突然の一瞬
いじめられなくなったあの日。あれから毎日、俺は柊さんと一緒に帰っていた。
柊さんの嬉しそうな顔をみると、俺も嬉しくなった。
といっても放課後だけの話で、学校では今だに暗いし、ちっとも楽しそうじゃない。
俺は、と言えばこの頃は毎日学校に行くようになった。
友達もたくさんできたし、雪とも仲良くできてるし。
なにか忘れているような気もする、心に小さな穴が空いてる気がする。でも、結局それがなんなのかは分からずに、毎日を過ごしていた。
そんなある日の夜。俺はいつも通りパジャマ姿でゲームをしていた。ちなみに、今日のパジャマは青い色のチェック柄だ。わりとお気に入りだったりする。
「チッ」
俺は小さく舌打ち。
あのゴリラみたいなボスに勝ててからは、しばらく順調になったのに、いきなりまた勝てなくなった。
今度は、鎌の代わりにナイフを持った死神のようなボスだ。こいつが意外と強敵で、一撃で負けてしまう。
本当、ムカつく奴だ。しかも、このボス。顔が笑ってやがる。
ゲームだから表情が変わらないのは当然だが、この気味悪い笑った顔が固定されているのが俺は嫌だった。
ずっと繰り返してゲームをしているが、いっこうに突破できない。突破できないから、スタミナは減っていくばかり。
仕方なく、リタイアする。これで、10回目だ。もう、スタミナもない。
「はぁ……」
俺は、ため息をつくと寝る前にトイレへ行くために、一階へおりていった。
ちらっとリビングをみる。
「あれ?」
そこには、なぜか明かりがついていた。
俺は、リビングに近づいて、耳をすました。
リビングから父さんと母さんの声がする。結構、深刻な話をしているのか、二人とも声が低いから声がよく聞こえない。
だが、二人とは違う明るい女の声も聞こえた。
その声は……そう、ニュース番組のアナウンサーの声だ。機械的にスラスラと原稿を読んでいくアナウンサー。
「今月中旬、女が殺人鬼に殺された、というニュースがありましたが、それと同人物らしき男が、昨日の夜、また女の人を殺したという緊急ニュースが入りました。 被害者の女性は胸を刺されたらしく、病院に搬送されましたが、重症です 他、その方の父とみられる男性も足を刺されましたが、軽傷です」
殺人鬼。 たしか前も聞いた。梢さんが言っていたはずだ。
うちの担任も女だし、もしかしたらこの殺人鬼が担任を刺したのかもしれない。
それにしても、この頃は物騒だ。
少子高齢化、離婚問題にセクハラ、しまいには殺人鬼。
こんなことばかり溢れた社会になってしまっては、俺らみたいな子供はどう生きていけばいいのだろうか。
そう思っていた時、突然母さんの叫ぶような声がした。
「もう、嫌なのよっ、私はっ!」
バシッ。
なにかモノを投げつける音がした。
「そんなことをいっても仕方がないだろう」
父さんの妙に落ち着いた声。
(なんで、そんなに落ち着いていられるんだよ。)
俺は、よくわからない状況の中、そう思った。
「嫌なの、私はもう出ていくわ。 真人の面倒はあなたが見て頂戴」
母さんは、そう言った。ないているのか、声が濁っている。ヒック、と嗚咽も小さく聞こえてくる。
そして、母さんの足音がこちらに近づいてきた。
俺は、咄嗟にトイレの個室に逃げ込んだ。
明かりをつけていないトイレは真っ暗闇だった。
前も後ろもよく分からなくなって、そこしれない恐怖に襲われる。
トイレの外から、母さんか家から出ていく音がした。
バタッ。
ドアが閉められる音がした。
俺がくる前に、なにがあったのかは分からない。
だけど、もう母さんは戻ってこないと直感した。
今更、母さんに泣きついてでも戻ってきて欲しい、とは思わない。
母さんはこんな生活が嫌だったのだろう。 俺も嫌だから。
それなのに、わざわざ引き止める必要がどこにあるだろう。
母さんは、母さんの生活をしていけばいいのだ。
そんなことを思いながら、トイレの個室から出る。
そして、そっと自分の部屋へと戻って行った。
目の前で起こった出来事のせいで、トイレをしに一階にきたことなど忘れていた。
次の日。 俺は、目が覚めるといつも通りパジャマから制服に着替えると、一階に降りていった。
顔を洗って、歯を磨く。 これもいつも通り。
そして、リビングにいく。
俺のいつも通りの生活は、リビングに入った時点で終わる。リビングの中心にある大きな机には小さな文字で何かを書かれたメモがあった。
「さようなら」
たった、それだけ。
黒字で書かれたそれは、俺への別れを示していた。
これは、父さんの字だった。
父さんは、母さんは、俺を置いて家を出て行ったのだ。
俺はどうすればいいのだろう。
親がいないなら、施設にいくことになるだろう。
そんな目に合えば、もう丸菜学園にはいけなくなるし、平穏な生活は送れないだろう。
しかし、そんな危機に面していても、やはり腹は減るものだ。
ぐーっ、と腹が空気を読めずに音を出した。
仕方なく、朝ごはんを食べながら今後のことを考えることにした。
なにか食べられるものはないか、と冷蔵庫を開けてみる。
すると、そこにはもう完成しているサラダがあった。
父さんが作ったのだろうか。母さんが作ったような綺麗なサラダではなく、ぶっきらぼうに盛られたあまり美味しそうではないサラダだった。
だが、胃袋に入ればなんでも同じこと。
俺は、サラダを取り出すと、机においた。 そして、コップに牛乳をなみなみとついで、そのサラダの横に並べた。
主食は、俺が適当に焼いたトースト。
ところどころ焦げて黒くなっているが、仕方ない。
俺は、さっさと食べはじめる。
牛乳はいつも通りの味だったが、サラダとトーストはまずかった。
サラダは食べられたものの、トースト。これは、まず過ぎて食べられない。
俺は、無理やりトーストに蜂蜜を塗る。
そして、口に入れる。まずいのはあまり変わらなかったが、少しはマシになった気がした。
がんばって、そのまま、全部食べ終えた。
とりあえず、学校にいくことにした。
来月の月謝を払う日までは、もしかしたらばれないかもしれない。親がいないということが。
そうなるほど社会は簡単じゃない。そんなことは分かっている。でも、こんな幻想を描かずにはいられなかった。
家を出ると、いつもと変わらない風景。
それをみて、俺はホッとした。まぁ、変わらないのがあたりまえなのにな。
母さんと父さんが居なくなったのは、かなり辛いことだ。
今まで必要ない人たちだと思っていたのに、居なくなったらすぐに辛くなる。
「おーい、真人っ!」
突然、後ろから声がした。声の主は、雪だ。
俺は、もう振り返る気にもならなかった。
「なんだ?」
だが、振り返らないわけにはいかない。特に理由はないけど、そうなのだ。
振り返ると、適当に言葉を返す。
「どうしたー、元気ないなー! あ、もしかして彼女にフられた?」
「黙れ。 お前の脳みそはからっきしか。 なにも入ってないのか、その頭に」
異常にムカついたから、雪の額にデコピンをした。
「いったぁー! なにすんのよっ、バカ真人っ」
雪がぴょんぴょんと飛び跳ねて俺を攻撃してきた。
俺にデコピンをしようとしているらしいが、雪の身長ではどう考えても俺には届かない。
雪はしばらくぴょんぴょん俺に挑戦していたが疲れてきたのか、その挑戦は俺のわき腹にチョップをすることで終わった。
結構、痛かった。
その時、遠くの方に少女が目についた。そして、その前にいるコートをきた男も。
(こんな暑い夏になぜコートをきているのだろう)
そう思いながら、好奇心で近寄ってみる。
後ろからまだ煩く「バカ真人ーっ!」などと言っている雪に「静かにしろっ」と声をかけながら。
かなり近づいてみると、少女が誰か分かった。柊さんだった。
彼女は泣いていた。 大粒の涙を流しながら、「やめてくださいっ」と叫んでいた。
その前にいた男は……ナイフを持っていた。
その時、俺は理解した。柊さんはこのナイフを持った男に襲われていたのだ。
普通なら、ここは俺が彼女を助けるところだろう。
だが、俺は嫌だった。
(柊さんを助けて、俺がもしかしたら刺されるかもしれない)
そう思うと、柊さんを助けることなんてできない。
俺は、雪に目配せをして、無言のままきた道を引き返そうとした。
だが、その行為は失敗に終わった。
「真人くんっーー!!」
柊さんが、叫んだのだ。 俺の名前を。
俺を見つけて、助けてもらおうとしたのだろう。
俺は、恐る恐る彼女の方を振り返った。
殺人鬼の目は……俺のほうをむいていた。ナイフも、俺に向けられていた。
「雪、逃げろっ!」
雪に向かって言う。すると、雪は殺人鬼の方をちらっとみたあとで、涙目になりながら逃げていった。なんども転けそうになりながら。