ」


「ありがとう。狭霧がいてくれて良かったわ」


 綺螺姫は微笑んだ。

 が、その表情には(かげ)りがある。

 狭霧は自分が代わって差し上げたいと思うが。

 こればかりは難しい。

 ふと異母弟の勝頼を思い出した。

 彼も元気にしているだろうか。

 狭霧は綺螺姫に渡した糸切り鋏を裁縫用の箱に仕舞いながら考えた。


  狭霧はさてと次の事を思い出した。


 廊下の水拭きをしていたのだ。

 今は初冬なので風も水も冷たい。

 ぶるると震え上がりながらも雑巾で拭いていく。

 一所懸命に床の筋目に合わせて汚れを取る。

 狭霧の父が見たら怒りそうなものだが。

 それでもと無理に頼み込んだのは狭霧自身だ。

 渋る侍女を説き伏せて一人でやっている。


(ふう。母上も元は小さな城の城主の姫だったと聞くし。私はいらない姫。これくらいはやらないと)


 いらない姫と本人は言っているが。

 正妻の静子姫はずっと狭霧に影でそう言っていた。

 男子ではなかった事から周囲は落胆していた。

 それを狭霧は敏感に感じ取っている。

 それでも母が生きていた時は良かった。

 狭霧に気にしないように言ってくれていたからだ。

 お岩もそうだった。

 が、今はその二人もいない。

 母の桜が二十六歳で亡くなったのが十年前でお岩は後を追うように七十歳で亡くなる。

 それが五年前だったか。

 異母姉の綺螺姫がこの北条家に嫁いで六年が経っていた。

 狭霧が仕え始めて九年になるだろうか。

 そんな事を考えながらも拭き掃除を黙々とやったのだった。



「……狭霧殿。何をやっている?」


 後ろから低い声がかけられた。

 狭霧はぎくりとして振り返った。

 そこには薄藍色の上衣に袴を履いた背の高い青年が立ってこちらを見ている。

 年は二十歳くらいだろうか。


「……あの。何かご用でしょうか?」


「何かではない。君、またそんな事をやっているのか。この前も注意したはずだろう」


「そうは言っても。私はこちらには侍女として来ていますし。それよりもお仕事を放ったらかして大丈夫なんですか?」


 狭霧が言うと青年ー北条家に仕える家臣の上野泰正(うえのやすまさ)は押し黙る。


「私は大丈夫ですから。泰正様は早くお戻りになった方がいいですよ」


「……それはそうだが。狭霧殿。お方様が心配しておられたぞ」


「何故ですか?」


「君がそういう下女がやるような事を率先してしているからだ。まったく。それくらいは他の者に任せればいいのに」


「そういうわけにはいきません。私はこちらに厄介になっている身。掃除くらいはしないと」


 泰正は今日で何度目かのため息をつく。

 狭霧はきょとんとした目で彼を見たのだったーー。


  翌朝も狭霧は拭き掃除や雑用にとてきぱきと働いた。


 それを綺螺姫達は諦めた目で見ていたが。

 ただ、綺螺姫の夫の北条氏政や家臣達はよく働く侍女と褒めていた。

 狭霧が実は綺螺姫の異母妹だと彼らは知らない。

 お岩がいれば、こっぴどく叱られたろうがーー。

 とにかく狭霧は動いていないと落ち着かない性格だ。

 侍女の内、彼女と同い年の(まさ)は事情を知っているので苦笑いしつつも見守っていた。


「……狭霧さん。もうお昼ですよ。そろそろ、お掃除は休んでごはんにしましょう」


「あ。もうそんな時刻なの。じゃあ、ごはんにするわ」


「ええ。けど狭霧さんはいつもよく働きますね。疲れませんか?」


「疲れはするけど。でもね、働いていないとお方様や北条家の方に申し訳なくて」


「そうですか。けど皆様はあまり気にされていないようですよ」


 昌が言うと狭霧は小首を傾げた。


「え。私より気にしていないの。それ、本当?」


「ええ。わたしが見る限りはですけど」


 昌はにっこりと笑いながら頷いた。

 狭霧は不思議そうにする。

 昌は彼女らしいなと笑みを深めた。


「では。もう休みましょうか。行きましょう。狭霧さん」


「……うん。ありがとう、昌ちゃん」


 二人はそのまま、侍女用の部屋に戻ったのだった。



 狭霧はお昼ごはんを食べて昌と話に花を咲かせた。

 何といっても二人はまだ十六歳だ。

 いろんな話をするのが楽しくて仕方ない。


「へえ。狭霧さんも隅に置けませんね。よく声をかけてくる殿方がいるなんて」


「……上野様の事かしら?」


「そうですよ。上野様はお方様の背の君の氏政様の側近ですからね。北条家では出世頭といえます。やりましたね」


 昌はうりうりと狭霧の肩を腕で小突く真似をする。

 それもそのはずだ。

 上野こと泰正の実家は昔から北条家に仕える名家らしい。

 もし、狭霧が嫁いでも泰正は家格で釣り合う相手といえた。

 が、侍女としてやっていきたい狭霧はピンとこず、ふうんと気の無い返事をするだけだ。

 昌はそれが焦れったくて仕方がない。


「狭霧さん。思い切って上野様とお付き合いしたらどうですか。それとなくわたしからお伝えしますから」


「昌ちゃん。いきなりどうしたの?!」


「……だって狭霧さんは仮にもかの信玄公のご息女ですよ。ご正妻である三条のお方様が母君ではないだけで。もうどこかへ嫁いでいてもおかしくないのに」


「昌ちゃん……」


「あ。ごめんなさい。こんな事言ったって始まらないのに。けど上野様は良い方ですよ。考えておいてくださいね」


 昌はそう言うとそそくさと立ち上がる。

 狭霧の分のお膳を持って廊下へ行ってしまった。

 ふうと息をついてそれを見送ったのだったーー。

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