一日目~廻る因果~
灯りが一切無く、一寸先も見えない闇の中、一人の女性の悲痛な叫びが響く。
彼女が立つ場所は、自宅の屋根の上。普段ならば、そこに上がる事なんて、豪雪地域の人々が、雪かきで登るくらいのものだろう。しかし、今だけはそこにいるしかなかった。というよりも、屋根の上だけが居場所だった。
眼下には、屋根までも届きそうなほどの濁流が流れ続け、遠くではずっと消防車とパトカーのサイレンが鳴っている。
彼女は喉を潰しながら、それでも叫び続け、心の中で自問していた。
(どうして、どうしてどうしてッ!?)
いつもならば、夕食を終えて、食器を洗いながら、テレビとスマホに夢中の娘に宿題をしなさいと小言を言う時間。そんな自分に、娘がもうちょっと待ってとか言いながら、結局一時間以上は動かなくて、それに溜息をつく。仕事から帰ってきた旦那はそんな私達を見て苦笑を浮かべて……そんな、そんな何でもない一日が今日も送られるはずだった。
憔悴しようと、喉が切れようと、涙が枯れ果てようと、それでも彼女は何度も何度も叫んだ――最愛の娘の名前を。
地震発生直後、彼女はすぐに車を走らせ、娘の通う中学へと迎えに行き、家へと連れ戻った。しかし、家がもう目の前のところで津波がすぐ背後まで迫り、車を乗り捨て、二人は二階へと上がった。
第一波の時点ではまだ二階は浸水とまではいかなかったが、すぐに第二波が来ることを彼女達は悟った。なぜならば、津波が来る前には必ず、とてつもなく大きな重機が走ってくるような、そんな重く激しい地鳴りが鳴っていたのだ。このままでは二階も危ないと判断した彼女は、すぐさま娘と二人で窓から屋根へと出た。屋根を伝う事に慣れていない二人は何度も足を滑らせながらも、まずは母親が一番上へと登った。滑る足場では、娘が転落するかもしれないという不安があったからだ。自分も何度か落ちそうになるも、ようやく一番上へと登った彼女は、娘へと手を差し伸べた……その瞬間だった。彼女の視界の端に、黒の激流が映った。だが、それに飲み込まれるかもしれない恐怖よりも、娘を失う事の恐怖のほうが勝り、なんとか娘の手をがっしりと掴んだ。放してなるものか……例え、自分が死のうとも、娘だけは絶対に死なせはしない。固い決意が彼女の手に宿った。手を握り締め、娘を引き上げる。あと少し……あと少しで自分の腕の中へ……。今まで生きてきた中で出した事の無いような力で、徐々に徐々に娘を引っ張り上げ……そして運命は彼女の心を嘲笑った。
不運……その一言で救われるような後悔ではない。あの瞬間、娘の手を握る自分の手が汗で濡れていた事、更に余震と津波の振動で地面自体が大きく揺れた事。あらゆる要因が重なり、彼女の手から娘の命が零れ落ちた。最後に見た娘の顔は安堵に近いもので、もう少しで母親に抱かれるという想いを抱いていた。
ありとあらゆるものが流されていく激流に、娘の姿が消えていった。先程までその手に確かにあった娘の体温。それを確認するかのように、彼女は呆然と掌を見つめ……そして絶叫した。
彼女は呼び続ける。その声が波に飲まれてしまおうとも、現実を否定するために叫び続ける。きっとどこかでまだ私の助けを待っている、助けてお母さんって返事をしてくれる。なんだっていい。神だろうが悪魔だろうがどちらでも構わない。この現実を悪夢へと変えてくれるなら。
遠くで鳴るサイレンに彼女は叫ぶ。届かない祈りを。
「た、すけて……娘をッ!!あの子をッ!!お願いよッ、お願いだからぁッ!!」
彼女の叫びはその日、喉が切れて声が出なくなっても、それでも口を動かし続けた。自分の何よりも大切な、愛する娘の名前を……
人が想像出来る限りで最も最悪な災害……その想像を軽々超えてきた現実。その現実に誰もが心を砕かれ、癒える事の無い傷を負うことになるだろう。そんな現実離れした現実を前に、目の前の少女は愉悦とも、恍惚とも取れる笑みを浮かべて、眼下の濁流を眺めていた。
その少女を俺はどこか美しいと思った……寒々しい美しさを少女は醸し出していた。決して、良い意味なんかじゃない。むしろ、彼女の美しさに惹き込まれないよう、これ以上近づきたくないとも感じている。
だが、それ以上に俺は……
「よお、随分楽しそうじゃねぇか。俺も混ぜろよ……クソ餓鬼」
失われていく命や思い出に対しての少女の幸福な笑顔が、どうにも許せそうにない。
声を掛けてようやく俺に気付いた少女は、昼に見た少女とは別人で、ゆっくりと俺に顔を向け……妖艶に微笑んだ。それは、神話に出てくる冥界の女神のようで、背筋が凍るような感覚が奔る……寒いだけかもしれんが。
「あら、いつからそこにいたのかしら?」
少女の問いに後ろの岩肌を親指で示す。
「ガキの頃はやんちゃでね。そこの樹から飛び移ってきた」
「ふ~ん、その顔と同じく、猿並には運動神経は良いようね」
「まあな。そういうお前は、エリザベートバートリーでも信奉してるのか?反吐が出るな」
「ふふ、ちょっとは学があるみたいね。いつもなら不遜なその発言に対して、生きるのも嫌になるほどに身の程を弁えさせてあげるのだけれど、今はとても気分がいいの。だから、不問にしてあげる。感謝する事ね」
冗談……だったとしても許せないが、性質が悪い事に本気で言ってやがる。何か事情があるのかもしれないが、だとしても人の命が無残に散る様を上機嫌で眺めるなんて、頭がイカれてる。
「……そんなに嬉しいか?この災害が、沢山の人の涙がそんなに嬉しいかよ、クソ餓鬼」
相手は年下の少女という事もあり、沸騰しそうになる感情を力ずくで押さえ込んで聞いた。ちょっとは、さ……期待してたよ。嬉しくなんてないって、こんな災害が嬉しいわけじゃないって……そう、言ってくれるのを。人間らしい感情があるのなら、それが普通だろ?
それが俺の杓子定規の限界だった。
「ふっ、ふふ」
小さく漏れ聞こえる声と揺れる肩。零れるそれを耐えて、耐えて……そして爆発した。
「――最ッッッッッ高よッ!!」
両腕を広げ、天高らかに少女はその歓喜の声を解き放つ。空の先にいる神に感謝でもするかのようだった。
「嬉しいかですって?何を当たり前のことを聞くのかしら。今の私を見て分からないの?」
愕然とした。俺の価値観を真っ向から少女はその綺麗な笑顔で否定する。
「当たり……ま、え?」
「そうよ、当たり前。あなたにはわからない?ああ、猿には人間の感情を理解出来るわけないわね」
「人間……?」
自分を人間だと、悲劇にもならない地獄が目の前にあって、それを歓迎する自分を普通だと言うのか?
少女を力なく見つめる俺を見て、ああ、そうかとぽつりと呟く。
「あなたは猿じゃなく豚なのね。そう、それならわからないかもしれないわ。あの豚共と同じ価値観を持っているのなら、私を理解出来ないわよね」
「豚共?お前、何言って……」
少女の言葉が一つも理解出来ない。彼女への怒りは、徐々に恐怖へと変わっていく。
軽い気持ちで言っているならば、ちょっと怒ってやれば良いと考えていた。しかし、どうやらそれは浅慮だったらしい。少女は狂っていたんだ。この状況に陥る以前から、少女は人間を止めるほどに狂っていたんだ。もう、俺には少女が人間には見えなかった。殺人を犯した者以上に、彼女の心は怪物になっていた。
何を言えばいいのか?そもそも俺に少女をどうにか出来るのか?何もわからず、どうしたらいいかもわからない。何よりも……
「……まあ、いいわ。あなたが豚だろうと猿だろうと。そうだ、あなたも一緒にこの世界が壊れる無様な様を見ましょう。私と一緒にこの舞台を観る事を特別に許可してあげるわ。光栄に思いなさい」
子供が誕生日を祝って貰っているかのように、満面の笑みで少女は俺をハッピーエンドなんて有り得ない舞台の観覧に誘う。
少女の狂気に、俺は……
「あら、どうしたの?」
「え、あ?」
俺、は……
「顔が死人みたいに真っ青よ?」
少女の姿が二度と目に入る事が無いほどに、遠くに逃げたくて仕方なかった。
この少女にどうして関わろうなんて思った?儚げな雰囲気があいつに似ているから助けたかった?――冗談じゃないッ!!
あいつはこんな化け物なんかじゃない!人間の血が通った、世界全部の優しさを集めたようなやつだった!一緒だなんて、そんなふざけた幻想を抱いた自分を殴り飛ばしたい!
背を向け、少女の前から立ち去れば良い。目の前の化け物が死のうが知った事か。これ以上ここに居たくない。
ここにいると、あいつがくれた優しさが黒く染まっていくような気がして、無言で立ち去ろうとした時だった――津波の第二波が俺達を襲った。
不覚だった。目の前の猿と話していた所為で、津波の予兆に気付けなかった。足元にある地面が崩れたかのような感覚。バランスが上手く取れなくて、身体が欄干に打つかり……
「……ッ!?」
振動によって浮いた身体が、そのまま欄干を越えようとする。
(嘘、でしょう?)
ここで私の人生が終わるわけが無い。私の願いを神様が叶えてくれたのよ?これからは自分の人生を歩きなさいって、そう祝福してくれたの!
投げ出される身体、欄干を掴もうと手を伸ばす……が、届かない。
違う違う違うッ!ここで終わるなんて嘘よ!
さっきまで眺めていた濁流の光景が脳裏に過ぎる。
生きられるわけ無い。アレは豚を殺す為の天災だったのに、なぜ私を殺そうとするの?これまでの残酷な時間は、これからの希望に繋がる為にあったのでしょう?そうじゃなければ、私はどうして……
「何の為に産まれたのよッ――!!」
悔しくて、意味の無い人生になる事が悔しくてしょうがなかった。だから、私は天を睨みつけた。一瞬の幸福を与えた神へと最後の反抗。私の目には終焉に相応しい黒い曇天の空が映る……はずだった。
「――ってぇ~~~~ッ!!」
でも、私の目に映ったのは、猿か豚かわからない馬鹿の、歯を食い縛る顔だった。
「な、にを?」
「知らねぇよッ!!勝手に身体が動いたんだッ!!テンプレなら、死にそうな人間見捨てる理由なんざねぇだろうがッ!!つうか早く上がって来いよッ!腕ッ!重くて腕がいってぇんだよッ!!」
何か無礼な事を口走った気がするけれど、その馬鹿は私の右腕を両手で掴んで、引き上げようとしていた。
欄干を掴もうとしていた私の手を、生物学上の雄である馬鹿が掴んでいるのに、私は不思議と嫌な気分ではなかった。私にとって、全ての雄は自分を害するだけの価値のない敵なのに。まあ、現在進行形で危機的状況で、興奮状態にあるからかもしれないのだけれど。
「何ぼーっとしてんだボケッ!!重いっつってんだろうがッ!!早く欄干掴めや!」
「あなた、重い重いと……引き摺り降ろすわよ?」
「この状況で余裕だねお前!?さすがイカれてやがるガキは違うわ!……冗談です冗談です!だから体重掛けるなッ!」
……歩道橋に上がってから突き落としてやろうかしら?なんて、冗談をやっている余裕は無いわね。
ちらっと背後を見やると、丁度私のいる高さまで車が濁流に乗せられて突っ込んで来ているのが見えた。
歩道橋スレスレでしょうけど、私は確実に死ぬわね。
馬鹿にも突っ込んでくる車が見えたのか、私の腕を掴む手に更に力が加わる。
「いッ!!」
「それくらい我慢しろ!ていうか、お前早く欄干掴んで登ってこいよッ!」
「……無理よ」
「無理って……無理?何言ってんのお前?」
まったく、私の生死を握っているのがこの馬鹿だと思うと眩暈がしそうだわ。
「足りない脳みそで少しは考えなさい。私のこの細い腕で、しかも冬だからそれなりに着込んで重量のある身体を持ち上げられるとでも?」
至極全うな私の言葉に、馬鹿の顔にアホが加わった。
「……マジでつっかえねぇ~」
「黙れ、殺すわよ」
なんてやり取りをしている間にも、車はグングン私に迫ってくる。もう、本当に時間が無い。つまり……
「ちょっと、早く助けなさい」
「いやいや、人を一人持ち上げるとか、そんな筋力ないですよ俺」
少し焦って、早く引き上げろと促す私に、馬鹿は口笛を吹きながらそっぽを向いた。
「嘘を言わないで!余裕じゃないの!」
「いえいえ必死ですよ?あ、スマホと財布ないや。どこにやったんだっけ?」
「嘘でしょ?ちょ、ねえ!」
「うるさいなぁ。生活必需品がないと今後困るだろうが」
「今はもっと優先するものがあるじゃないの!」
何?なんなのよこいつ!私を助ける為に掴んだんじゃないの!?それとも、さっきまでの私の態度が気に食わないとでも言うの!?
「ほんと、冗談止めてよ!今、そんなことしてる暇なんてないでしょ!私が死んでも良いって言うの!?」
馬鹿から不穏な空気を感じて、私は我武者羅に怒鳴り散らす。自分の命が懸かっている状況で、形振り構っている余裕なんてなかった。そんな無様な醜態を曝す私を、そいつは酷く冷めた眼で見下ろした。いや、見下した。
「その命を、人の死を笑っていたのは誰だ?」
「――な、にを」
そいつの言葉に二の句を告げない。すらすら思いつく罵倒。けれど、それが外に出ることは無い。そいつの眼がそれを許さない。
「他人の命は笑い、自分の命には泣く。なるほどなるほど……テメェの価値観は果たして正しいでしょうか?間違っているでしょうか?俺はなぁ、命に価値をつける馬鹿が嫌いでなぁ……そいつを同じ人間とは認めたくない。つうか、人間じゃねぇ」
本気だ……この男は本気で私にとっての理不尽を打つけている。
何を……この男になんて言えば良い?正直に言うなら、グダグダ言ってないで助けなさい!この下郎!……なのだけれど、多分この男には何を言っても通じない。私の世界と、この男の生きてきた世界は多分、壊滅的に違いすぎる。だから、こいつを納得させる言葉を私は持たない。
持たないなら、もう……
「なあ、おい。なんか言えやガキ。ガンガン打つかりながら流れて来てるから、あの世行きのタクシー到着まであと何秒かなぁ?」
大分下衆野郎的だが、これしかない。人間としてはどうかと思うが、ぎりぎりで引き上げるつもりではいる。ただ、それを悟らせないように、本気でこのままでいるぞと匂わせている。
正直、こいつを引き上げるのは簡単だ。ちゃんと食ってるのか心配になるほどに腕は痩せ細っていて、目一杯力を加えたら冗談じゃなく折れてしまうだろう。そんな身体が重いわけが無い。こいつの腕を掴むとき、欄干に肋骨を打ってしまい、多少は痛かったが。
きっと、あいつは今の俺を見たら背中をぽかぽか叩いて怒るに違いない。でも、こうでもしないと見えそうにないんだよ。
「……ない」
「あん?聞こえねぇよ、ボケ」
こいつの心の奥底にある本当の表情がな。
「あなたなんかに解るわけないッ!!のうのうと生きてきて、何不自由なく人生を謳歌してきたあなたなんかにッ!!」
俺が強いた理不尽への返答には、俺が見たかった年相応の少女がちょっとだけ顔を覗かせた。
車が少女を連れ去るまであと……
「家族というものが……家族が豚畜生だった私の気持ちなんて――ッ!!」
何時間待っても車は連れ去らないさ。
「……はい、よく出来ました」
少女を少し引き上げ、車が打つかる直前で避けつつ、欄干まで上げてやる。
ぽかんとしている少女は、俺を悔し涙で濡れた目で見ていた。うん、やりすぎたかな。大人気ない自分少し反省。
「こっちに戻れるか?」
俺の問いに黙って頷き、少女は歩道橋へと戻ってくる。
戻ってきた少女は俯いて、俺に涙を見られないようにしていた。すると、頭が丁度良い高さにあって、ついつい俺は少女の頭をぽんぽんと軽く叩いていた。
「悪かったな。でも、まあ……そういうことか」
出会ったばかりで酷な事をしてしまったが、少女の慟哭にも似た悲痛な言葉に俺は納得した。
(あの身体の痣と火傷……ありゃあ彼氏じゃなくて、家族に付けられたわけだ)
その家族にも何かしらの複雑な事情があるのかもしれない。悪を悪と決め付けるのは簡単だが、違う側面から見ればまた違う結果になる事もある。だから、一概に少女の家族を悪く言うのは、大人のすることじゃないかもしれない。
(けどよぉ……)
それでも、間違いなくそのクズ……じゃない。汚物様達は少女の人間性を歪め、狂わせるほどの仕打ちをしたのだ。虐待だなんだと言うのは簡単だ。虐待はいけません、最低ですなんて、テレビを点ければ訳知り顔でおばさんやおっさん達が腐るほど言っている。
なぜあの時間、こいつが神社にいたのか……もしかしたら、ここはこいつにとって、本当の意味で聖域だったのかもしれない。唯一の救いの場所。
「…………」
辛かったな、苦しかったな、なんて俺は言えない。少女の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆き、諦め、それらの負の感情を経験したことがないから。あったとしても、少女の比ではないはずだ。
こんな……世界全てを憎むような、そんな残酷と無残を俺は知らない。
少女にとって、この津波よりもこれまでの日常のほうが地獄だったのだろう。こんな地獄が救いと思えるなんて……そんな過酷、想像もしたくない。
「……ろす」
それまで黙っていた少女が、ふと何かを呟いた。
「ん?どうした?」
さっきとは打って変わって、俺に出来る精一杯の優しい声で聞き返した。すると、彼女は俺に身を寄せて……欄干に向かって俺を突き飛ばしやがった。
「殺す殺す殺すッ!」
「待て待て待て待てッ!聞いて!俺の弁明を聞いて!」
同情してた数秒前の俺よ、くたばれ。こいつ全然懲りてないよ!反省するような殊勝な人間じゃなかったわ!
本気で落ちそうになり、少女の両腕を掴んで止める。
「極刑……極刑しかないわ」
「情状酌量の余地ねぇのかな!?」
「この私を辱めて生きていられるとでも?」
「天寿全うするわ!」
少女の腕を振り払い、バックステップで距離を取る。
あ~、本格的にあかん。レイプ目や。つまり、俺を殺る気全開ですわ。
「後悔を抱いて死になさい!」
「俺は……俺は死なない!」
こうして、少女は無事助かりましたとさ。ちなみに、俺の被害は引っ掻き傷数箇所と、首筋には噛み付かれた痕がくっきりと残った。……ガチで殺りに来てんじゃねぇよ。
あたりはすっかり暗くなり、雪が頬を打つように強く降り始めた。津波がこの町を襲ってから四時間以上が経過したけれど、津波は治まる事を知らず、今もこの町を破壊し続けている。
今もきっと水に浸かりながら、電柱や家の屋根に掴まって助けを待つ人が大勢いるはず。そんな人達の体温を、雪は純粋で美しい白さとは裏腹に、容赦なく奪い死に近づけていく。
津波が引いて、そしてまた予兆の数分後に襲ってくる。そんな事が繰り返され、終わりの見えない不安と恐怖に人々が駆られる中……
「これマジでやばいよなぁ~」
緊張感の欠片もない男が、歩道橋の階段を覗きながら呟く。
私はそんな男を横目に、歩道橋の下をずっと無言で眺めている。
別に、津波がここまで飲み込むんじゃないかなんて心配はしていない。それよりも、もっと重大な失態を犯してしまったのだから。
津波で気が動転していたわけじゃない。ただ、無意味な人生のまま終わらせたくなんてなかった。今まで生きてきて、何一つ歓びを知らないまま死ぬなんて、冗談じゃないって、ずっと心の中では奴等に反抗して生きてきたから。
だから、これは失態。私は無様に泣き叫んでしまった。自分を他人に、しかも今日会ったばかりの男に曝け出してしまったのだ。
他人は信用ならない。自分だけを信じれば良い。そんな信念を持っていたというのに、無理矢理あの男に素の自分を引き出されてしまって、どうにも調子が狂ってあの男を真っ直ぐに見られない。
それに、私の事情をちょっとは知ったはずのそこの男は、私の事に興味がないのか、一切その事に触れてこようとしない。わざとなのかもしれないし、もしくは私に踏み込んできたくないのかもしれない。そうよね、私だってこんな複雑で面倒な家庭にいた女と関わりたいと思わないもの。でも、それなら最初から暴かなければいいじゃない。私から遠ざかろうとするのなら、何もしないで踏み込んでこなければ良かったのよ。それなのに中途半端に踏み込んできて……いい人を演じたいだけならば他でやって欲しい。私に関わろうとなんて……
「おい」
そうよ。どうせなら私を置いて、日光の猿のようにそこの山の中に消え去ればいいのに。
「おいって言ってんだけど、聞こえないのかなぁ?それとも人語を解さないお馬鹿さんなのかなぁ?」
私はここで一人、この津波の終わりを見て、その後は誰も私を知らない土地にでも消息を断てば良い。そうして人生をやり直せたなら、私は……
「目上を無視すんなクソ餓鬼」
……あえて無視していたのが解らない馬鹿が、この私の高貴な頭を気安く叩いてきた。
「死なすわよ」
「弱い犬ほど吠えますな~。んな事より俺の話を聞いてくれませんか?」
私の冷めた声に多少は二の足を踏んだらしく、なぜか敬語になっていた。
「聞くも何も、あなたさっきまで私に話しかけようともしてなかったじゃない。放っておいてよ」
「は?……ああ、そういうことか」
「何よ?」
「俺が話しかけなかったから拗ねてんのか」
「……は?」
拗ねるって、この私が?あなたのような下賎な民が触れてこなかっただけで?頭湧いているにも程があるわね。
「そうかそうか、ごめんな。なるほど、お前はうさぎちゃんだったわけだ。構われないと死んじゃうってやつ。可愛いとこあるじゃ……すまん。謝るから、その俺を突き落とそうとする両手を下ろしてくれ」
この男はよくわからない事ばかりする。今まで会った雄の中で、こんなに行動の読めない雄はいなかった。
「あのな、お前がそんなだから話しかけなかったんだよ」
「……どういうことよ?」
「そのままの意味だろ。お前の機嫌次第で俺の命が左右されるんだもん、危険物取り扱いの資格があれば話は別だが」
「この人畜無害の私に向かって何を言うかと思えば……下らない。目が化膿しているの?」
「毒薬にしかならんだろうがお前は。だからなるべく距離を置いて身の安全を取っていたんだっつうの」
そう。私の事情を知って煩わしいわけではなかったのね。それ以上に最低な理由というだけで。冗談じゃなく、心の底から突き落としてしまいたい。
「そんなことよりだな、ここから離れるぞ」
「なぜ?」
首を傾げる私に、彼は親指で背後の階段を指差す。それに習って、階段を覗くと、すぐ下まで水位が上がっていて、次の代何波かわからないけれど、津波で水がここを埋め尽くしてしまうかもしれない。
「……確かに、これはまずいわね」
「そゆこと。だから行くぞ」
意気揚々と歩き出す彼を呼び止める。
「ちょっと!行くってどこに!?」
「どこって、言わなかったか俺?俺がここにどうやって来たって言ったっけ?」
……嫌な予感がしつつ、ゆっくりと彼の向かう先に目をやると、そこには樹が生い茂る崖のような岩肌がある。
「……嘘でしょ?」
「俺は嘘を言った覚えがないけど。よっと」
震える私の声を無視して、彼は欄干に登ったかと思ったら、軽々と飛んで、太くてがっしりとした枝に手を掛けて飛び移った。
……ほんとに猿の生まれ変わりじゃないの?
「ふぅ、津波で地盤が緩いかと思ったが、案外いけるもんだな。お前も早く来いよ。こっから山の上の神社に抜ける道があるんだよ」
「あるんだよじゃないわよ!飛び移るなんて無理に決まってるでしょ!」
「……なんで?」
まさか、彼は人類全てが自分と同じ野蛮な出自だとでも思っているのかしら?
歩道橋と岩肌の隙間を覗くと、下は落ちたらとても助からない、そんな氾濫した川のような激流と、当たったら痛いじゃ済まないお地蔵様がある。
落ちたときのことを想像をすると、足が竦んでとてもじゃないけれど飛ぶなんて無理だった。
「私は無理よ。いいわ、私を置いてあなたは神社に行って」
「何言ってんだお前。私の屍を越えていけなんて、使い古されて流行んないぞ」
誰がそんな事を言ったのよ。どちらかと言えば、私はあなたの屍を踏んで踏んで踏み越えて生きたいくらいよ。
「いいから行きなさい。別に死ぬつもりなんてないし、それに必ずしもここが呑まれると決まったわけじゃないわ」
私の足元までなら波に攫われずに耐える事も出来るでしょう。それなら、わざわざ危険な事をしなくても……
「あっそ、じゃあお前は生き足掻きもしないわけだ」
樹の上から、心底私を見下し、馬鹿にしたように彼が無駄口を叩いていく。
「生きる努力もしないで、かもしれないっつって、そこで流されるのを今か今かとびびりながら待つと」
どうとでも言えば良い。彼の口車に乗ったら、それこそ死んでしまう。自慢じゃないけれど、運動神経はクラスでもダントツで鈍いのよ。だから、ここで津波が治まるのを待つ方が断然生存確率が上がる。
何を言われたって私はここを梃子でも動く気は……
「確実に生きる方法があるのに、お前はそうやってヘタレて、生きれるかもしれないって神様に祈るわけだ。そうやって、助けを待つだけか……だから傷つくんだ馬鹿が」
な、んて?この男は今なんと言ったの?
「神様に祈って助かるなら誰も彼もクリスチャンだろうさ。末期がん患者は不老不死にして下さい、借金で死にそうな奴は、何十億もの富を与えて下さいつって?待ってるだけで生きてるとか、お前舐めてんだろ、生きるって事」
舐めてなんていない!何度も抜け出そうとした!あの家から、少しでも離れたくて、でも子供の私にこの国の制度は何もしてくれなかった!
「お前の言う豚共だっけ?お前さ、そいつらに命懸けで噛み付いた事あるか?噛み付こうと睨んだ事ねえだろ。それだけじゃない。他人に助けてとみっともなく泣いて縋った事もないだろ?そんな最低限の現状を打破する努力もしないで、不条理だっつって、恨んで呪って……だっせぇんだよ」
なぜここまで言われなければいけないの?私だって逃げ出す努力ならいくらでもしたわ。夜遅くに抜け出して、仙台まで逃げて……それでも、優秀な警官様が私を補導してくれて、ご丁寧に豚共を迎えに寄越して……その日、私がどんな目に遭ったかわからないくせにッ!!
そう、心の中で反論するも、口には出来なかった。なぜなら、私を理不尽に罵倒する彼の目は、厳しくもなく、怒りすらもなかった。ただ、私が動き出すのを優しく見守っていたから……その目が私に反論させる気を失せさせた。
「ほら」
彼が私を救ってくれたその手を差し出してくる。
「来いよ。そんな雑魚いお前に俺が教えてやるから」
自然と身体が動いた。欄干に手を掛け、足を乗せる。
「俺が生きるって事を教えてやる!なんだったらお前の不条理からも抜け出させてやるから!だから!」
信じたくない。他人の言葉なんて、神に祈るよりも価値がない。わかってる。裏切られる怖さを、私は誰よりも知っている……なのにどうして……
「今日、ここから一歩踏み出そうや?」
「まったく、ほんとにあなたって……」
こんなにも彼の言葉が心に突き刺さって、痛いどころか、心地よく感じてしまうのだろう。信じたくなる魔力を持っているのだろう。
「変な人ねッ!!」
彼の言う通り、私は今日ここから生まれ変わる。世界が壊れて、新しい私が産まれた。もう、昨日までの無力な私じゃない。迫り来る足音に震えて、感情を殺して毎日を死んだように生きていた、そんな情けない自分とは決別しよう。幸いにも、私に生きる強さを教えてくれる馬鹿が目の前にいる。少しも彼の思考回路はわからないし、もしかしたらまた裏切られるかもしれない。それでも、私は彼の手を取る。その先に求め続けた希望と未来があると……作っていけると固く心に誓って。
「いやぁ~、さすがに俺もびびったわ」
「…………」
山の中を無言で俺の前を歩く少女と、少女の後ろを作り笑いをしながらついていく俺。前を行く少女からは、話しかけるなオーラがオラオラと出ている。
「お、俺もまさかあんなことになるとは思わなかったわけで……ほら、俺ってスレンダーじゃん?だからいけるって思ったわけだよ」
「…………」
「つまりだな、意外にもお前の体重がおも」
「……は?」
「すみません」
薮蛇でした。ちなみに何があったかと言うとですね、少女が欄干から飛んだところまで話は戻る。
こう、ね?良い感じに格好良く決めゼリフを言って、これフラグ立ったわぁ~ってなったわけ。あとは、飛んだ彼女を軽やかに受け止めてめでたしめでたし……とはならなかった。飛んだ彼女を受け止めるまでは良かったんだよ……悪かったのは、根性のないあの枝だ。俺達二人の体重を少しも支えられず、最近の若者のメンタルのように、あっさりポキッと折れてしまい、二人共あわや走れメロスの如く濁流を泳ぐ事になりそうになった。だが、偶々落ちた先がぬかるんだ緩い斜面で、滑り落ちる前に俺が樹の根元を掴んで、ついでに彼女の手も掴んで事無きを得たわけだ。……まあ、彼女の下半身はどっぷり水に浸かってしまったわけだが。
前を歩く少女のスカートからポタポタと水が滴っている。
「……信じるんじゃなかったわ」
ここまで無言だった少女が、後悔を口に出し始めた。俺の心が罪悪感でじゅくじゅくしちゃうよ。
「こんな……私、汚されて……」
「確かに汚い水だけども!その言い方誤解されるから!」
ここらの古い家は、今だにぼっとん便所もあるわけで……つまり、泥とか以外の排出物も混ざった水なわけです。
「悪かったって」
「足が凍傷になりそう。身体のあちこちが痛い」
「そ、そうですか。あ、なんだったらおぶさります?」
「触るな獣」
「…………はい」
修復不可能な亀裂が入ってしまった。どうにかして信頼を回復したいが、スマホも財布もどういうわけか落としてしまったわけで、俺のステータスは初期のままになってしまった。
それにしてもと、空を見上げ真っ白な息を吐く。
離れた場所からは津波の轟音、辺りは吹雪。自然が人間に全力で牙を向けているわけで……この先どうしようか?
とりあえず、この山には綺麗な湧き水がいくつも流れているし、アスレチック広場まで行けば火を起こせもする。神社近くに避難している人や、民家の方にちょっとだけ鍋を借りてお湯を沸かそう。あとはタオルも借りるか。そんでもって、彼女の身体を拭いて……いやいや、俺は拭きませんよ?もちろん自分で拭いてもらって、飯は……今日は我慢するか。いつまで津波が襲い続けるかわからないが、終わりはくるだろう。そうしたら、橋を渡って市街地に出て体育館でしばらく世話になろう。
(そういや、母さんは大丈夫だろうか?)
大丈夫なはずだ。あの人のホームのパチンコ屋は市街地で、あそこまで津波が行く事はない……と信じよう。あの辺りなら無事に避難しているに違いない。落ち着いてから探すか、もしくは連絡しよう。覚えていたらな。
俺の事よりもまずは少女のほうが先決だ。少女の家族を探すのもそうだが、家族が生きていたとして、少女を素直に引き渡すわけにもいかない。その場合、俺よりも人生経験と人脈のある母さんを頼る事になるが、まずは少女の家族の安否を確かめよう。それに、食料の心配もだな。この状況じゃ、食料の運搬経路は遮断されていて、復旧に多少の時間が掛かるはずだ。二、三日は自分達で調達しなければいけないかもしれない。となると……
「あの~……」
「なに?」
恐る恐る声を掛けるが、俺を威嚇するような声で応えられた。ここはライオンの檻の中に等しい危険地帯だな。
「少々お尋ねしたいのですが、鞄等はいかがなされたのですか?」
「その喋り方うざい」
人が下手に出てりゃあ、このガキ……なんて顔に出すわけにもいかず、えへ、と作り笑いを浮かべる。
「……気持ち悪いわね」
「俺の顔が三度までだと思うなよ」
「鞄なら神社に置いてきてしまったわ。どうせ、教科書とノートしか入っていないのだし、使う事はないでしょう?」
「あ~……そう、ですか」
めちゃくちゃ使うんだよ馬鹿野郎ッ!!
この先、荒れに荒れたスーパーとかの店内から多少の食料を拾わにゃならんのにッ!!クソ、どっかの人のいない民家から鞄か何かを拝借するしかないか。
「ねえ?これからどうするの?」
「ん?ああ、今日はとりあえずアスレチック広場あるだろ?」
「広場……小学生の時に何度か学校の遠足で行った程度だから、詳しくわないわね」
「そうか。あの広場な、ソリ滑り出来る場所があって、ソリを貸し出す小屋があるんだが、そこを借りようと思う。多分、この状況じゃあそこを使うって考える人間は少ないだろうし」
この吹雪も考えようによっては幸運かもしれない。こんなに視界が遮られては、アスレチック広場までの道は危険かもしれないと考え、あそこに行く人間はあまりいないだろう。
そこまで考えて、はっと思い出したことがあった。
「小屋?そこってお風呂とかないのでしょう?」
こんな状況で贅沢な奴だな。だが、その悩みを解決出来そうな案が俺の脳内に浮かんでいた。
「……風呂はないが、どうにか出来るかもしれん」
「どうやってよ?」
「実はな、俺の友達の住む借家が近くにあってな、上手く屋根を辿っていけばそいつの部屋に行ける。まあ、前提として、そいつの部屋が波に浚われてなければの話だが。そいつヘビースモーカーでさ、ライターをかなりの量溜め込んでいるんだ。だから、俺がライター取ってくる間、お前小屋で待ってろ」
ついでにペットボトルと鞄も取ってきて……でかい鍋もあいつ持ってたよな。押入れを探せば運良く見つかるかもしれない。
なんて、懐かしいろくでなしの友人の事を思い出していると、何やら少女が黙り込んで俺を不安そう?に見ていた。
「ん、どうした?」
「……別に」
ふいッと背中を向けて歩き始める。なんなんだ?言いたいことがあれば言えばいいのに……女ってのは稀に理解出来ないから困る。
「あ、そこは左の小道に入ってくれ。なるべく壁に沿うように歩けよ」
少し細い道で、足を踏み外したら洒落にならん。ご都合主義の主人公のように、何度も窮地を救えるわけじゃないんだよ。
広場まではあと三十分ってところか……
「……不条理から抜け出させてやる……か」
自分の言った言葉を思い出して、自嘲する。少女の不条理よりもまずは自分だなと、自分の手を翳しながら考えていた。
ああ、本当に世界は狭量で不条理だ。理不尽に人から何かを奪うこの世界は、俺に微笑んでくれた事なんてない。現に、今だって……
「ねえ?」
ま、俺のやるべき事がこの少女を救う事だってのなら、全力で頑張るさ。問題はこの先だけど、な。まずは……
「ねえ!?」
「っと、なんだよ?」
物思いに耽っていて少女の呼ぶ声に気付かなかった。
少女は何かを言おうと口を開こうとするが、中々口に出来ないのか、戸惑ったように視線を彷徨わせながら、そっぽを向いて気まずそうに言った。
「今更なのだけれど……聞いてないわ」
「俺の初体験?」
「黙れ螻蛄」
なぜ場を和まそうとするとこうも失敗するのか……もうちょっとコンパとかで女性への免疫をつけるべきだったな。
「そうじゃなくて、あなたの名前よ。いつまでも猿だ螻蛄だと呼ぶわけにもいかないでしょう」
はあはあ、なるほど。俺の名前を聞くのにあんなに逡巡しちゃって……可愛いところも……
「螻蛄以下なのだから、螻蛄が可哀想だわ」
ねぇよ。可愛いとか思ってた自分はトラクターに惨めに轢かれてしまいました!
「……海野海だ」
「のかい?変な名前ね」
「切る場所おかしくね!?海野、海!海に野原の野、そんでまた海って書いて海野海だ!」
「へぇ~、海野海……ね」
俺の名前を噛み締めるように、何度も少女は繰り返し呟いた。
「あなた、小学生の頃回文だって弄られたでしょ」
「マジで三言多いなテメェ様はッ!!」
その分覚えられやすくて良い名前だろうが!ちなみに、誕生日は海の日という奇跡が起こっていて、小学生の頃は海の日を俺の日だと、よく弄られたものだ。海は広いな大きいなって歌を、みんなが俺を見ながら歌うんだ。そのおかげで、多少の屈辱にはガキの頃から耐えられるようになった。母さんは俺のメンタルを強くするためにこの名前にしたに違いない。
「なら、海と呼ぶけれど異論は?」
「お前、年上を呼び捨てにすんのかよ。社会でそんなこと……」
「じゃあ、解散って呼ぶことになるけれど」
「イントネーションおかしいよなッ!」
「というわけで、海と呼ぶことに決定ね」
もういいよ。こんだけ俺に対して容赦ないこいつは、なんで豚と呼ぶクソ共に反抗しなかったんだ?決して俺が舐められているわけじゃないと信じたい。
「私は姫村アヤメよ。畏敬の念を込めて、姫様と呼ぶことを許してあげるわ」
「私は姫村アヤメよ。畏敬の念を込めて、姫様と呼ぶことを許してあげるわ」
半分冗談でさらっと言えた。彼の名前を聞き出すだけの事に、どうしてか緊張してしまい、中々口に出せなかった。
彼が名乗り、その名前を自分の奥底に刷り込むように何度も小さく口にした。海野海、海野海、海野海……それが、私の人生に少なからず関わる男の名前。私が自ら手を取った男の……
そうして、海を呼び捨てで呼ぶことを許可させて、私は冗談交じりで彼に名乗った。きっと彼、海ならば面白い突っ込みをしてくれると……そう、予想していたのだけれど、その予想は裏切られてしまった。
「……なに?私の名前に変なところがあるかしら?」
私が名乗ると、彼は驚愕とも取れる表情で、じっと私の顔を凝視していた。
……いえ、私の顔を見ているようで、見ていない。それどころか、上の空になって呆然としている。
な、に?もしかして、私の名前に驚いている?もしかすると、豚共の内の一匹と面識があるとか?
「お、まえ……」
妙な空気が私と海の間に流れる。さっきまでの軽い空気が嘘のようで、私を変な緊張感が包んだ。
力無い声で、海は私を指差すと、ただ一言。
「濡れたパンツどうすんだ?」
「……はい?」
「そうだよ。お前パンツも濡れただろ。さすがに俺の友達も女物の下着なんぷげッ!!」
最後まで言わせないよう、私は渾身の力で海の鳩尾へと拳をめり込ませた。
返せ!さっきまでのシリアスと私の照れ隠しを返せ!
「死んで!本気で死んで!」
「ま、待て!おま、これわりと重要な案件だろうが!」
「今言う事じゃないじゃないの!」
「だって、このままだと乾かしてる間お前はノーパン~~~ッ!?」
最後まで言わせてなるものか!
最大の急所を無回転シュートを打つかのように蹴飛ばす。悶絶し倒れてもがく海を私は冷ややかに見下ろした。
「ぐ、おおおお……」
「そのまま子孫ごとくたばればいいわ」
愚かな遺伝子を潰し、人類に貢献した私は、彼を置いてすたすたと歩き始める。所詮海も愚かな雄の一匹だったのよ。彼に気を許しそうだった私は天に召されたわ。
「ま、待てって……」
私を呼び止める声を無視して歩き続ける。
こうなったら仕方ない。本気で一人で生きて……
「待てよ、冗談だってアヤメ」
……海に名前を呼ばれ、足が勝手に止まってしまった。海に名前を呼ばれ、かぁーっと頬が熱くなって、海を振り向けない。
他人に名前を呼び捨てにされたのは初めてで、それも自分が気を許しそうな男性から呼ばれてしまった。それだけで、免疫の無い私は、今まで経験したことの無い何かが溢れそうだった。
足を止め、固まった私を見て、不快に思ったと勘違いしたのか、海は慌てたように謝罪してくる。
「あ、悪い。呼び捨ては嫌だったか?」
そう謝ってくれているのに、私は振り向けないまま、騒がしい鼓動をなんとか治まってと、自分の胸を手で押さえる。
なに、よ……なんなのよこれは!?
「苗字はお前嫌がるかなって思ったんだ。それに、ちゃんとか付けるようなキャラでもなさそうだし」
……そこまで考えてくれていたのね。確かに、私は自分の苗字が嫌いよ。嫌でもあの豚共と家族なのだと思い知らされるから。だから、学校の出席も、クラスメイトが私を呼ぶ声も……その全部が嫌で仕方なかった。
そんな私の気持ちを海は考えてくれていた。だから呼び捨てにしてくれて……それだけのことが、こんなに……こんなにも……
「そ、うよ。何がアヤメよ。調子に乗らないで。姫様って呼びなさいと言ったでしょう」
「へえへえ、随分品のないお姫様なことで」
こんなにも嬉しいなんて、どうかしてるわ。
「でもまあ、いいでしょう。名前を呼び捨てること、特別に許可してあげるわ。感謝なさい。本来なら打首獄門よ」
「お前は良い独裁者になれるよ。保障する」
「減らず口ばかり、面倒な男ね」
どっちがだよと苦笑し、立ち上がった海が歩き出すのを待つ。
悪くない……なんて、らしくない事を思い苦笑する。だって、有り得なかったんだもの。こんなにも下心の無い男に会った事なんてなくて、こうやって軽口を叩き会う事が出来る男が現れるなんて、夢物語だったのよ。
別にね、白馬の王子様なんて夢を見たことなんてないのよ。そんな砂糖の練乳はちみつ添えな甘ったるい思考なんて持ち合わせた事なんて無い。だから、これは夢なのかもしれない。
「お前、人の大事な息子を殺人未遂しといて何笑ってんだよ」
隣に並ぶ彼はそう言いながらも口元は笑っていて、私も自然と頬が緩んで自分ではどうしようもない。
「あら、未遂だったの?ごめんなさいね、今度は確実に息の根を止めるよう努力するわ」
「殺す努力よりも今は生きる努力をしようぜ」
これが夢?冗談じゃない。もう私はこの現実を歩んでいる。もう二度と戻ってたまるものか。もし、この現実が夢で、今日出会った世界一変な彼が消えてしまったら私は……この些細な希望を失くしてしまったなら、私は生きる意志を失い、生きていけない。だから、今度は純粋に願うわ。
――この夢から覚まさないで下さい――
アスレチック広場まで何事も無く……はなかった。俺の息子が危うく死者蘇生でもない限り蘇らなくなりそうだった。ま、まあなんやかんやと広場に到着し、アヤメをソリのある小屋で待たせて俺は単独行動を取る事に。
アヤメ……ね。アヤメって昔何かで調べたけど、アヤメと菖蒲は読みが一緒だけど別な花で、アヤメは毒性があるんだっけ。皮膚炎とか嘔吐とか胃腸炎だとかになるらしい。なるほど、あいつにぴったりの名前だよな。
「名は体を表すとは良く言ったもんだ」
さてさて、なるべく早く戻ってやりたいが、こう暗くては足元も見えない……はずなんだけどね。俺はもしかしたら夜目が利くのかもしれん。そこそこに道が見えるし。まあ、だからこそアヤメと一緒でも平気だったわけだけど。ただ、平気じゃないのは世間だったんだけどな。こんな状況じゃなければ出会うことも無かっただろうに。
「母さんに連絡しようにも、スマホは無いし……そもそも連絡出来るかも怪しいしな」
あいつを現状から抜け出させる……だけじゃ駄目だ。アヤメの問題は俺の問題へとあいつが名乗った瞬間にシフトチェンジした。
「とりあえず、目下今を生きる為に火と水が必要なんだが」
今日を切り抜けたら、問題が山積みでお兄ちゃんは参っちまうよ。ああ、本当に参っちまう。
「さて、と。母さんは知らないだろうな。俺も知らなかったし」
母さんは基本的に近所付き合いはしないし、そういう噂は聞いても積極的に関わろうとしないだろう。母さん曰く、会ったら確実に殺人罪で捕まるからって、物騒な事を本気で公言しているわけで。捕まったらあんた困るでしょ?なんて笑いながら目はマジで聞いてくるものだから、まだ小学生だった俺はガクブルしたものだ。
それに、俺だって探そうなんて思ってないし、街で似た感じのを見ても無視してた。どうせなら野垂れ死んでくれれば幸いだったんだが……クソが、余計な事ばかりしやがって。今なら町が、人が壊れていく無残な風景を見て、子供のように笑っていたアヤメの気持ちが痛いほどにわかる。わかってしまった……俺もアヤメを叱れないよな。
小屋で俺の帰りを凍えそうになって一人で待つアヤメの姿を想像すると、胸が痛んで今すぐに戻ってやりたい。だが、馬鹿を言って場を和ませて誤魔化すのにも限界がある。だから、少しだけ時間を置いて、俺は覚悟を決めなければいけない。アヤメの人生を背負う覚悟を。
「姫村、ね」
姫村なんてここらでは珍しい苗字だ。つうか一人しか知らんし……おそらくいるであろう兄の名前も聞いておくんだった。だが、あの変態親子ならやりかねないというか、確実にやる。アヤメが言うように正しくあの豚共なら、パチンコで言うレインボーよりも確定している。アヤメほど可愛ければ、あいつ等が手を出さないわけが無い。しかも暴力のオプション付きで。
アヤメ……お前の気持ちな、俺わかるんだよ。残念なことにな。
母さんと俺はあいつらの良い餌だった。俺より六つも上の子豚とその親豚は、俺と母さんをあらゆる面で殺した。何か子豚がやらかせば、親豚は俺を泣き叫ぼうが何しようが折檻し、それに飽き足らず二匹揃って俺を……
その現場を見てしまった母さんが、俺を連れて親友の所に逃げて、裁判所を通してなんとか離婚が成立。晴れて俺と母さんは豚共の魔の手から逃れられた。離婚後、母さんは精神的に強くなり、俺も母さんに勧められて知り合いの空手道場に通い始め、もう奴等と何があろうとも大丈夫なように強くなった。二度と、あんな過酷を受け入れないために、俺も母さんも必死だったんだ。弱いままではいられなかったから。
でも、さ。否定しようにも俺の体にはあの豚の血が流れているのは事実なわけで、ハーフ豚の俺としては、親豚のやらかしたことには責任を持たなければいけない。何より、俺と同じ血が通ってる奴等がアヤメを穢したなんて、想像するだけで寒気ととてつもない怒りが込み上げてくる。
甘かった……あいつ等を野放しにするべきじゃなかった。人間なら悔い改めて改心することも出来るが、豚にそんな理屈は通じない。だから、アヤメの癒せない傷は俺の責任だ。過去から目を背けるべきじゃなかった。
姫村幸雄と姫村敦也。俺の父親と実の兄。母さんが目を背け、俺が記憶から消し去った忌まわしい下衆共。間違いない、アヤメの母親はあの下衆と再婚したんだ。昔から浮気が上手くて、女を落とすのはお手の物だったらしいからな、アヤメの母親も簡単に落ちたことだろうよ。本性を隠して近づいて、内側に入ったら欲望を二人に向けたわけだ。アヤメの年を考えると、再婚で間違いないはずだ。
いつの間にか爪が食い込むほどに握っていた拳。歯が鳴るほどに強く食い縛り、頭に上った血が今にも吹き出しそうだ。
舐めやがって……あの豚共が。テメェ等は黙って死んでしまえばいいものを。あいつ等は生き汚いから、まだ生きている可能性がある。
させるかよ。俺がいるからにはアヤメにこれ以上、絶対に手を出させやしねぇ。
「確かに、昔から妹が欲しいとは思っていたが……こんな形で義妹が出来るとは思って無かったよ」
今日出会った少女が俺と少なからず関係のある子だったなんて……
「いや、だから……か?」
それなら説明が……付かないけど付く。
天を仰いで俺は苦笑を漏らす。そういうことか、と。
「オーケー、わかったよ神様」
あの神社の神様は随分と粋な事をしてくれる。俺と義妹を引き合わせた挙句、救うチャンスを与えてくれるなんて……マジで愛してるよ、神様。
「あいつ等にこれ以上、俺の義妹を汚させてたまるかよッ」
雪が吹雪き、津波の轟音が人々の心を苛む夜、人知れず俺は確固たる決意を天に向かい宣言した。