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曇天の日には収穫が多い  作者: 織部 和宏
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曇天の日には収穫が多い  前半




さて今私はここに私自身の現時点での結論であるところの論文を記そうと考えている、私は五十歳を過ぎやがて人生の最終盤に至ろうとしている、そして何かしらの社会的な貢献と今後呼ぶことができるような何かを試みようと考えている、逆に言えばそれだけ私は五十年以上も生きていながら社会的に多くの貢献をなすことができずに今日に至っているといってよいのである、「社会的貢献」という言葉はもしかしたら若い人々にはあまり馴染みのあるものではないのかもしれない、だが私はそれでもここに私の思いというものの痕跡を留めたい、確かにそれは私の生きた証を何かしらの形で残したいという思いもあるのだが、しかし同時に僭越ながら私が以下記す文言の中にもしかしたら読者諸君にとっていつか有益となる何らかの精神的価値を潜ませることができるのではないかとも考えているからだ

どのようなものであれ他人の文章を読むことは一定の知的な意味でのメリットをその読者にもたらす、どのような読み方をするかにもよるが最初の十数行を読んで何らかのインスピレーションに襲われたならばとりあえずその書のタイトルくらいは記憶しておくべきかもしれない、あくまでも私見であるが心振るわせるものは期待とは反対の方向にある、したがってふと手にしたものの中に実は重要な人生のための指針が隠されていたりもするのである

そのように考えると年齢を問わず私たちにとって大切なのは好奇心そのものであるといえる、結果を追い求めると程度の差こそあれ予定調和を重んじるために面白いものではなく利益あるものへと目を向けがちである、したがって瞬間的な熱情に動かされてしまい理性的な判断が疎かになってしまうということもありうるであろう、だがチャンネルを限定せずに好奇心を優先させるということはそれ即ち「自己の可能性の模索」でもあるのである

誰にでも可能性がある、もし何らかの挫折が貴兄に限界を告げても別のチャンネルが貴兄に新たな道の存在を示すかもしれない、道は信じるものの数だけそこに存在する、後は貴兄が決断するか否かのみである、確かに決断とはタイミングの問題でもある、だがそれまでの数値化できる実績に目を奪われ過ぎなかったのであればおそらくそこでは他人の意見は最終的には貴兄の判断の障害にはならないであろう

これは知性の問題ではなく理性の問題である

したがって過去のデータを不問に処すことは可能である、理性とは自己を顧みる精神のことである、「自己を顧みる精神」が「にもかかわらず諦めない意志」と結びついたとき、そこには貴兄にしか分からない法則が貴兄にしか分からない暗号で運命の手により告げられる

ここである種の象徴的な文言を記すことはおそらく許されるのであろう

確固たる意志は闇の彼方にある一筋の光だけを見据えている時にこそその本領を発揮する、なぜならばその意志は光の中を歩んでいるのではないが故に迷いを持たないからだ

それに対し光は喜びであるがしかし視界を保証するが故に迷いをもまた常に帯同させている

なるほど集中力を必要としている人は概ね夜型の人が多いのかもしれない

デザイナー、作曲家、小説家、画家、脚本家、数学者、建築家、そして何らかの独自性を現実の仕事の中に生かそうと試みているすべての社会人


おわかりであろうか?

順調でない日常を歩む者こそ真理を知りうる者

私はすでに真の感動は期待とは逆の方向にあると書いた、ならばたとえ今迷いの中にあったとしてもそれを日々反芻し悔やむ必要はないということである、確かに夢が貴兄を救うであろう、夢は過去を清算し未来の扉の在りかを指し示す、条件が整わないことを嘆くのではなく自らを変革し時に現実の一歩先へ回り込むことを夢は教える

もうすでに数十行過ぎた、まだ貴兄がここに留まっているのであればどうかもう数十行お付き合い願いたい

この書に目を通しているということはそれだけで貴兄には探している何かがあるということである、それが仕事でもないにもかかわらずこの書に辿り着くということはスケジュール帳が予定で埋まっているような人にはおそらくあり得ないことであろう、順風満帆の時に人は神を思わない、レールを逸れるという非日常が選ばれたるものに巡り巡って復活のための切符を渡すのである

私はここで貴兄には一つの質問しかしない

貴兄はその日常において偽りの言葉を弄していないだろうか?

その返答がNoであることを確信し次へ進もう


この書は私の日常における二つの疑問に自ら答えを出すという目的で書かれたものである、その疑問とは人生はなぜかくも辛いのかというミクロの疑問と、神はなぜ人間を造ったのかというマクロの疑問である、したがってこの書は私個人の神に対する論考であると同時に私的な意味での幸福論でもある、いずれにせよここに述べられたすべては私論であり僅かもその域を脱するものではない、ここを十分確認の上諸君どうか読み進んでいってもらいたい

またこの書は上記したような内容であるため神という存在を強く意識した論文となっている、したがって無条件に無神論の立場をとっている人々とはやや相容れない部分も生じる可能性があるが、しかし私自身特定の宗教に帰依している人間ではなく故に特定の宗教団体に所属しているわけでもないので何かしらの組織の代弁者というわけではなく、おおよそ中立的立場は維持できていると考えている、そのため宗教的な要素、色彩を嫌う方々にもある程度はその論旨を受け入れていただけるのではないかと考えている、なにとぞ理解賜るよう御願い申し上げる

またこの書は私が五十歳を超えて書き始めたものであるためたそがれの扉(後に詳述)を開けた者でなければやや理解困難な部分があると思われる、たそがれの扉とはつまり老いの始まりのことであるが、たそがれの扉を開けて初めて人は死の近いことを知る、そして死を明確に認識することによって残された時間がすでに費やした時間よりもはるかに短いことを知る、だがそれはある意味かつて経験したことのない決断を行うチャンスでもあるのだ

私も決断を行い今この書を記そうとしている


有神論者であることとたそがれの扉を開けたことは読者がこの書を理解するうえで外せない条件ではあるが、一方でそれは絶対条件ではないともいえる、それは私が神について論じながらしかし宗教家でも宗教学者でもない単なる一市民に過ぎないということにその論拠があるのであろう、確かに人生はあまりにも短く故に五十年という年月もまた神や人生を語るには決して十分な歳月ではないのであろう、だがこうも考えられるのかもしれない、おおよそ論文というものは完璧なものではなくそこにある隙間に読み手それぞれがそれぞれの確信に近い要素を補うことで初めてそれは完成を見るのであると、いや、おそらく論文だけではあるまい、作品と形容されるものはすべて発表されたときには未完成でありそれを受け取る者が能動的にそれを鑑賞しまた批判を加えることでようやく完成を見るのであると

ならばこの作品もまた同様であろう、極論すればたとえその時はそれを正当に評価することができなかったとしても場合によっては数十年後に新たな評価をそこに加えることができるかもしれないのである

そういう意味では重要なのは感動ではなく鑑賞なのかもしれない、つまりそれを知ること、そのように考えれば16歳の少年少女が西洋の分厚い古典文学に手を伸ばそうとするのも、時期尚早の一言で片づけられるべきものではないのかもしれない

芸術にせよ、哲学にせよ、その道を究めたものだけが持つ普遍性というものは洋の東西そして慣習や風習のすべてを乗り越えて時に永遠という名の衣を纏う、人は永遠足り得ないが人が生み出すものは極めて稀にではあるが惑星間の障壁をも越えうるものなのである


私がここに記すその内容は時に何らかの論争の火種になるのかもしれない、また人一倍の信仰心故にその組織において重要な役割を担っている方々の感情を害することもあるかもしれない、そのすべての責任が私にあることは言うまでもないがどうか私が気まぐれでこのようなことを述べているわけではないということだけは何卒重々ご理解いただきたい、またこの書に端を発する議論には積極的に関わっていく所存でありまた読者諸君の慧眼による反駁にも浴したいとも考えている、また可能であればある場所に集まって活発な議論を交わすことができるならばそれは私にとっては至上の喜びとなろう


では諸君あとがきの後に訪れるであろう諸君らの感慨に思いを至らせながらも序としてはここで留めたいと思う


2016年7月2日

                            織部  和宏





神とは何か?


序においてすでに私はこの書を理解するうえでの条件として、有神論者であることと、たそがれの扉をすでに開けたものであることの二つの条件を示した

たそがれの扉については後に述べるとして、神についてはこの書を理解するうえで非常に重要な概念であるため、ここで最低限の私なりの定義を述べておきたい

ただしここで断っておかなければならないのは序でも触れているとおり、私自身が特定の宗教に帰依していないということだ、これは読者諸君の多くにとっては意外なことと捉えられるかもしれない、なぜならば特定の宗教、宗派の属していない人が神についての持論を展開するなどということはあまり耳にしたことがないからだ、しかも私は神を信じると公言している、いってみれば無宗派の有神論者ということになるのだろう

幾分か例外的な状況にある一人の理論家によって紡ぎだされるこの持論の数々はおそらくは神を信じる者にとってもやや特異なものと映るかもしれない、おおよそ宗教というものは戒律を持つものでありまた組織を持つものである、私はそれをほぼ無視する形で論を進めていくことになるため、なるほどここで読者諸君に強くこの書を薦めることは難しいのかもしれない、しかし同時にこのような書が前代未聞に近いという点からも、ある意味神を信じる人々にとっては何らかの関心を惹くことになる箇所はいくつかあるのではないかとも思う、果たして特定の宗教に帰依していない人間の説く神とは?

そのあたりのところを以下論じていきたい


だが序でも述べているとおりこれはあくまでも私論であり、その領域をわずかも脱するものではない、そういう意味ではこれは私という一人の日本人の独白のようなものであって読者がそれに賛同を覚えない限りは一切の普遍性を持つものではない、故にこれを一老人の戯言であると片付けられても私には反論する理由はない、私論であるが故にこれを価値あるものと認めるか否かはすべて読者の方々ひとりひとりにかかっているのである

ここまで読んでいただいてこの章の冒頭で触れた二つの条件に適っていない読者の方は確かにこれ以上読み進めるのを控えたほうがよいかもしれない、この書は私論であるが故にあまりにも独特な個性を備えすぎている、分からない人にはおそらく理解のきっかけすら捉えることができずに、その途上でこの書より去ることになるであろう、その難解さの筆頭に来るのが、私がこれより述べるところの神である、この神は古今東西あらゆる宗教において語られてきた神とその性格を異にしている、詳細は後で述べるとして私は二神論という立場をとっており、これだけをとっても他と違っている、私にとっての神は私論故主観的であり、その意味では特定の宗教に帰依する人々からすれば普遍性を欠くものであるのかもしれない、しかし一方で私論故に自由でもある、したがってこの私論に登場する神はこれまでのどの宗教の神にも似ていないと断言することができるであろう、「私と神」そして「私の神」、なるほど神の第一条件は普遍であり、故に権威である、しかしそのように考えるとこの私論に登場する神はややその趣を異にしているかもしれない、この私論に登場する神は一般論としては普遍でありまた権威も伴っているが、私論であるが故に現時点では通常備わっているであろうと想定される神特有の性質をこの私論に登場する神にそのまま当て嵌めようとすることは人によっては幾分かでも抵抗を覚えるかもしれない、したがってここではこの私論に登場する神は普遍と権威を併せ持ったものであるにもかかわらず、その一方で現時点では私の頭の中にのみ存在するものであると限定することも可能であろう、これは明らかに一歩引いた婉曲的な表現であるが扱っている題材が誤解を受けやすいものでもあるためここではやや抑えた表現のまま次に進みたいと思う

しかしだからといってここに述べられていることのすべてが読者諸君にとって無益なものであると言い切ることはできないであろう、僭越ながらもしこの書に登場する神に諸君のいずれかが普遍を見出すことができるのであればその神はその彼にとっては権威たりえるものとなるかもしれない、なぜならばこの書は私論であると同時に幸福論であり、幸福とはそれぞれひとりひとりの内側に存在するものであるからだ、幸福とは万人が希求するものであり、またその追求の権利も保障されなければならないものだ、読者の方々の脳裏に潜む過去の経験とインスピレーションにより培われたより良い人生を生きたいと望む本能は、この書に網羅された数々の箴言めいたメッセージの中にある種のヒントを見つけることができるかもしれない、それは最終的には読み手個人のフィルターによって濾されその結果その読み手にしか分からないであろう秘密の暗号となって長く読者の記憶と魂の片隅に存在し続けるかもしれない

確かに幸福は主観的だが、信仰は客観的だと定義することは可能であろう、だがその客観的な信仰が最終的にどのような形であれ、人々の幸福と安らぎに客観的であるが故に結びつかない部分があるのだとしたら、神を語ってはいるのだが、中世以前のキリスト教社会であればおそらく異端と片付けられていたであろう論理(主観的である)にも何らかの発言権がこの21世紀において与えられてもよいのではないのかと思う、神の声を多数で昼間に明確にそして繰り返し聞いた者たちはいない、神とは少なくとも人間に対しては沈黙を貫くものだ、だからこそ日常生活に潜む僅かなヒントの中から神とは何であるかのインスピレーション、ひらめきを感じ取る必要があるのだ

神を論じることは必ずしも哲学と同一ではない、だが神を論じることが哲学の一端と交わることはあるだろう、人間の終着点はほぼ例外なく個々人の幸福の実現でありその過程のすべては救済のための徳の実践である、宗教はおおよそそのための手段であり、宗派を変えることそれ自体が神への冒涜ではない、つまり神とはあらゆる障壁を越えていくものである、故に神とは創造主として定義され、また人類すべての信仰の対象となりうる唯一の存在である、普遍とは共通のことであり一切の「例外のない」正の価値のことである、だがここで気をつけなければならないのは、だからといって普遍は個別の善を目的とする探究心を犠牲にはしていないということだ、これについても詳細は後に任せるが、客観が多くを得ると異端が生まれる、それは普遍の定義に背くことになる、これも後に詳述するが幸福は多様性を完全に包含するものでなければならない

言うまでもなくすべての人間には等しく幸福を追求する権利が付与されていなければならない、もし現在一部の地域においてそれが現実のものとなっていないのであればそれは実に悲しむべきことである、客観は共通としばしば褥を共にする、それ自体は決して悪いことではない、がしかしそこに100人いるとしたらそこには100通りの幸福の形がある、それは何人たりとも侵してはならないものであり、故に表現および言論の自由は政治のみならず社会的レヴェルにおいても守られなければならないのであって、もしそれが侵犯されるようなことになれば、私たちは全力を挙げてそれに抗しなければならない、共通とは個別の集合体でなければならない、そうでなければ少数派の意見は少数派であるが故に最終的には圧殺されてしまうことになりかねない、この21世紀においても尚そのような事態が想定されるのであるとしたら、いったいこれまでの人類の文明の進歩というものは何のためであったのであろうか?

そういう意味では個別が個別足るために、そのための第一歩を記すべきときにもう来ていると思うのだが、実際にはまだそのスタートラインまでの距離は決して短くないといわざるを得ないであろう、幸福の形とはしばしば夢の形である、したがって幼少期においてこそ幸福を追求する権利=個別の権利が保障されている必要がある、正義は共通をその基盤とするが(これも後に詳述する)、幸福はそうではない、この書は序でも触れてあるとおり、私論であり私的幸福論である、故に個別の権利というものを私としては重視して筆を進めていきたいと思う、なぜならばそれは少数派の権利を擁護するものであり故にこの21世紀以降(偶然にもミレニアムの世紀である)の人類の文明の進歩を考えるときにすぐにではないが数十年後には極めて重要な思考の概念となっていることを確信しているからだ、そういう意味では20世紀の祭典がオリンピックであり、21世紀の祭典がパラリンピックであるといえるのかもしれない、これは障害者のみを対象とするものではないということはすでに読者諸君にも心理的に伝わっていることであろう、少数派というものはいついかなる時代にも存在するものであり、個々人の幸福を追求する権利こそ人権の基本中の基本という考え方が世界に敷衍していくその最初の世紀に今世紀がならなければならないと私は考えている、私たちはもう十分レッスンを受けているのだから


さて神に話を戻そう

神とは少なくとも私にとっては「私」という存在を証明する唯一の絶対である、なぜならば「万物は対象を求める」(これも後に詳述する)のであり、この世に単体で存在するものはひとつもないからである、すべては二つで一つであり、したがって神も宇宙もそれぞれ二つずつ存在している、私たち人間も神とつながることによって対象を得、それが存在の証明に結びついている、人間が人間足りうるためには私たちの存在の対象であるところの神の存在は必要不可欠であるが、神が人間の作り出した想像上の存在でないことは、私たち人間に「生」と「死」の二つがあることからも容易に推論できる、生は永遠に生ではなく死もまたそうであろう、この世の絶対法則(故に真理)は、「相矛盾する役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」(この言葉もこの書のキーワードのひとつ)であるのだから、魂が生と死の間を飽くことなく往復しているように、つまり死があるから生が証明されているように、私たちも神という人間とは対照的な存在があるから、そして人間は不完全であるがしかし神は完全であるが故にこの世に存在することが可能なのである、神はまるで植物のような存在であり私たちの身近にある存在である、神を知るのに宇宙を知る必要はない、まして物理学も不要である、これも後に詳述するが人間にとって最も重要な力は「感じる力」である、ここを読み誤ると専門であるが故に普遍を失うことになりかねない、彼その人にしか分からない論理はそれが明らかになった時点においてすでに救済には達しえないのである、救済という言葉には「万人の」という枕詞がなければならない、そうでなければそれは救済にはならない、単なる象牙の塔の論理である、そういう意味では救済を司るものは知ではない

では何なのか?

それは善である


神とは何か?

すでに私たちの存在の証明であると述べた

次に登場する言葉は「善」である、では善とは何か?善とは私たち人類の究極の目標である、これはこれもまた後に詳述するそしてこの書の実に重要なキーワードになっている「負の肯定」と見事な対照をなしている

善とは悪でないもののすべてである、故に善とは神そのものを体現する言葉である、これも言うまでもないことであろう、神に悪意があると仮定するにはこの世(私たち人類がすでに知っているすべてのもの)は美しすぎるのだ、これを判断するのは感性であり、知性ではない、おそらくこれから私たちが知ることになるすべても同じように美しいであろう、確かに中には恐ろしさを覚えるほどの美しさも存在するのであろうが、神の御業による世界(宇宙)というものがいかに限りなく創造的で、にもかかわらずバランスの整った美しさに覆われているかを遅かれ早かれ私たちも遍く知ることになるのであろう

この地球という惑星の年齢は専門家の方々に云わせれば48億年だそうである、なぜ48億年もの間この惑星は生き続けて来られたのだろうか?よくよく考えてみれば不思議な話である、「奇跡」という言葉で表現するのは簡単な話しだが、しかしそう簡単な話なのだろうか?いや、奇跡という言葉が適当だとしても、ではなぜこの惑星に奇跡が?それはこの惑星地球が神に選ばれた惑星であるからだ、なぜ?それは神がこの惑星に生命を誕生させまた育むことを決断されたからだ、なぜ、生命を?神の理想の実現のためにそれらが必要であったからだ、ではなぜ人間を?読者諸君には俄かには信じられないだろうが、このように推論することができる、神は神の理想を実現するために人間をこそ必要とした、だが人間は実に不完全な存在であるが?神が人間をわざと不完全に造ったからだ、なぜ不完全に?それは第一に人間の中から絶対者になろうとする者が出てこないようにするためだ、また万が一出てきても必ず失敗するようにするためだ、第二に人間の文明の進歩において人間に直線的にではなく渦を巻くように、曲線的に進ませ、つまり遠回りをさせるためだ、なぜ遠回りを?それは神が理想とするゴールは端にあるのではなく真ん中にあるからだ、なぜ直線的にゴールへ向かっては駄目なの?苦しみ、もがき、時に憎み、いわゆる負の肯定を経験せずにゴールへ辿り着いてもそれは意味がないからだ、ゴールには何があるの?神の理想がある、神の理想とは?「究極の善」の実現である、究極の善とは?負の肯定の対照をなすものであるが、それを確立することで最終的には負に勝ちうるものである、だがその内容については現時点では大幅な推測に基づいて語るしかなく、私個人にとっての文字通り生涯の究極の課題となっている


もう一度、善とは?

神の理想、ゆえに救済

そして不完全であるが故に人間こそがそれを追求すべき役割を担っている

不完全なのに、なぜ?

負の肯定を人間に経験させるためだ、おそらくそれはグレートターン(後に詳述する)の後で神の意図は理解されるであろう


神を信じるが故に善を奉じる、善を考えるということはこれから生まれてくる人々のことを考えるということだ、したがって、卑近な例でいえばごみの分別は善である、また樹を植えるのも善である、そして借金をしないも善である、100年後の人類が100年前の人々に感謝をすると多くの人が推測できるすべてが善である、「次の人」は善を考えるうえで実に重要なキーワードだ

そして善にはもう一つの重要な側面がある

それは普遍である


神は私たちの存在の証明、神は善の体現、そして神は普遍、唯一の普遍

普遍とは何か?

普遍とは無限のことである、

無限とは何か?

神の裁量のことである

神の裁量とは何か?

神の理想の実現までの過程のこと、つまり私たちを取り巻く時間の流れのことである

故に時間とは神の呼吸のことである

時が存在する限り神が存在する、いや違う、時がなくとも神は存在する、だから神は普遍なのだ、神が息を止めれば時間も止まる、神は時間をも操る、確かに普遍故偉大なのであろう、しかし翻ってみればその神が人間を造ったのだ、実に驚くべきことだ、なぜならば神は自らの手を汚してまでその決断を下したからだ

なぜか?

ここに普遍の解読のための重要なヒントがある

キーワードはやはり「負」(この言葉はこの書で何度も繰り返されることになる)であろう、美しいだけでは神の理想は完成しない、また美しいだけでは神は普遍足りえない

手を汚す、なぜそれが必要なのか?

神もまたそうしたからだ

神には崇高で、この世の一切に捉われない超然とした印象があるが、しかしそれだけではない、神は肉体を酷使する労働者でもあるのだ、神が人間(特に男性)に労働を課したのは人間が神との約束を破ったからではない、人間が知恵を使って人類にとって有意義な創造を行うためには労働が必要不可欠であることを人間に教えるためだ、労働なくして文明の進歩はありえない、実はそれを最もよく知っているのが神御自身なのである、そういう意味では神の創造は今尚続いている


額に汗する神、だが実際はそうなのだ、この世の史上において最も働いたのが神、七日目に一度は休んだが、八日目にはまた労働を再開している、だから普遍足りえるのだ、労働に次ぐ労働、それが普遍につながる、労働を知らぬものは普遍を知らぬ、故に神を知らぬ

神は裁判官であり、同時に農夫である、土にまみれ、水を汚れた手で掬っては喉を潤す、朝陽に目覚め夕べに家路に着く、神はもちろん人間を超えた存在ではあるがそのように推測することは可能だ、神が人間を自分に似せて造ったわけではもちろんない、それはありえないであろう、それほどまでに人間は不完全である、だが人間のどこかに神は神性に似た何かを潜ませた可能性はある、人間が殺し合いの結果滅亡してしまわないように

神はすべてを創った、故に神はすべてを救う、恐れながらそれは神の責務でもあろう、生命の何たるかを最もよく知っているのが神である、その神がどうして自ら創り上げたものを滅ぼすのか?ありえないことである

神はすべてを創り、すべてを救う、故に普遍である


最後に、神だけが権威と呼べる唯一のものである



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