一日目~出逢い~
東北最大の都市である仙台の駅構内は、歩くのが困難なくらい、いつもよりも人が混雑していた。
全国的に見れば平日の今日、普段は日中は空いていて、電車内も座席に座れる余裕があるのに、今日ばかりは座れそうにない。特に、私がこれから向かう路線は尚更で、老若男女溢れかえって、まるで蟻の巣のようだ。
すれ違う人のほとんどが、菓子折り等を持っていて、中には花束を手にする人もいる。こんな混雑の中、花が無駄になるのでは?なんて心配してしまう。
私が今から乗る路線は、つい最近までは途中までしか繋がっていなくて、終点の石巻までは断線していた。あの日から、今までずっと。
路線が終点まで繋がった事実。それが私に時間の経過を現実を持って教えてくれた。もう、あれから五年もの月日が流れたのだと。
五年……長くなんてなかった。むしろ、毎日が目まぐるしくて、時間がこんなにも短い事に驚いている。昔、と言っても五年前以前の事なのだけれど、あの日以前の私には無限にも思えた時間。無為に、無気力に、無意味な毎日は、私を絡め取る牢獄……そう、まさに牢獄の中で希望も見えない毎日だった。
左腕に着けている時計を確認すると、もうそろそろ電車が来る時間。急いがなければ乗り遅れてしまう。
「あ~、もうッ!」
乗り遅れるなんて冗談じゃない。そもそも、私はしっかり時間に余裕を持って出てきたのに。
私の貴重で何よりも大切な時間を奪った、先程の出来事と人物を思い出すと、沸々と怒りが湧いてきてしまう。衝動的に犯罪を犯す若者はこうして出来上がるに違いない。……いえ、私もまだ十代だし、若い部類よ?
それにしても腹が立つ。今は東京で暮らしているのだけれど、仙台に着いて少し電車が来るまで時間があるなと思ったのが間違いだった。そのまま大人しく電車を待っているべきだった。それなのに、愚かにも私はあの人の為にお土産を買っていこうと外に出てしまった。そうね、私が愚かだったのかもしれないわ。長い時間を平和に過ごしすぎていて、すっかり忘れていたのだもの。この世のほとんどの雄は頭の弱い盛った生物だって事。
つまり、その……ナンパよ。黒服というのかしら?髪をその中身と同じような軽薄な色に染め、スカスカの脳のようにピアスの穴も多い、見るからに歩道橋から突き落としたい男が私に声を掛けて来た。最初は、水商売のスカウトかと思って無視をしたのだけれど、前に回りこまれてはそうもいかない。なので、彼の幼稚な脳でも理解出来るよう、懇切丁寧に彼の愚かさを語ってあげた。数分語ってあげた後、どうも私の言い様に腹を立てたらしく声を荒げ、乱暴に私の手を掴んで……そこで彼はあえなく御用。近くに交番があることすら頭から消えてしまったらしい。そこまで怒らせるような事は一切言っていないのに。そこで終わりならまだ良かったのに……むの、職務に真面目に勤しむこうぼ、警官様は私までも交番に連れて行って、事情聴取なんてものをわざわざしてくれた。
そんなこんなで今に至るわけで……まったく。警官は良いとしても、彼の眼は腐ってるとしか思えない。自分が私に見合うなんて、どこの魔女の鏡を見て思ったのかしら?世界で一番イケメンなのはだ~れ?それはあなた様ですとか、自宅で一人芝居でもしているのかしら。自己催眠とは恐れ入るわ。
と、そんな瑣末な事を思い出している場合じゃないと、どうにか電車に乗り遅れないように急ぎ足になる。すると、タイミング悪くサラリーマン風の男性とぶつかってしまい、体格の差で私は無様に転んでしまった。
「おわ、ごめんごめん。大丈夫?」
転んだ私に差し出される手。最初は掴もうとしたのだけれど……私は手を引っ込めて自分で立ち上がった。
「ええ、平気です。すみませんでした」
「そ、そう?こっちもごめんね」
男性はそのままそそくさと去っていった。
……しまった。人生の汚点をここでも作ってしまった。
今日は私にとってとても特別な日で、いつもはしないメイクと服装をしていて、控えめに見ても……その、少し男性の目を惹く格好をしているかもしれない。現に、彼の目は私の太ももを見ていた。短めのスカートを履いているから、転んだ時に少し捲れてしまっていた。
もう!どうしてこう男って生き物は性に下品なまでに貪欲なの!確かに、私は少し男性嫌悪気味だけれど、だけど、少なくともあの人はそんな――
苛立ちの中、ふと思い出した懐かしいあの人の無邪気な笑顔。
そう、だったわ……以前も同じような事があった。転んでしまった私に手を差し伸べてくれて、それであの人は笑って……笑って朗らかにセクハラ発言をしたのだ。女子中学生に向かって、良い大人が。
第一印象は変人。第二印象は能天気。第三印象は……どうだったかしらね。
彼の笑顔を思い出すと、急いでいるのが馬鹿らしくて、急いでいた足を止める。
「そう、ね」
別に急ぐ必要もない。きっと彼は今もあの笑顔で変わらずに迎えてくれるのだから。多少遅れても許してくれる。
焦っていた自分が馬鹿らしくて苦笑してしまう。
時間はたっぷりあるのだから、ゆっくりのんびりと彼の元へ行こう。能天気なあの人を少しだけ見習って……ね。
東北の太平洋沿岸部に暮らす人々が、大切な恋人、妻、親、子供、財産、仕事、あらゆるものを失った2011年3月11日。全国を文字通り震撼させた世界的な震災。
――東北大震災――
あの日、沢山の人が神を呪い、無力を嘆き、泣き叫び助けを請う以外に何も出来なかった忌まわしい日。その日、私の世界は確かに壊れた。跡形もなく粉々に、それまでの日々が崩れ去った。
そうして、手に入れたの。何もかもを人々が奪われた日に、私は掛け替えのない世界を汚れきったこの手の中に……
「寒い」
久々に帰ってきた故郷の石巻は、三月だというのに春の気配をまったく感じさせてくれない寒さだった。
電車を降りて駅を出ると、駅前は閑散としていて、過疎化しているなと少しばかり寂しくなる。
俺の生まれ故郷である石巻は、漁業が盛んでカキがやたら有名だ。あと、パチンコ屋も盛んな事で有名でもある。あとは……日本第四位のでかさの北上川くらいのものだろう。ちなみに、パチンコ屋が盛んなのは、漁から帰ってきたおっさん達や、年金暮らしのお年寄りがよく遊ぶから……らしい。
寂れた駅前通は、昔は学生が学校をサボって遊んでいるのを良く見かけたものだが、昨今大きなショッピングモールが駅からかなり離れた場所に建ったため、子供も大人もみんなそっちに買い物に行ってしまって、駅前からは人が離れていくばかり。賑わうとすれば、居酒屋が多いため、夜はおっさんやガキが酒を飲みに出歩くのと、一年に一回あるそこそこに有名な祭りの『川開き祭り』の時くらいのものだ。
俺が離れている間に随分変わったものだ。少しも寂しくはないけど。
「さてと、とりあえず家に向かいますかね」
高校を出てすぐに俺は都内の専門学校に通った。OS作成を主に学んで、SEを目指していたのだが、世の中そんなに甘くない。俺が就職したのはOSにまったく関係のない、小さな会社だ。主に会社を立ち上げる時等に必要な、事務関連の商品を売る仕事で、コピー機やデスク等、事務全般を取り扱っている。もちろん、それまで付き合いのある会社などにも新商品の営業をかけ、その関係で接待なんかも良くある。したくもない愛想笑いに、よいしょをして、部屋に帰る頃には何もする気が起きなくて、ベッドに直行。そんで、次の日の早朝に起きて、身支度を整えてまた出社。休日は溜まった洗濯物と、プレゼン書類の作成。そんな、意味のあるようで意味のない、どうでもいい日常をもうずっと送っている。
そんな毎日を送り続け、こっちに帰って来る事もなく三年以上の月日が経っていた。いや、まあね?石巻に帰って来なかっただけで、宮城には何度も帰っては来ているんだよ?それなりに俺だって用事があるわけで……ただ、こっちまでくるのが億劫なだけで。
というわけで、同窓会にも顔を出さずに大人になった俺は、ちょっとした用事のついでに帰ってきた。
「おお、久しぶりだな北上川」
駅から徒歩十分のところにある橋は、少しだけ整備されていたけれど、それでも狭い事に変わりはない。人が二人通れる程度の広さで、自転車で通るの時は人にぶつからない様に気をつけたものだ。
橋の中腹には昔懐かしいミニシアターがあり、ミニシアターの奥には漫画館なんていうでかい建物がある。三階建てで、北上川が一望出来るのだが、俺としてはあまり北上川は良い物じゃないんだよなぁ……だって、汚いもん。しかも、沿岸だから風も強いし、雨が近いとやたら臭いし。中学の頃、近くが海だったからか、雨が近づくとなんとも言えない匂いが教室内に充満したものだ。雨の匂いなんてこっちじゃ言ったりするが、ろくなもんじゃねぇ。
まだお昼前のこの時間、俺の母上は職務に勤しんでいるはずだ。
俺の母、海野洋子。ちなみに、母親に似ずイケメンな息子は海野海な。母上はスナックをやっていて、女手一つで俺を育ててくれた偉い人だ。親父は……うん、思い出したくもない。俺が中学上がる直前に離婚して、それから一切会っていない。ちなみに、職務に勤しんでいるというのは銀色のコインや玉で稼いでいるだろうってこと。趣味、パチンコ。むしろ本業かもしれん。
そんな母上に俺は連絡もなく帰ってきた。連絡しても、どうせ歓迎されないし。あの人のことだ、俺が帰るなんて知ったら、家の家事を全部俺に押し付けるに違いない。リフレッシュなんて出来るわけもねぇ。これも俺が帰って来なかったことの理由の一端なんだけどな。我が親ながら物臭で、困ったものだ。
橋を渡りきり、右の細い道を真っ直ぐ行くと住宅街に出る。俺の家は橋のすぐ近くの一軒家で、川沿いに建っている。二人しかいないのだから、別にアパートでも良かったのだが、母上が一軒家欲しい、欲しい、ほ~し~い~!と駄々を捏ねて出来た産物である。
鍵を開けて中に入り、とりあえず居間は無視した。だって、あられもない惨状が怖くて見たくないんだもん。ていうか、やっぱいないねあの人。車庫に車がない時点でお察しですよ。
二階に上がると三部屋あって、一つは母上の第二の趣味、漫画部屋となっていて、後は俺と母上の寝室となっている。
母上、母上。僕はあなたの趣味になにか言うつもりは毛頭ありません。ないのですが、会ったら是非聞きたい事があります。あなたの図書館なのですがね……ドアにでっかいタペストリーがあるのですが、あれはなんでしょうか。そのですね、可愛い女の子のイラストはまだいいのですが、彼女の服がボロボロになっていて、淫靡な雰囲気を醸し出しているのです。というか、あれですよね?僕も都内に暮らしていて少しは知っているんですよ。あれ……エ○ゲというゲームのヒロインだったりしません?ていうかそうですよね絶対!いやいや、あの人いい年して何に手を出しちゃってんの!アグレッシブ過ぎるでしょ!怖いよ!
母の狂気に身震いし、俺は視界からソレを排除して自分の部屋に入った。昔からあの人の思考回路は電波でわからん。
部屋に入ると、俺が出て行った時のままで、母上がいつでも俺が帰って来れるようにと残して……くれているわけもなかった。
「な、ななな、んじゃごりゃああああぁぁぁッ!!」
今の俺の叫びはご近所どころか、銀河まで響いた自信がある。
そりゃあ、叫びたくもなる。なぜなら……
「俺のベッドがエ○ゲ汚染されてるぅーーーッ!」
百は越えるであろう本数が、俺のベッドを棚のようにして所狭しと置かれていた。
「いやいやいや、何してんだよあの人ッ!ふっざけんなッ!しかも俺の……俺のニ○ヴァーナのポスターが、いつの間にか二次元アイドルに素敵に過激にメタモルフォーゼしてるぅッ!」
ここまで育てて貰った恩とか、感謝感激ですけど、過激に反抗期迎えてもいいよね?具体的には、全部売り飛ばしてもいいよね?そんで、その金で世界旅行してやる。
「クッソ、なんなんだよあの親!少しでも感謝して、素敵に美化した俺が馬鹿だった!」
俺の親は親父とは別ベクトルでとことんクズやった。
若干というか、大分テンションが落ちたが、俺が何を言っても聞かないのは長年の付き合いで諦めている。気と肩を落としつつ荷物を置いて、とりあえずこの家を出よう。もう、こんな現実見たくない。現実から目を背け、誰よりもセンチメンタルに出て行こうとしたが、大事な事を思い出して立ち止まる。
「っと、とち狂った母親の所為で忘れるところだった」
バッグから小さな箱を取り出して、それを机の中に仕舞う。
「雑に入れたままってのはいかんよな」
今回帰ってきた一番の理由なのだから、大事にしないといけない。
形は別にどうでもいいが、俺の全ての想いが詰まったと言っても過言じゃない、何よりも大切な形。
「これは明日渡しに行くから……楽しみに待ってろよ」
彼女の名前を、優しく、温かく、愛しさと、切なさと、ありったけの想いを込めて呟いて、俺はソレを部屋に残して家を出た。
朝が来なければ良い。毎日願い、毎日目が覚める度に私は朝が来る現実に落胆し、今日も自分を殺す。意思のない人形。そうならなければ、この過酷な世界で私は息をする事も出来ない。
部屋のドアがノックされ、私の名前が乱暴に無遠慮に呼ばれる。その声に肌が粟立ち、体が震えそうになるけれど、それをなんとか押さえ込んで、私はただ一言「はい」と小さく返事をした。
起こしたくもない体を起こして、制服を着る。最低限髪を整えるため、鏡を見るとそこには生気の抜けた代わり映えのしない自分の顔。それに……
「……ッ!」
目にしたくない物が映り、込み上げてくる嘔吐感。思い出したくない物を思い出す印が、私の体のいたる所に付けられている。私の所有権を主張するようにいくつも……いくつも……
自然と鎖骨近くにある痣のようなソレに、私は爪を立てていた。
このまま引っ掻いて、痛みで全てを消してしまいたい。そんなことしても、自分の記憶を消す事は出来ないけれど、それでも今だけは忘れさせてくれるかもしれない。だけど……
「馬鹿……みたい……」
そんなことをして、もしも傷が見つかったら、私はもっと酷い事をされてしまうのが目に見えている。
腐っている。私の家族という得体の知れない者達は総じて腐っている。腐っているのなら、そのまま腐り落ちて死ねばいいのに。私以外が全部、腐り落ちてしまえ。こんな醜い世界、私は欲しくなんてなかった。
最初から腐った中にいたなら、こんな想いは抱かなかった。でも、希望が、愛しい時間が私にも確かにあった。小さな頃に幸せの中にいてしまった。だから、今のこの腐った世界が悲しくて、悔しくて、惨めで……だからこそ、こんなにも憎い。
でも、腐った奴等よりも、腐った同級生よりも、腐った世界よりも、なによりも腐っているのは……
「私、ね……」
自嘲を浮かべ、部屋を出る。今日も牢獄の中の一日が始まる。私を侵食し、腐らせる……どうしようもなく無残で慈悲の欠片もない一日が。
旨い。旨いんだよな~、このチャーハンおにぎりがなんとも言えない旨さなんだ。体に良いわけじゃないのはわかるが、それがまた良い。やっぱおにぎりはセ○ンだね。
俺の家から海方面に真っ直ぐ進み、中学校の近くの神社でおにぎりを貪る。神様の前、しかも賽銭箱の前で食べるジャンクフード最高。なんだっけ?この神社って、確か逃げ延びた源義経が隠れてたとか言われてたっけ。
この神社、昼間は風情があっていいが、夜はやたら怖い。入り口にお地蔵様があるし、その後ろは岩肌があって山に繋がっている。まともに整備されていない階段があったりするのだが、登った事はない。ガキの頃は岩肌の樹を伝って、山の中を散策したもんだが、ガキは怖いもの知らずだよな。一歩間違えば死ぬわ。
お地蔵様の前には歩道橋があり、歩道橋を渡って真っ直ぐ行くと俺の母校へと繋がる。
街中は変わったが、ここは変わってなくて良かった。駅からここまで、帰ってきた気がしなかったもんなぁ。駅前の活気のなさが一番の原因だね。
そうしてウマウマしていたのだが、俺のいる賽銭箱から少し離れたところに、この時間帯にしては不自然なガキを見つけてしまった。
年は、13~15だろう。中学の制服着てるし。そいつはボーっと、何もしないでこっちを見ていた。見ていたっていうか……むしろ何も見ていないのか?俺に視線が向けられているわけでもなさそうだし……
「……はッ!?」
まさかとは思うが……いや、しかしそれしか思いつかない。ここらの高校生がサボっているのはよくあることだが、中学生がサボるなんて珍しい。特に、規則に厳しい俺の中学なら尚更だ。ということはだ、もしかするとアレか?
彼女を訝しげに見つめてみるが、なんの反応もない。どうやら俺の視線に気付いていないらしい。
てことはだ、間違いない。十中八九確定だ。彼女の狙いは……コレか。
俺は手元に目を向ける。そこにはほかほかのチャーハンおにぎり。
いやね、別に彼女がコレを欲するなら上げるのも吝かじゃない。俺だっていい大人だし。大人だから、チャーハンおにぎりを大人買いしたし。袋の中にはまだおにぎりが沢山ある。
俺の推理からすると、彼女は給食の味付けに飽きたのではないだろうか。だから学校を抜け出して、代わり映えしない味を否定し、新たな味を求めて旅に出たのではないだろうか。
「なるほどね」
うんうんと頷き、彼女へと優しさを込めた視線を送る。
わかる、わかるぞ少女よ。そうだよな。あんな子供騙しの味に飼い馴らされたくない気持ち、俺にもわかる。だがな、大人になるとあの味が恋しくなるんだ。もう堪能出来ないあの味を、俺達は取り戻したいとな。だからこそ、少女には分かって欲しい。今だけの幸福を自らの下らない我が侭で手放してはいけない。
「しょうがねぇなぁ」
やれやれと立ち上がり、少女に近づいていく。少女は、なぜ俺が近づいているのかわかっていないのか、きょとんとしていた。
「そこの不良少女よ」
俺は顔を下に向ける少女に声を掛けてやる。掛けてやったが、少女は俺を無視して、動かない砂利をじっと見つめていた。
なんですか?反抗期ですか、そうですか。そうなぁ、社会に反抗したい年頃だよな。あの太平洋のように広い心の俺は無視されても怒らない。だって、俺は大人だもんな。
「お前の気持ちは良く分かる。辛いよな、苦しいよな」
「……は?」
おお、俺の気持ちが届いたのか、彼女は顔を上げた。そして、その顔を間近で見た俺は、不覚にも魅入られてしまいそうになってしまった。
何も手を加えた事のない綺麗で長い黒髪は、さらさらとしていて女性なら誰もが羨みそうだ。それに、やけに端正な顔立ちをしている。普通はこの位の年なら可愛いと表現するものだが、彼女は誰が見ても綺麗だ。切れ長の目に、スッと筋の通った形の良い鼻。唇は厚くもなく薄くもなく、理想的な形をしている。顔も全体的に小さめだ。なによりも俺が驚いたのは、その儚さだ。少しでも他人が触れれば消えてしまいそうな、そんな一瞬の美しさが彼女にはある。
そしてその雰囲気を、俺は知っていた。知っていたから、一瞬言葉に詰まり、彼女に惹かれてしまったんだ。……彼女からしたらどうでも良い、失礼な話かもしれないが。
「あの、なんですか?」
数秒フリーズしていた俺は、彼女の声にはっとして意識を取り戻した。
ガキ相手に何をトリップしてるんだ俺はと渇を入れる。色即是空色即是空。よし。
「なんですかじゃないよ。あのな、お前の気持ちは分かるよ俺も。嫌だよな、毎日毎日……わかるぞ」
「……すみません、意味わかりません。消えてください。この地球上から細胞一つ残らず」
はっはっはっ!照れちゃって可愛いなぁ~。て、照れ隠しだよね、その毒は?
「それな。反抗したくなるよな。アレだろ?代わり映えのしない給食の味が嫌で学校から逃げ出したんだろ?その気持ちわかるぞ俺は」
「いや、ほんと何言ってるんですか。病院行きますか?そして一生出てこないで下さい」
「強がるなよ反抗期娘。俺にはわかってるんだよ。その証拠にお前、ずっとこのチャーハンおにぎりを見てたじゃないか」
「……アタマ、ダイジョーブデスカ?」
自分の頭を指で突き、カタコトで言われた。あ、あれ?馬鹿にされてる?この推理が間違っているなんて……か、彼女なりの強がりだよね?そうだよね?
「良い!良いんだ強がらなくても!俺には隠さなくても良いんだよ。だから、これやるよお前に」
彼女の横にチャーハンおにぎりが大量に入った袋を置いてやる。サンタさんもびっくりな優しさですよ。
「いりません」
「そうか、嬉しいか!」
「鬱陶しいの間違いデス」
最後のデスが英語っぽく聞こえたんだけど気の所為に決まってる。だって、間違いだってことになったら、俺ってばただの痛い人じゃないか。あの母上にしてこの息子在りとか最悪ですよ。とにかく、このまま彼女の言葉を上書きして突っ走るしかないです。
「おっと、礼はいらないぜお嬢ちゃん」
「言ってない。一言も言ってない」
「だがな、人生の先輩から言っておかなきゃならんことがある」
「人間の言葉が通じない生命体に初めて遭遇したわ」
「いいか。確かに、給食ってのはお前等の意思に関係なく、品目も味も決まる。だけどな、それを楽しめる時間ってのは一瞬なんだよ。流れ星よりも早く時間は過ぎてしまう。だからな、俺は今を大切にして欲しい。後に掛け替えのない時間だったと、そう……キラキラと輝く大切な時間と味になるんだ。それだけは本当だって、俺は言えるのさ。だから……だからな……」
うん、俺を見上げる彼女の目が果てしなく冷めているんだが、俺の強心臓にそんなもん無意味だ。俺を倒したければ、エクスカリバーでも持って来い。
「あの陳腐な味を、大事にしてくれ」
決まった。こんなにかっこいい大人になったぜ、俺。母上様、あんたは自慢して良い。あんたの息子は、少女に侮蔑の眼差しを向けられても立っていられる、そんな強い男に育ったってな!
「……あの、もういいですか」
「あ、はい。なんかすんません」
俺の勇気ある行動は、彼女の鋭利な言葉によって切り刻まれ、俺はすごすごと立ち去る事に。
去り際に後ろをチラ見すると、あの毒々しい少女がチャーハンおにぎりをちょびちょび食っているのが見えた。
(結局食うんじゃねぇかよッ)
心の中で突っ込み、俺は今度こそ立ち去った。彼女へのちょっとした違和感に後ろ髪を引かれながら……
14才の初春。この年まで生きていれば未確認生物と遭遇する事があるのかもしれない。かなり天文学的数値の奇跡かもしれないけれど。まあ、未確認生物と言っても危害を加えてこないだけマシかもしれない。自分の餌も分け与えて行ってくれたようだし、まあ良い生き物だったと認めなくもないかしら。
それにしても……
「ふっ」
さっきの生き物の顔を思い出すと、込み上げてくる笑いが堪えきれなくて吹き出してしまう。
私の些細な言葉にあんな滑稽な顔をして、泣きそうな顔をして去っていくなんて……私より生きているでしょうに、なんて無様なのかしら。しかも何?私がサボっているのが、給食に不満があるからですって?
「あは、あははははははッ!!」
どこをどうしたらそのような解釈が成り立つのかしら。アレの思考回路を是非研究すべきだわ。どう論理を組み立てればその結論になるのか、私には想像も出来ない方程式がアレの中で組み上がっているのでしょう。
「あ~、面白いわ」
それに、あのドヤ顔での力押し。自分がかっこいいと本気で思っているのかしら?間の抜けた事を決め顔で言うなんてどうかしている。
最初、静かに私に近づいてくるものだから、少し警戒をしてしまったのだけれど、そんな必要はこれっぽっちもなかったわ。だって、あの生き物の視線には下衆な感情は受けなかった。雄なんて、どいつもこいつも私を舐め回すように見て、勝手に懸想する低脳ばかり。教師ですら、何人かは私に卑猥な視線をぶつけてくる。挙句には、女子までもが私をお高く気取った、いけ好かないお嬢様気取りと揶揄する始末。好き勝手に嫉妬するだなんて、自分の品位を貶めていると気付かないのかしら?
ほんと、どれもこれもが低脳の腐れ外道ばかり。それがここ数年生きてきた私が出した結論で、自分も、他人も全てが腐っているのだと……そう、思っていた。腐った外道に侵食されて、徐々に腐っていく自分を自覚したのはいつだったか……ああ、思い出したくもない。反吐が出る。
そうして、私は感情を腐らせ、殺した。感情を殺さなければ、私が殺されてしまうから。奴等とこの世界に、殺され尽くされてしまう。ならば、いっその事自分で殺してしまったほうが何倍もマシなのだから。
何年……私は、自分を殺し続けてきたのかしら?何年、都合の良い人形で居続けたのかしら?数えるのも億劫だったから、忘れてしまったわ。そんな私だったのだけれど……
「驚いた。ええ、驚いたわ、とても」
ここは神社だからかしら?だから、私の世界を壊した神とは違う、別な神様がアレを使えさせたのかもしれない。馬鹿で、能天気で、空気を読まない……でも、何一つ穢れない気持ちを持った奇特な生き物。まったく……参ったわ。ええ、とても参ってしまった。こんな感情が……笑顔がまだ自分の中にあったなんてね。でもね、神様。
「……ない、のよ」
歯を食いしばり、先程までの愉快な気持ちを外に追い出す。
危険なのだ。こんな些細な幸福は、毒にしかならない。だから、頭の中からさっきの生き物の、危険な無邪気な邪気を孕んだ笑顔を消し去る。
「一時の救いなんて、いらないのよッ――!!」
神社の静謐な空気を、私の叫びにも似た怨嗟が突き破った。
今だけの救いなんていらない。他人が伸ばす救いの手なんかいらない。楽しい、嬉しい、温かいなんて、そんな甘い感情なんて欲しくない。
どうせ救ってくれるなら、そんな一時の甘い感情なんかいらないのよ。そんなものこれからの人生では邪魔でしかない。私を殺す劇薬だ。希望はいつでも絶望に変わる事を私は知っているの。だから、彼が私に施した笑顔なんて絶対に享受しない。それは私を殺すギロチンへと変貌するのだから。だから、ね?お願いよ神様。あの様な一時の救いじゃダメなの。ここにいる神様は、お優しいのでしょう?あのような、馬鹿と出逢わせてくれたのですもの。そんなお優しい、お優しい神様にお願いします。
「ロールプレイングゲームって知ってるかしら?神ですもの、知らない事などないでしょう?私、私ね?ゲームのラスボスになりたいの。ほら、テンプレじゃない?彼らの目的って。私もね、同じなのよ」
この絶望の檻を壊すには、世界を壊すしかないじゃない。自分の力では無理なんだもの。叛逆の意思は下卑た笑みと手で挫かれ、希望は全て絶望に変えられてしまった。そうなってしまったらもう、世界を壊すしかないもの。世界を壊して、一から創り直す……そんな奇跡に頼るしか、もう私に出来る事はないの。
誰かにわかってもらおう、背負ってもらおうだなんて甘えは捨てた。自分への優しさは嘘に塗りたくられていると知った。無償の愛なんて虚飾と識った。
だから、どうかお願いします。
「どうか、お願いします。私を……この世界を壊けて下さい――」
石巻と言えば北上川。北上川と言えば釣り。釣りと言えばシーバスフィッシング。
北上川の河口は幅が広く、春から夏にかけて鱸が釣れる事で有名で、全国から釣りをしに人が集まる。ただ、まだ時期が早いため、釣りをしている人は疎らで物寂しさを感じてしまう。
小学から中学にかけて釣りが趣味だった俺は、釣りを止めた後も、何をするわけでもないがここによく来ていた。
「ふぅ、川の流れを見ていると荒んだ心が落ち着くわ」
さっきのガキに滅多クソに心をボコられて、軽く意気消沈なんだわ。ガキのくせに頭の良さそうな言葉遣いしやがって。理知的な見た目と相俟って魅力的に……じゃあ、いいじゃん。生意気だけど。
「女子に嫌われる女子の典型だなあれは」
儚げな雰囲気は似てるんだけどなぁ、あいつに。口を開けばトリカブトだなんてな。立てば毒薬、座ればアンチマテリアルフィールド、歩く姿はトリカブトってのはあのガキにぴったりの言葉だ。俺の造語だけどさ。
あの性格だと世の中生き難いだろうに。無駄に他人を敵にして味方をも敵にする。どうしてそうなったかは知らないが、想像は出来るんだよな。この年になるとそれなりに人を見てきたわけで……
あのガキと話している最中、すぐに気付いたが見ないようにしていた。そいつがあった場所が場所だけに、あまりジロジロ見るわけにもいかなかった。
「……あんなとこに火傷、ね」
今年はまだ真冬のように寒く、厚めのアウターを着ていたが、上から覗いたソレはあの年代の子供が付ける傷じゃない。しかも、火傷の下には痣まであった。いや、痣じゃねぇな。大人の男ならそれなりに恋人等に付けた事があるはずだ。つまり、キスマーク。中学生とかだと、自分の腕で練習したりとかするだろ?俺もやった。
あのマークと火傷は誰に付けられたものなのか……彼氏か、それ以外の何かか……
直接聞くのは躊躇われた。俺が聞いたところであのガキの人生を背負えるわけでもないし、ましてや今日あったばかりの見知らぬ男に話すわけもない。なら、俺に出来る事は馬鹿をやって、一時でも忘れさせてやる事だけだ。
そう、自分を納得させようとするが、心の奥底ではまったく逆の事を思う。また同じ過ちを繰り返すのかと……俺が俺を責め立てる。
わかっている。もう二度とあんな想いはしたくないって、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。だから、後悔しないように行動するべきだ。今日会ったばかりだろうと関係ない。傷ついた人間を助けるのに、時間や理由や関係なんて瑣末な事だ。
「わかってるんだけどなぁ~」
大人と言っても、まだまだ自分一人で手一杯なわけで、他人を救えるほどの器なんてまだ出来ていない。俺にはまだ理由が必要なんだ。
「悪いな、文月。だから、そんな顔すんなよ」
胸の内に浮かぶ、世界で一番の俺の宝石は、その表情を少しだけ翳らせて、俺を叱るようにむくれている。
まあ、お前なら俺を怒るだろうな。文月ならば、脇目も振らずにあの少女の手を取り、自分の腕の中へと迎え入れる。弱いくせに強い。そんな素敵な矛盾を持った女だから。俺の一番の誇りだ。
あの少女と、世界一の宝石を想い、苦笑を浮かべて、もしも今度会うことがあったなら、その時は俺の出来得る範囲で知恵と力を貸してやろうか。なんて、考え立ち上がった――その時だった――
外にいた人間は気付かなかった。建物の中にいた人間は気付けなかった。
予兆はとても小さく、電球や物がカタカタと小さく揺れるだけ。石巻は地震が多い土地で、住民はまたかと特に警戒もしない。皆が、地震を日常とし、油断と慢心を抱いてしまった。地震の本当の驚異をほとんどの人間は知らず、想像すら出来なかった。
小さな予兆が突如、近くに雷が落ちたかのよう、強く、大きな振動へと変わった。胃ではなく、心臓を振動させる音と共に、それはやってきた。
電柱が、マンションやビルが撓る。大地どころか、地球自体が揺れているかのように錯覚し、空までもが揺れていた。
外にいた者、建物の中にいた者全員が地に足を着いていなかった。床が、地面が全て液状化し、波の上に立っているようだった。
コンクリートが罅割れ、煙がそこから噴出し、電柱が何本か倒れ始める。
誰も彼もが心に浮かんだはずだ。今日、この日、前触れもなくこの世界が終わる。生き足掻く事さえ許されないのでは……と。
長かった。長い、長い揺れが人々を絶望で染めていった。生きた心地のしない時間が続き、地震以外の音が揺れている間消えて、日常が別世界へと変貌した。
早く、早く治まってと願い、祈り、ようやく治まった揺れ。一瞬の間があって……ようやく人々は音を発した。悲鳴という名の音を。
サイレンが街中に鳴り響いて、車が我先にとエンジンをかけて走っていく。
誰も彼もが騒然とし、ある者は我が子を迎えに走り、ある者は家へと走り、ある者は状況がわからず呆然と立ち尽くしていた。
家は大丈夫なのか、家族は、恋人は無事なのか……誰も彼もが自分の大切な者を心配し、兎に角会わなければと混乱した。
携帯の回線は一気にパンクし、なんど掛けても繋がらない。連絡手段を断たれた人々は、どこに行けばいいのかもわからなかった。とにかく、地震は終わった。だから、あの子の、彼女の、彼の安否を確認したい。日常の声を聞いて安心したい。不安を安堵に変えることに躍起になった。
だから……誰も彼もが考えもつかなかった。経験した事などないのだから。映画でしか観た事のないソレが、まさか街を、人を襲うだなんて、夢の世界の話でしかなかったのだから。
地震が治まって、あとは地震での被害を確認する。もう、これ以上の被害は出ない……なんて、緊張から解き放たれ、弛緩した思考は勝手に決め付けた。第一のミスは間違いなくこの思考だろう。
だが、そんな安堵してしまった人々の中、地震観測センターや気象庁以外の人間で少なからず異変に気付いた者達がいた。
揺れが治まり、地面に着けていた膝を離して立ち上がる。
やけに速い心臓の鼓動。汗が知らず知らずのうちに頬を伝って、地面に染みを作っていた。
鼓動を落ち着けるために深呼吸をし、落ち着いてきたところで一言。
「うおおおおぉぉぉッ!びっくしたぁ!マジびっくしたぁッ!」
今の何、今の何!?火山でも噴火したの?超巨大隕石でも落ちたの?経験した事ないんですけど!震度6なら経験ありますよ、ええ。でも、今のはない。震度6じゃないでしょアレ!7はあったよ絶対!地球終わったと思ったもん!
釣りをしていたおっさん二人を見ると、苦笑を浮かべて地震の事を話している。
いいなぁ。仲間がいるっていいよね?僕一人でちょっと怖いんですけど。僕もま~ぜてって行けないかな?そんなコミュ力ないんですけど。
河口の入り口近くにいた人達も戻ってくる。みんな無事を喜び、安堵の笑顔を浮かべていた。
そうね、一瞬の安堵って大事よねほんと。分かち合えたらもっと良いよね。ぼっち涙目ですけどね、ええ。
「そういや、あいつは大丈夫だったかな」
おにぎりを与えた少女の現状が気になる。あそこは山があるし、岩とか落ちてきても不思議じゃない。地盤がしっかりしてるって確証もないわけで……
「…………ん?」
そうして、あの無礼な少女を心配しながら、ふと俺は違和感を覚えた。それは、何気なしに視線を向けた川なのだが、どうにもおかしい。
釣り人達も俺と同じように疑問を持った人がいるらしく、ざわざわとし始めた。
曰く、「川の流れがおかしい」「こんなに早く川が海方面に引いている」「なんだこれ?」とのこと。
確かに、川を見ると異常な速さで引いていっている。だが、俺はその状況を上手くある事象、もしくは災害に結びつける事がなかなか出来なかった。それでも、落ち着いたはずの心臓が、ドクン、ドクン、と嫌な音で警鐘を鳴らし始める。
な、んだこれ?
俺の心の中に浮かぶのは一つだけだった。分からない。理解出来ない。それなのにどうしてこんな事を思うのか……
(まずいまずいまずいまずいまずい――ッ!!)
本能が叫ぶ。心臓が泣き叫ぶ。得体の知れない恐怖が全身を覆う。
足が、腕が、体の何もかもが震えだし、声も出ず、呼吸すら上手く機能しない。
そんな俺を余所に、ついにその言葉が俺ではなく、俺よりも長く生きてきたであろう釣り人から漏れ出た。それは、映画の中だけでしか知らない最悪な災害の名前。「……に、げろ」「……え?」「早く!車!津波が来るぞ!」そんなおっさんの叫びが響き、それを誰も笑わなかった。俺も……笑えなかった。
いや、現実感は全然ないんだけどさ……でも、さ。見れば笑えないんだよ。だって、こんなの見たことねぇもん。こんなに早く、さ……川の水位って下がるなんて……
「――ッ!!」
考えるよりも早く体が動いた。
(まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい――ッ!!)
震える足に無理矢理命令し、河口に背を向けて駆け出した。
「ざっけんなッ!!ざけんなよッ!!」
何を自分が口にしているのかも認識出来ず、頭の中が真っ白になっていた。
とにかく逃げないと。それだけが頭の中にあった。道に出ると、誰かが地震で転んで置き去りにしたのか、スクーターが道路の脇に転がっていた。
(ラッキー、サンキュー、愛してるッ!)
鍵が付いているのを確認してガッツポーズ。少し足を置く場所が壊れているが問題はない。
心の中で、誰のかわからないけど借ります。と謝罪して走り出す。走りながら俺は無我夢中で叫んでいた。
「――津波がッ!!津波が来ますッ!!みんな逃げろおおおおぉぉぉッ!!」
何度も、何度も、喉が切れそうなほどに叫びながら住宅街を疾走していく。
とにかく逃げないと。ここからなら近くに山がある。あそこなら津波が来ても助かる。幸いにも津波はまだ襲ってこない。本当に津波が来るかもわからないんだけど、川が異常な動きをしていたのは間違いじゃない。それなら逃げるしかないじゃないか。それに、通り道には神社が……
自分の命の安全ばかりを考え、本能的に動いていた身体。その身体を俺は力ずくで本能とは間逆の行動を取った。
震え続ける手を力一杯握って急ブレーキ。津波が来ると人々が騒ぎ始め、モラルが崩れていく中、俺はバイクを止めて自分の頭を殴りつける。
「なに、やってんだよ、俺」
神社の事を思い出し、あの少女が頭に浮かんでようやく大事な事に気付く。
津波がさぁ、本当に来るんだったらさぁ……こんなことしてる場合じゃねぇだろうがよッ!
自分を叱り付けてバイクのハンドルを彼女の元へと向けた。
誰も彼もが車で逃げ出し、渋滞で身動きが取れなくなってしまった中、俺は泣き叫ぶ人々の横を猛スピードで追い抜いていく。
(ここからなら、地元民で尚且つ、昔ここらに住んでた奴しか知らない裏道のが早いだろ!)
国道を横目に裏道を疾走。
もう、嫌なんだよ。誰にも奪わせないし、俺自身が消す事も許さない。この心に確かにある、色褪せることのない想いだけは……もう二度と手放しはしないッ!
(……ごめん、な)
俺は脳裏を過ぎった彼女に頭を下げ、もっと速くと限界までバイクのスピードを上げたのだった。
当初、サイレンと共に流れた津波警報は緊迫感のない物だった。なぜなら、津波の高さの予測が現実よりも遥かに小さかったのだ。地震から三分後に警報が出せるのが自慢だと、我が日本は誇っていたが、そんな誇りは誇りではなく埃だった。
津波到達第一波が地震発生後、約二十分で到達し、当初の予測よりも遥かに大きい津波が防波堤を乗り越え、街と人々をその得体の知れない巨大な獣の口のような、黒い波の中へと飲み込んだのだ。
津波警報が最初の警報より三十分後、当初の予測の二倍に、更に十五分後はその二倍にと予測を変えたが、時既に遅く、警報は何一つ意味を成さなかった。
第一波が到達する寸前、誰かが叫んだ。「津波が来るッ!早く逃げろッ!車は駄目だッ!」と。それを耳にした人達が彼の声に振り向いた瞬間――声の主は後方から襲ってきた黒い何かに飲み込まれた。
黒いソレは次々に人を、車を、家を体内に飲み込み、更に強大に、凶悪に成長していく。
水に浸かり、役に立たなくなった車内で、何度もエンジンを点けようと必死になり、そのまま波に飲まれ、車を捨てる人間もまた判断が遅れてソレの餌食になった。
誰も彼もを殺すその黒い波……それこそが『津波』と言う悪魔の名前だった。
ただ、ここで一つ誤解が無いように言っておきたい。警報を促していた方で、一人命懸けで人々を救おうと、その声を街中に届けた方がいる。ある町のその方は、自分のいる場所が波に飲み込まれるその時まで、最後の最後まで避難を促した。
ただ、人を助けたい一心で、自分の命を懸けたのだ。その方を人々は忘れないだろう。自分たちを救った英雄のその声を、絶対に忘れる事は無い。
気象庁が誤り、人々は倫理を見失い、背後から迫る濁流から逃れようと何もかもをかなぐり捨てた。
黒い波が迫り、恐怖に駆られた者が車を逆走させ、走って逃げる人間を何人も撥ね飛ばしながら走っていった。
波に流され助けを求めて伸ばす少女の手を、ずっと年上の男が横合いから弾き、自分を助けろと手を伸ばす。
マニュアル通りに動き、上司に指示を仰いだ教師が、子供達と避難し、高台に辿り着く前に共に波に飲まれた。
阿鼻叫喚の地獄絵図……津波が襲った町全てが地獄と化した。
救いは紙屑の様に流され、絶望と死が希望の代わりに波が運んでくる。
避難を促し、住民を助けに走る消防車が何台も流され、何人もの消防隊員がその勇敢な命を散らした。
波に飲まれた者だけではない。高台に逃れた者達の瞳には未来など映っていなかった。
溢れる涙を抑えきれず、咽び泣き、無力に嘆き、どうして?どうして?と答えのない問いを誰にともなく何度も投げかける。命、財産、仕事……思い出までもが無情に流されていく様を眺めている事しか出来ずにいた。
中には神に救いの手をと祈り、願い、請い続ける。方や神を呪い、憎しみを吐き出す者もいた。
たった数分。それだけ短い時間で、あっけなく、夢幻の如く世界が崩壊したのだ。
現実感の無い光景に誰もが涙し、唖然とし、項垂れて、立ち尽くす事しか出来なかった。
だから誰も知らない。誰にも知られてはいけない。悲劇ですらない現実の中でただ一人、この状況に歓喜している少女がいる事を……
「嘘、でしょ……」
神社の近くの誰もいない歩道橋の上で、私は眼下で起きている異常事態に自然と身震いした。震える身体を両手で包み、顔を俯ける。
だ、めだ……こんな、こんな事絶対にいけないとわかっているのに、必死に抑えようとしているのに……もう、我慢出来そうにない。
だって、ね?こんな状況なのに私、緩んじゃってる。人が、車が、家が流され、倒壊していっているのに、おかしいの。頬が緩んでしょうがないのッ!
「ふふ、ふっ、あははははははははッ!!」
それまで我慢して溜め込んだ狂気が破裂する。ああ、これが箍が外れるということかしら?
歩道橋の欄干に両手を着いて、私の絶望の檻の方向に向かって……
「ざまあみるがいいわッ!!」
何これ?なんなのよこれ?神の祝福か季節はずれのサンタさんかもしれないわね。良かった。生きてきてこれほど良かったと思うことはない。
「ああ、ああッ!神様!神様ッ!今初めてあなたに感謝するわ!」
今日までの痛み、恥辱、侮蔑、ありとあらゆる苦しみはこの日の為にあったのよ!
ここから見える、私を閉じ込めていた檻。それが紙で出来ていたかのように崩れていく。
「そうよ!私はこの日の為に生まれたのよ!」
あの屑畜生共の楽園が消える!目の前であっけなく、意味も無く!
得も謂われぬ恍惚が私を痺れさせる。麻薬を打ったかのような夢見心地。夢だったら許さないけれど、今なら何でも許せそう。
「死ねッ!死ねッ!死ねッ!私を殺した奴等は平等に死んでしまえ――ッ!!」
心の底からの私の叫びは、客観的に見れば異常でしょうね。けれども、こんなにも清々しい気持ちは始めてなのよ。あの豚共と同じ檻の中にいるようになってから、まさかこんな日が来るだなんて……信じられない。
身体が、心が歓喜で震える。異常者呼ばわりされたって構わない。私に与えられたこの祝福は私だけが知っていればいい。
確かに、私に縁も所縁も無い人達が流され、死んでいくのは偲びないのだけれども、それでも喜びが他人の命よりも勝る。
「……ああ、今が私の人生で一番の幸せだわ」
人々が死の足音に怯える中、私は愉悦と幸福に浸り、この世界でも稀な大災害を恍惚と眺めていた……だからかしら?私のすぐ横まで近づいてきた彼に気付かなかったのは。
「よお、随分楽しそうじゃねぇか。俺も混ぜろよ……クソ餓鬼」
その男は、昼間に会った馬鹿で余計な救いを与えた、私にとって最も最低な男だった。
世界が砕けた日、私はこの日にもう一度感謝する事になるとは、夢にも思わずにいた。
他人には恐怖と不幸だけの日。私には、救いと幸福と……後に自分を、考え得る限りの残虐な方法で殺したくなるほど後悔する……そんな一日。そしてこれが、私にとっての奇跡の一ヶ月の始まりだった。
初めまして、仇花と申します。
今回投稿させて頂いた小説は、実際に体験した事が含まれています。実はと言うと、僕は東北に住んでいまして、実際に震災を目の当たりにし、今思い返すとかなりの九死に一生をした人間です。それで、以前震災を題材にしたものを書いたのですが、上手く津波や地震を表現出来ず、あえなく断念しました。ですが、五年という月日が流れ、もう一度書いてみようと思い、この小説を書くことにしました。
全然上手く表現出来ていないのが申し訳ないですが、ご容赦下さい。
それに、あの当時の事を僕は細部まで覚えていません。その日生きることばかりを考えていましたし、家族を探す人達の手伝いをする事に忙殺され、いつスーパーが開き始めたのか等、よく覚えていないのです。
なんとか調べて書いていきますが、間違っていたなら申し訳ありません。
ちなみに、津波が来たときの彼の気持ちは、僕自身が感じた事です。地震直後の川を見て、僕はあの一言以外何も考えられなかったので。
では、拙い分ですが、今後ともよろしくお願いします。