一、甲子園前 祭りの後 ~生還~
東京オリンピックから、6年の歳月が経とうとしている。復興五輪とは名ばかりで、あの日から何一つとして、事は進まないままだった。あの東北大震災の記憶も薄れ、忘却の彼方に消え去ろうとしている。それがとても、むなしく感じられるのだった。
あの年、3月11日に、真奈海は灰原家の長女として生まれた。
皮肉なことに、名付け親となった祖父は波に飲まれ、今では帰らぬ人だった。
自分も、生きて還れるだろうか…。
原発に怯えて暮らす日々とともに、病弱な身体の容態が悪化して、起き上がれなくことを恐れる夜もまた、彼女にとっては日常であった。
「私は16まで生きられない」
その事実を知ったのは、高校に入って間もなくのことだ。深夜を過ぎて、明かりの洩れる狭い居間を覗くと、母が泣き崩れ、父も酒をあおり、目を赤くしているのが目にとまった。
ふだん明るく振る舞う二人を知るだけに、心が苦しく、より一層、みじめな思いに駆られたのだった。
「死にたくない」
夜に怯えるそんな思いが、一瞬にして吹き飛ぶ、陽光が差し込んだかのような、衝撃的な出来事があった。その輝きに、目もくらむ鮮烈な思いを抱く。
「新設の白河東稜高校、硬式野球部、甲子園へ出場!」
真奈海の通う学校が、初出場で決勝に進出し、強豪聖光学院を大逆転で破って、甲子園への出場を決めたのだ。初代生徒会長である真奈海は、病弱な身体を押して、学校で球児たちを迎えた。その時の、彼らの見上げるような姿を、今でも鮮やかに思い出すことが出来る。
夏の昼下がり、校庭の片隅にある樹の影で、真奈海は一冊の本を手にしていた。ページをめくろうとしたその時に、強い風が吹く。
青々とした芝生が、かすかに揺れ動き、そして真奈海の、流れるような黒髪をなびかせる。腰まで流された、そのつややかな髪は、よく上質の絹糸のようだ、と言われていた。
髪を押さえて上げた顔は、とても小さくて、そして端整だった。目鼻立ちのくっきりとした、清楚な容姿をもつ彼女はとても有名で、その名を郡山市で知らない者などいないほどである。
福島県の観光大使になるようにと、打診があったほどの美貌だが、彼女はその病弱を理由に、きっぱりと断り続けている。
ふと、校舎の方に振り返ってみると、一人の少年が、こちらへ向かって歩いて来るところだった。
そして真奈海の側に立つと、そっと腰を下ろして、何かを差し出してくる。戸惑いつつも受け取ると、彼はただ静かに微笑んで立ち上がり、そのままグラウンドへ向かって去っていく。その時、初めて彼が、野球部のユニフォーム姿であることに気がついた。
その背番号は18番。あの木賊祐樹だ!
県大会の決勝、聖光戦で、エース三浦に代わってマウンドに立った彼は、学校一のヒーローである。
2点を失った九回の表、ピッチャー代わってなおも一死満塁、相手は強力打線の中軸!
そんなピンチを無失点で抑え、グラウンドに吠える彼の雄姿に、憧れている女子生徒も数多い。
木賊の様子に不審を抱きながらも、彼が練習に加わるのを見届けると、真奈海は手にした紙の袋を、そっと開いた。
「決勝で投げた、ウイニング・ボールだよ。元気出してね」
そんなメモとともに出てきたのは、野球の硬式球だった。端整な文字で書かれた短い言葉に、どっと熱いものが込み上げてくる。目尻に浮かんだ涙を、指先でそっと拭い、そしてグラウンドを見つめた。
「生きたい」
素直にそう思えた。
せめて彼が、甲子園を戦い抜くまで…。
それが真奈海の、生きる希望となった。
2026年8月6日。
その日、学校で行われた壮行式に、真奈海は出ることが出来ず、ただベッドの上で、静かに横になっているだけだった。学校で倒れ、その日まで七日間高熱が続いて、彼女は入院していたのだった。そんな彼女のもとに、二つの寄せ書きが届けられている。一つは彼女の同期の友人たちからで、そしてもう一つは、硬式野球部からだった。その中に、背番号18番をつける、抑えのエース木賊祐樹の名前もある。
「深紅の旗を、必ず渡しに行きます。だから待っていてください」
その優勝宣言に、とても励まされた。
「決勝戦を必ず観に行くから。だから、勝ち残って…」
そんな思いを、耳の不自由な彼に届けたかった。溢れる涙を懸命に拭い、そして身体を起こす。二枚の色紙を胸に抱いて、ただひたすら震え続けた。
そして彼らは、夏の全国高校野球選手権大会開幕の日を迎える。今回の甲子園球場には全国の怪物たちが集まってきていた。
北海道からは、39回目の出場を誇る北海が、沖縄からは興南が、そして仙台育英、智弁和歌山、帝京、大阪桐蔭、明徳義塾、広陵などが出場し、頂点を目指して鎬をけずる。
中でも一目置かれているのは、2年連続の春夏全国制覇を成し遂げ、三連覇を目指し勝ち上がってきている、大阪の強豪、大阪桐蔭高校である。
二連覇の立役者となった、エースの右腕間宮優樹と、二年連続で決勝本塁打を打った、センターの川上聖司。その二人が、最後となる甲子園で、不敗神話を築くこと、常勝の誇りを見せることを、その心に誓い、燃え上がるような闘志を胸に秘めて、開幕式に臨んでいる。
その大会の開幕戦を務めるのが、前回準優勝校の智弁和歌山で、福島代表の白河東稜はそのカードに組まれた。
そして、その開幕戦を翌日に控えた、8月7日。
真奈海の手術が行われることが決まった。
原因不明の先天的な代謝機能の低下により、極度の貧血と心臓への負担があることが分かったためだ。8月末の造血器移植手術に入るまで、体調を整えていくことを、彼女は強く求められていた。
白河市内で最も大きな病院に移り、個室を与えられてその日を待つ。そんな彼女が平然としていられたのは、福島代表となったナインとともに、自分も闘っているのだという確信があったからだ。
17対16で、強豪に競り勝った球児に続いて、自分も生きて還って見せる。そう心に誓う。
「思ったより元気そうね」
久しぶりに面会に来た妹が、姉の姿を見てそう言った。血の気は薄く、肌が透けるように白かったが、その目には確かに、力があった。ふと、サイド・テーブルに置かれた一つの硬式球を見て、妹は笑った。
「お姉ちゃんはいつも、人気者だね。私も、あともう少し綺麗だったら、お姉ちゃんと一緒でも恥ずかしくないのに」
そう言いながら、「触ってもいい?」と確認を取り、そしてボールを手に取る。流れるようなその動作に、真奈海はそっと囁いた。
「亜紗海は十分綺麗だよ。だから、もっと自信を持って」
「お世辞でも嬉しい」
他愛もない姉妹の会話に、穏やかな時間が過ぎた。そして帰り際に、亜紗海が言った。
「明日だね」
「うん」
一回戦の第一試合、対智弁和歌山戦が、明日始まろうとしていた。