2話
──あれからどれだけの月日が過ぎたのだろうか。
十織は石の壁と鉄格子に囲まれた場所に一人、静かに佇む。
艶を無くした黒髪は伸び放題であり、身に着けている服装は布切れといって差し支えがないほど粗末なものであった。
──そう、今の十織は奴隷である。
あの日キーブルによって奴隷に落された十織は、この世界の春夏秋冬を経験するほど長い時間を奴隷として過ごしてきた。
生活の質? ──ああ、最高なものだ。
十織に自由は一切与えられず、この期間に起きたイベントといえば労働と睡眠、そして時折行われる身体計測。
さらに、満足に腹を満たせない食事や不衛生な寝床。
風通しや防寒等の機能を一切考慮しないこの空間は、冬は凍えるほど寒く夏は目を開けていることすら嫌になるほど蒸し暑い。
──どれも、人に対する扱いとは思えないものばかり。
無気力な様子で、頭を脚の間にうずめる。
──ジャラ。
不意に、首元に括りつけられた首輪の鎖が擦れる音が小さな空間に響いた。
これは隷属の首輪と呼ばれる道具。
この首輪を身に着ける者は主人と奴隷の契約を結んだことを意味する。加えて、躾けやお仕置きも行えるという万能なツールだ。
十織も何度か、この首輪による苦痛を味わったことがあった。
例えるならば、──臓腑が軋み掻き混ぜられたと錯覚するほどの耐え難い激痛。
──どうしたら、これほど効果的な道具を生み出せるのだろうか。
心の中で、十織は皮肉を口にした。
──記憶巡りを打ち切って、明日に備えて寝ることに決める。
そうしなければ、明後日の朝日を拝むことが出来なくなるかもしれないからだ。
十織は目をつむってから数分もしないうちに、夢の世界へと落ちていった。
◇◆◇◆◇
熟睡とはかけ離れた浅い睡眠の中、十織は耳を突くような騒音で目を覚ます。
「起きろ奴隷ども!」
声のする方向からは、半鐘を叩く音が鳴り響いた。
──もっとも、微睡に浸っている間もなく、次々と乱雑に食事が配膳されていく。
今日のご飯は硬くなったパンにほぼ水に近い冷たいスープだ。これを周りの奴隷たちは文句の一言もあげずに、無言でむさぼる。
十織も例に倣って頂く。
無論、栄養など足りるわけが無い。そのため、十織含めてた奴隷すべてがあばらが透けてしまほうど痩せ細っていた。
──これが終わるといよいよ、十織たちは牢獄もとい自室から引きずり出される。
しかし脚や腕に枷はない。
枷をつけられないのは、主人と呼ばれるものがこの首輪のみで事足りると考えているからだろう。
──そして作業場と呼ばれる施設についた。
到着するとすぐに、十織は黙々といつも通りの作業に取り掛かる。
もちろん、休む間など与えられず、空調など一切気を使わないため十織は玉の汗を流しながら取り組んでいた。
──ここはあまりに過酷で、いつ人が死んでもおかしくない労働環境といって差し支えない。
いや、既に死人は片手で数えられない量見てきた。
作業を始めてだいぶ時間が経過したころ──
「七一二番。よろこべ、今日がその日だ」
「……いや、いやぁあああ!」
十織と同じ奴隷の一人が絶叫する。十織たちは番号振りをされており滅多に呼ばれない。だが時折、番号で呼び出され連れていかれる者がいた。
──ただ連れていかれた人間は誰一人として帰ってこない。
管理者に腕を掴まれ、強引に彼女を連れ去る。それでも抵抗を諦めない彼女は、正気すら失った様子で喚き散らす。
「わたしは見たッ! 変な部屋に連れられた人が泣き喚くその声を──!」
「黙れ」
ついに管理者は鬱陶しく感じたのか、彼女を乱暴に気絶させる。その後、伸びきった髪を鷲掴みにして引き摺りこの場を去った。
十織はそれを作業の手を止めずに、ちらりと少し離れた現場を目視する。
あの後奴隷は一体どの様なことが行われているか、十織は知らない。けれど、彼女が残した内容が本当ならば少なくともロクでもないことは間違いなさそうだ。
(今更……生きるも死ぬも変わらない)
惰性に管理者の命令にしたがって、生と死の瀬戸際を歩く毎日を生きているというのだろうか。
──作業を長らく続けて陽が沈んだ頃、ようやく作業場から解放された。この頃には、全員おぼつかない足取りで自室へと戻る。
十織も例にならって、自室に戻ろうと歩き始めたところに男二人が目の前に立ちふさがった。
「そこのお前、ガルド様がお呼びだ」
「……はい」
十織には、ただ頷くしか選択肢がない。
しかし、十織は連行された奴隷のような用件ではないことを経験的に知っている。この作業が終了する時刻に呼び出しは、主人──ガルドの気まぐれの遊びであると。
首からぶら下がった鎖を乱暴に引かれながら、強引に歩かされる。
しかし抵抗などしない、──十織は暴れたところで拒否できないことを知っているから。
十織は引かれるがままに歩く。
このガルドという主の元へ通じる通路を利用した数などもはや一桁では足りない。
それほどまでに、十織はガルドに気に入られているのだ。
気付けばガルドがいる部屋の前に到着する。
「ガルド様、やつを連れてまいりました」
「ああ、入れ」
「失礼します」
男は扉を開けて、十織をガルドの元に差し出す。
「ご苦労、下がれ」
「っは」
その後、男は速やかにこの部屋を退出した。使いの者が去った後でも、十織はガルドを目の前にしても、何一つ様子を変えずにうつむく。
「よお、どうだ今日の気分は」
「……悪くありません」
ガルドの陽気な質問に、十織は機械的に返答する。
しかし、ガルドは何の行動も起こさない。十織自身それならそれでいいと、構わず下を見ていたが、突如胸ぐらをつかまれた。
「何が悪くねぇだ、ああ?」
そういうと、ガルドは十織を壁際まで押し込み、ポケットから取り出した杭で十織の手の平ごと壁に打ち付けた。
「ぅ……」
「なんだ、足りねーか? ほら、おかわりだ」
追加の杭がもう片方の手のひらごと壁に打ち込まれる。けれど、今回十織はうめき声をあげずに歯を食いしばった。
「なんだよ、可愛くねぇな。最初の頃はびぃびぃ泣き喚いてたくせによ」
そういうと強烈な拳が十織の顔面に直撃する。
もちろん無傷で済むわけも無く、鼻はおかしな方向へ曲がりとめどなく血が流れ落ちる。
「なあ、なんか言えよ。つまらねえだろ?」
言ったところでしょうがないと十織は心の中で訴える。第一にこうやって黙っていることが一番楽に切り抜けられる方法だとと十織は知っている。
そのうえで、口を開く──
「……楽しいですか」
「楽しい? はっはっはっはあ! ばかかおめぇ、こうしててめえを嬲って必死に耐える姿を見てると心が踊るねぇ!」
ガルドは狂気の笑みを浮かべて、懐からナイフを取り出して十織の右太ももに突き立てる。
「くぅ……」
──やはりこの男は狂っている。
尋常でない痛みに歯を軋ませながら、本気で耐える。意識とは別に、目が湿っぽくなる。それを見たガルドは──
「おお、いいねぇ。最初の頃はここのへんでお漏らしだったかあ?」
ガルドの問いかけに目を逸らし、沈黙でもって答えた。すると、再びナイフを取り出し左太ももに突き立てた。
「っあ……」
流石の十織も苦痛に顔がゆがむ。
気付けば十織の足元は、十織の絶えず流れ出る地によって小さな池ができ始めていた。しかし、ガルドはやめる気配を見せるどころか、ヒートアップしていた。
「まだ続くぞぉ? ほら、返事は?」
十織は沈黙をもって返答とした。
十織はガルドがここまで正確に急所を避けて上手くいたぶる技術に、ある意味感心する。決して必要でも褒められたものではないけれど。
「──おい、無視か?」
「い、っがあ」
だんまりを決めた十織が気に食わなかったのか、容赦なく両脚に突き刺さったナイフを揺する。奥まで刺さったナイフが動くことは想像以上に激痛を走らせた。
「ほら、もう一回だ。……返事はぁ?」
「……、はい」
あまりの情けなさに、涙が零れそうになる。
どうあっても人間という生き物は、身体に正直であるようだ。
「いいねぇ」
そう耳元で囁き、フルスイングの張り手を十織に与える。
壁に固定された四肢はさらに出血し、頭は張り手の方向へ吹きとんだ。そして片耳から血を垂らす。
「じゃあよ、こういうのはどうかなぁ?」
挙句の果てにはガルドは再度懐から取り出したナイフをゆっくりと十織の首へ近付けていく。だが、十織は一切表情を作らず、ただ無心と受け入れた。
(そうだ、それでいい……。こいつがいる限りおれは何もできない死体と変わらないから)
ついに切っ先が喉ぼとけに触れて――
「はぁ……、疲れちまったな。もういいや、ちょうど飽きた頃だったしな」
ガルドはナイフを地面に放り投げ、十織やこの惨状を放棄して部屋の扉へつかつかと歩き始める。
扉に手をかけたとき、思い出したかのようにこの部屋にいたもう一人の人物へ呼びかけた。
「──そうだった。お前、こいつを明日までに使える状態まで直しておけ。それと部屋の掃除も忘れるな」
そういってガルドは部屋を後にした。
彼が退出した後、その場に残っていた人物は『かわいがり』の後の治療担当であった。その女性は萌葱色で上品に輝く髪を後ろで結んだポニーテールのような髪型。眼鏡の奥にある目はどこか知性に満ちている印象を受ける。
そんな彼女が、いまだ壁に貼り付け状態となった十織に近寄る。
「ちょっと痛いかもしれないけれど、我慢して」
この言葉を合図に、両手両脚に刺さったナイフを順番に取り除く。この時、彼女は十織の顔を見て難しい顔をした。
「普通なら痛いの一言あってもおかしくないが、表情すら変わらないとは……」
手を止めず処置を済ませる。そして、今までの常識にない魔法と呼ばれるもので傷口を癒していく。
この世界では魔法と呼ばれるものがあるようだ。
それは生活や狩り、戦闘など幅広く用いられているらしい。
ようやく最後の手の穴を塞ぎ終えると、彼女は笑顔を差し向けてくれる。
「よく頑張った、じゃあ今日はもう寝なさい」
そういい、彼女は十織にこっそり飴玉を渡し、部屋にまで送ろうとする。だが、十織は立ち止まる。
「なぜ、そこまで優しく接してくれるのですか?」
「なんというか……、なんでだろう?」
少しの間天井を見上げた後で、再び十織と顔を合わせる。
「やっぱり、色々考えて見たけどダメだったよ」
「そうなんですか……」
「そんなことはいいんだ。部屋まで送るよ」
「すみません」
そういって、彼女は十織を奴隷のための部屋まで先導してくれた。といっても、何度も連れてこられすぎて、戻り方は知っている。
十織の部屋という牢獄を目前に彼女は急に止まった。
──そして振り返る。
「ねえ、君。わざと煽っただろう」
「……どうでしょう」
十織の様子をみて、彼女は微笑む。
「少し動揺したか?」
そういって、できる限り感情を制限している十織が見せた、僅かな動揺を指摘する。
少しの間をおいて──
「そうした方が楽ですから。大体、自分なんていようがいまいが──」
「おい、そうい……って私が言えたようなことじゃないか」
そういう彼女の顔は、複数の感情が混ざって白黒つかない様子だった。続けて鍵をあけて、十織を部屋に入れるように促す。
「わるかったわね、じゃあさようなら」
彼女は十織を寝床に入れる。その際、こっそりと十織に一粒の飴玉を差し渡した。
ついに女は、十織の元から姿を消す。
「……どうしろっていうんだ」
寝床というにはあまりにお粗末な寝床に戻った十織は小さく呟いた。
──現状、逃れるすべなど無いといって間違いはない。
そのような状況で、何の力を持たない十織に希望をもって生きろというのは少し酷ではないだろうか。
けれど、考えたところで何も変わらない。
そう割り切って、十織は飴玉を口に含むとボロ布のような毛布に包まる。
「……おいしい」
久しく知覚しなかった甘みを噛みしめる十織。
──そうして、十織にとって無意味な一日は今日も終わりを迎えたのだった。