2.知らないオオカミ
冬の空気が好きだ。
ウォールはいつも冬になるとそんなことを考えます。冷えた空気は混じりけがなく、森の奥深くで眠る動物たちの小さな寝息まで聞こえてくるようです。時おり肌をひっかくようなするどい風が吹くこともありますが、そのどこにも寄り道しないまっすぐな冬の空気が、彼は好きなのでした。
けれど他の二匹は違うようです。
「あーあ、冬なんて来てほしくねぇよう。寒いし、どいつもねぐらに引っこんじまって森に入って来ねぇし。はぁ、腹へったな」
「ソレ、昨日も言ってたゾ。けど、分かル」
「だよな。昨日だって結局、魚ふたつによく分かんねぇすっぱい実と甘いのにちっこい実しか食えなかったしさぁ」
「オマエ、一番食ってタ」
ウォールの後ろをついて歩きながら、シギーとジャッキーがそんな話をしています。二匹の声は冬の空気の中では少し耳障りです。ウォールはちらりと後ろを見やって、それから聞こえないようなため息をつきました。
「静かにしろ。これではおれたちの方が先に見つかる」
「あ、す、すまねぇ」
シギーがしゅんと頭を下げて、ジャッキーは自分は関係ないと言うように顔をそむけました。
もう一度、ウォールは息をはきます。冬は息が白く色付くので、そこもとてもお気に入りです。
* * * * *
今夜もまた、肉にありつくことはできませんでした。けれど今度はシギーも文句は言いません。初めにウォールに叱られたのが理由のようです。
黒に似た濃い青色をしていた空に、少しずつ白い光の筋が伸びていきます。夜のにおいに朝のにおいが混ざっていくのが分かります。このにおいはオオカミを途端に眠たくさせて、食事中でもかまわずねぐらに帰りたくなるのです。ウォールは口の端に付いた果物のしずくを長い舌でなめて、顔を上げました。オオカミの時間はこれで終わりです。
今にもそこで眠り込んでしまいそうなジャッキーを鼻先でつついて歩かせながら、ねぐらまでの道を帰ります。シギーはまだまともに歩いていますが、ふらりと道を外れてしまうことがあります。そちらも気にしていなくてはいけません。遠くにまで来てしまった、とウォールは反省するのでした。
するとその時、ウォールの耳がくるりと動きました。何かが聞こえます。声のようです、しかもそれは苦しそうなうめき声に聞こえます。森は決していつも平穏な場所ではありませんが、何だかその声は心をざわめかせます。
ウォールは二匹を起こすと自分たちだけで帰らせました。そして耳をすませて声の居場所を探します。森の中の問題はいち早く解決させるのがモットーだからです。
レオンにしたよりももっと慎重に、気配を消して声の方へ近づいていきます。
――メスか?
声と臭いで直感的にそう考えていました。
森にはウォールたち以外にあとふたつのオオカミの群れがあります。どちらも十頭ずつほどおり、ほとんどひとつの群れように一緒に行動していると聞いています。その中にメスは半数ほどいたでしょうか。だとすると群れのオオカミが一緒にいないのが不思議です。“おとり作戦”などに巻き込まれては嫌だな、と思いながらウォールはわざと音を立てて転がっていた枝をふみつけました。
「誰だい!?」
やはりメスのようです。ウォールは背の高い草を掻き分けて進んでいきます。
メスのオオカミは、枯れ葉の積もった土の上に身体を横たえていました。ウォールを見てとても驚いているようです。
「あんたは……ウォールかい?」
「オレのことを知っているのか」
「当たり前だろう? レオンとかいうライオンと並んで有名じゃないか」
それもそうでしょう。この森にウォールを知らない者はいません。ウォールがみんなを知らなくても、です。
「お前はルーブの群れの者か? 知らない顔だ」
「顔じゃなくて、“見たことないくらい汚い毛色”って言いたいんだろう?」
そのオオカミは自分のことをそんな風に言います。ウォールは改めてその姿をよく見てみました。
全体はウォールと同じ白色をしていますが、ところどころに濃い灰色の毛が混じっていて、うっすらとした斑点がいくつもあるように見えます。背中には更にたくさんあるようです。
「わざわざ周りを回ってまで見るんじゃないよ、失礼なやつだね」
「悪い。しかし汚くは見えないが」
「あんたは目がおかしいんだよ、きっと。朝日が昇っちまったからだね。さっさと帰っておねんねしなよ」
太陽はとっくに見えるところまで昇ってきていました。ですが不思議なことにさっきまであった眠たさは吹き飛んでいます。
「それで、まだ質問に答えていないが」
「あぁ、ルーブだっけ? そんなやつ知らないよ。あたしはずっとあたしだけで生きてきたんだ」
群れに属さないオオカミがこの森にいたことを、ウォールは今まで知りませんでした。平和な地とはいえ、メスが一匹で生きるのに不自由は少なくないでしょう。途端に心配になりました。
「どうして群れに入らない? キケンがないわけではないんだぞ」
「メスだからって馬鹿にするんじゃないよ。他のもんの助けなんかいらないん、だっ、うあ」
つんと言い放ったメスのオオカミが、突然身体を丸めて苦しみだしました。
ウォールの鼻に血のにおいがかすめます。どうやらこのオオカミはケガをしているようです。素早く近づくとその箇所を確かめました。
傷は右の後ろ足にありました。足の付け根の辺りに枝が刺さっているのです。出ている部分は短く、くわえてみましたが抜けそうにありません。取り除くのは今よりずっと痛いはずですが、このままでは傷を治すこともできないでしょう。少しでも早く抜いてやるべきだ、とウォールはすぐに動きます。
「ここで待っていろ。それを抜ける者を探してくる」
「い、いらないったら。自分で何とか、できるんだから」
「大人しくしろ。こんなことで強がってしぬのは、弱い証拠だ」
「っくそ!」
突っ伏したメスのオオカミを置いて、ウォールは駆け出しました。
* * * * *
りすのリリは急いでいました。
風邪を引いている赤茶毛うさぎのラビーの代わりに、お手紙なるものを森とつながる一本道に届けに来ています。どうしてこんな場所なのかは分かりませんでしたが、お願いされた通り、山と森のちょうど真ん中辺りに置きます。そばにあった石を拾って、お手紙が飛んでいかないように上に乗せました。
終われば早く帰らなくてはいけません。森はこわい動物がたくさんいるからです。
ですがリリは足を止めてしまいました。この間もぐらのトッポンに取られた、お気に入りの木の実のネックレスが落ちているのを見つけたのです。
リリは目がよく、とても遠くまで見ることができます。そのネックレスはなんと森の入り口の近くにありました。
どうしようかと悩みましたが、今は朝です。森の動物たちはきっと眠っていることでしょう。すぐに取って帰れば気づかれない自信もありました。
「きっと大丈夫よ。わたしは速い、わたしは速いんだからっ。……ほら、もう着いた!」
拾い上げると、やはりそれはリリのお気に入りのネックレスでした。じっくり見ても、どこも悪くなっていないようです。
「もうトッポンったら! あとでしっかり怒っておかなくちゃ」
宝物が見つかった喜びで飛びはねながら山へ帰ろうとした、その時です。
後ろから強い風が吹き付けました。嫌な予感がして、それでも振り返らずにはいられません。
ゆっくりと振り返って、すぐそばにあったオオカミの大きな顔に、驚きとこわさで声が出なくなりました。口を開いたまま、身体が勝手にふるえるだけです。
――食べられる!!
リリがそう思ったのに答えるように、オオカミ――ウォールの口が開きました。
「助けてくれ」
「…………え?」
それがウォールとリリが最初に交わした言葉でした。