第四話:違う世界
まじきもいという言葉の意味を説明すると、アギトのショックはすごかった。
顔は青白くなり、目には大粒の涙が溜まっている。小さい声で「何がいけなかったんだ…」と連呼するその様はもはやホラーだ。
「嘘だよ嘘。フレイアさんがそんなこと言うはずがないでしょ?」
僕はそこまで傷つくとは思わなかったので、ばらすことにした。
「嘘? ほんとか? 本当に嘘なのか!?」
必死に僕に確認をしてくるアギト。肩を揺すられすぎて、首が痛くなってしまった。
「お前、俺をからかいやがって、悪魔だな」
これは魔王候補に言うには悪口なのだろうか。
まあいい。とアギトは僕に木剣を手渡した。なんとも立ち直りの速いことだ。
持ってみると、意外に重い。木剣というからには、流石に相手を切るなんてことは出来ないだろうけど、これは十分相手を撲殺出来るだけの質量を持っているだろう。
とりあえず構えてみろと言われ、剣など一度も持ったことがないので、なんとかそれらしく構えてみる。
「やっぱりお前、初心者だよな…」
はぁ、とため息をつくアギト。やっぱりそういうのはすぐにわかるようだ。手合わせをするまでもなく、明らかに僕は初心者なのだ。
これはなかなか大変そうだ、とアギトが呟く。
しばらく考え込むアギトだったが、結局今日はアギトが一対一で僕に指導してくれることになった。
「とにかく、今から俺に一撃を当ててみろ。まあ無理だとは思うけどな。ちなみにごく稀に反撃もするぞ」
「わかった」
アギトは右手に持つ剣を構えるでもなく、だらりと力を抜いた状態だ。僕の構えを見てそれで十分と考えているのだろう。アギトは何も構えていない。
ただこちらを見てるだけ。なのに、どうしても切りかかることが出来ない。動こうとする度に、何故だか圧迫感を感じて、抑えられてしまうのだ。
これはアギトの気迫に押されてるのだろうか。でも、目に映るアギトは、体中の力を抜ききった、やる気の無いような状態に見える。
ならば、これは僕が尻込みしているだけなのだろうか。切りかかるどころか、誰かを殴ったことさえあまりないのだ。木剣とはいえ、構えてもいない相手に切りかかることを、無意識の内に拒否しているのだろうか。
わからない。ただわかるのは、目の前に居るこの男は、自分よりも遥かに強いということだ。
いつまでもじっとしているわけにはいかない。これは訓練なのだから。
僕は意を決して両手で剣を握り締めると、上段から思い切り振り下ろした。
そして…。
まるで時間の流れが急激に遅くなったかのようだった。
スローモーションのようにゆっくりと動く僕の剣を、アギトは少し体を横にずらしてかわす。
さらに攻撃を加えようと視線がアギトを追いかけた瞬間、アギトと目が合った。
その瞬間に感じる強力な圧迫感。先ほどよりも強烈に感じるそれに、ついに僕はその正体に気づいた。
心の奥底で感じ、無意識に体を強張らせ、自由を奪うその存在――――恐怖。
終わった、と思った。
深い黄金の瞳。吸い込まれるようなその瞳と目が合った瞬間、僕は自分の首が胴体から離れ、吹き飛ぶ光景が見えたのだ。
もしかしたら、僕の意識は一瞬無くなっていたかもしれない。気が付いたとき、僕の首はちゃんと胴体と繋がっていて、首元にはアギトの木剣が突きつけられていた。
途端に体中から吹き出る汗。体は震え、木剣は僕の意識とは関係なく地面に落ちる。息が出来ない。そしてそのまま、僕は気を失った。
気が付いた時、僕はベッドの上にいた。もう見慣れてしまった自室の天井が視界に広がっている。
「なんで、こんなとこに?」
部屋に帰ってきて寝た記憶がない。それに、身体中に感じるこのひどい怠惰感。いったいどうしたというのだろうか。
喉に渇きを覚え、備え付けの水をコップにそそぐ。それを一気に飲み干すと、頭がいくばくか冴えたが、肝心な寝る前の記憶がはっきりしない。
一先ず、寝よう。異常に感じるこの怠さは、もしかしたら風邪でもひいたのかもしれない。
そう思い、再び目を閉じた僕の脳裏に、気を失う直前の光景が一気にフラッシュバックした。
アギトに切りかかり、かわされ、そして目が合った瞬間に見えた光景。
体中の毛が逆立つような感覚。
がばっ、と起き上がり、自分の首に手をあてる。
「ちゃんと…繋がってる」
それはそうだ。アギトは剣をすんどめしたのだから。僕の首から上が吹き飛ぶ光景など、ただの想像なのだ。
そうわかっているのに、勝手に震え出す身体を、僕は両手で抱きしめた。
生きた心地がしないというのは、こういうのを言うのだろうか。
目を閉じれば浮かぶ、余りにリアルな映像。もしかしたら、本当は自分はすでに死んでいて、どこかに僕の首無し死体が落ちているのではないか。と考えてしまう。
――――恐怖。
そう、確かにあの瞬間、僕は死への恐怖を感じたのだ。
初めて経験する、自分の命を脅かす体験。
実際は、アギトは殺気など放っていないし、殺す気だって微塵も無かったのだろう。
しかし、アギトの相手を殺す為の動き。その余りに洗練され、流れるように、まるで僕の首に吸い込まれるような自然な動作が、僕に死ぬしかないという光景を想像させ、恐怖させたのだ。
最低でも、あと半年近く。僕は魔人部隊に所属するということを、早くも諦めかけていた。
おちゃらけな性格をしていますが、アギトは本当に強いんです。