3 驚きの事実
急遽入った電話の対応をしていたり、そのために社内を駆け回ったりしているうちに昼休みは終わってしまい、来栖さんは途中で諦めたように溜息を吐きながら出て行ってしまった。その後姿は心なしかがっかりしているように見えて、案外口説きに来たというのは本気だったのだろうかと漠然と考える。
その後も必死になって仕事を片付けていたにもかかわらず、情け容赦なく飛び込んでくる新しい仕事のせいで、一向に机の上の仕事が減る気配はなかった。
そしてようやく手元が全て片付いたのは、午後八時近くのこと。既に営業マンの半数の姿も、事務所内から消えていた。
営業部の扉を背にしたとき、ようやくほっと息を吐いた。忙しすぎて病み上がりだなんてことを自分でも忘れていたけれど、今になって疲れが体の中から滲みだしてきた気がする。
家に帰ってから食事の準備をする気にもなれず、今日は外食にしようと心に決めた。一人暮らしをしているから正直経済的にはあまり余裕がないのだけれど、背に腹はかえられない。
そんなことを考えながらビルを出たとき、見覚えのある車がそこに止まっているのに気づいた。もしや、という考えが頭を過ぎる。
「残業、お疲れ様」
車に凭れかかるという気障な格好で声をかけてきたのは、やはり来栖さんだった。
「来栖さんも今までお仕事だったんですか?」
「まあね」
まあね、というのはどういう意味の「まあね」なのだろうか。すごく曖昧でいい加減な言葉だと受け止めるのは、私の感性がおかしいのだろうか。
「ところで。もしよければ夕食をご一緒していただけませんか」
にこやかな表情を浮かべ、とても洗練された仕草で差し出された手を眺め、この人は一体誰なのだろうと思った。
同じ会社のシステム部勤務。けれどそれはほんの二日前からのことで、それ以前の彼を私は知らない。沢渡さんから名古屋支店にいたと聞いたけれど、その頃の来栖さんのことは、何も知らない。知っていることといえば、来栖明良という名前と二十九歳だということ、そして一昨日一緒に雨宿りしたということだけ。
私の沈黙を拒否と受け取ったのか、来栖さんの微笑が消えていく。
「一緒に食事に行くのも嫌なくらい、僕は信用がありませんか」
「そういうわけではなくて、私、来栖さんのことを何も知りませんし」
その言葉に、来栖さんの表情が少しだけ明るくなった。
「それなら簡単だ。これから知っていけばいいんですよ」
それはごもっともな意見だとは思うのだけれど。
「それに、どうして来栖さんは私のことをご存知だったんですか。社内でも顔を合わせたことなんてなかったのに」
「え? あれ? もしかして、覚えていないんですか? ああ、だからなのか」
目を大きく見開いた驚きの表情が、やがて何か得心がいったというように変化し、何度も頷いている。
覚えていない? 何を?
「そのことも含めて、ぜひじっくりお話しましょう。ということで、善は急げです」
だらりと下に下ろしているだけの私の左手を右手で取り、来栖さんが車の助手席のドアを開けた。そして半ば強引に私を押し込んでからドアを閉め、驚くような速さで運転席に乗り込んだ。
「あ、あの?」
「とりあえず、食事にしましょう。実はかなり空腹なんですよ」
抗議の声を上げる暇もなく、車が車道に滑り出す。
「何がいいですか?」
「え、と。テーブルマナーとか面倒なので、気楽に食べられる所をお願いします」
一応基本のテーブルマナーくらいは知っているけれど、気を遣いながらの食事は気が進まない。
「崎谷さんは、お酒は飲まないんでしたよね」
どうしてそんなことを知っているのだろうか。けれど相変わらず来栖さんは答えをくれそうにはなく、謎ばかりが増えていく。
なんだかもやもやと胸の裡にわだかまるものを感じながら、窓の外に流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
パーキングに車を停め、来栖さんの後に着いて歩く。迷いなく進んでいくその足取りに、名古屋から異動してきたばかりだというのに、とても慣れているらしいのだと察した。もしかすると、名古屋に行く前は東京にいたのだろか。
「ここでいいですか」
「え。でもここは」
目の前に建つのは、全国にチェーン店展開をしている洋風居酒屋だった。お酒は飲まないと確認したのに、なぜわざわざここに来たのだろうか。
「家族連れでも入れるところですし、別にお酒を飲まなければならない、というわけでもなさそうですから」
確かに子連れの客もちらほら見受けられるし、昼間は普通の和洋食のレストランとして営業してはいる。会社のつきあいで何度か来たことがあるけれど、料理の味はまずまずだった。
仕方なく肩を竦めると、来栖さんが嬉しそうににっこりと笑顔を見せる。
席に着いて適当に注文を済ませ、突き出しをつつきながら見るとはなしに来栖さんの様子を窺った。
車だから、とアルコールではなく私と同じく烏龍茶を注文した来栖さんだが、飲み物にも箸にも手をつけずに、テーブルに頬杖をついている。そしてその穏やかな視線が真っ直ぐに私に向いていたりするものだから、落ち着かないことこの上ない。
「あの。そんなに見られると、食べ辛いんですけれど」
「気にしないで。店の飾りだと思ってくれればいいですから」
そうは思えないから困るんだけれど。
「そういえば、来栖さん」
「はい」
「来栖さんはどうして、私のことをご存知なんですか?」
「またその質問ですか」
来栖さんの口元が、微かに歪んだ。その苦い笑いに、なぜか罪悪感が湧いてくる。
「思い出してくれるまで待つつもりだったんですが、どうやら崎谷さんは綺麗に忘れているようだし。仕方がありませんから、答え合わせをしましょうか」
頬杖をやめて、来栖さんは背筋を伸ばした。つられて私もお箸を置いて背筋を伸ばす。
「まず先に説明しておきますが、僕は三年半前に名古屋に異動になる前は、本社にいました」
三年半前というと、ちょうど私が入社した頃だ。
「もちろん今と同じシステム部でしたが、時々頼まれて他の人の仕事を手伝うこともあったんです」
「他の、ですか?」
「そう。四年前、人事部の藤崎課長がストレスで体を壊して、半年間ほど代わりをしていたんです」
「え。じゃあ、私の入社試験の頃って」
「藤崎課長が倒れたのが、入社試験の三日前でした」
つまり、私の入社試験の案内や監督や面接なんかは来栖さんが担当した、ということなのだろうか。必死に当時の記憶を探ってみるけれど、目の前にいる人の面影は浮かんでこない。
「入社後の一ヶ月間の研修期間中に藤崎課長が復帰して、そこでお役ご免になったんですけれどね」
そこで少し引っかかった。当時なら今ほど個人情報に関して煩くはなかっただろうけれど、だからといって人事などという個人のプライバシー情報が集約されているような部署に、不測の事態とはいえ部外者を引き入れたりするものなのだろうか。
「詳しくは言えないんだけれど、社内での僕の位置づけというのがちょっと特殊で、社長や専務からの信頼が異常に厚いんです。元々入社の時に経理か人事にと言われていたのを、僕が拒否したという経緯があったりするんですよ」
一応会社の役員である川村部長付きという仕事柄、私も社長や専務から直接声がかかったりはしょっちゅうなのだけれど、来栖さんの場合はさらに次元が違う。なんだか頭がくらくらしてくる。
「ここからが本当の答え合わせです。システム部に戻ってから新入社員との関わりがなくなっていたんですが、研修終了の打ち上げがあったでしょう? あれに、僕も参加させてもらっていたんですよ」
そう言えば、同期の新入社員たちと人事部の人たちとで打ち上げに行った記憶がある。
「あれって、もしかしてこのお店じゃなかったですか?」
店内をぐるりと見回して確信を得た。やっぱりこのお店だ。
「正解。そして崎谷さんは周囲の勧めを断れず、チュウハイを飲んでいましたよね」
そうだ。乾杯のビールはおつきあいだからと無理して飲んだんだけれど、その後チュウハイを一杯半飲まされたはず。お陰で酔っ払っちゃって気分が悪いし頭が痛くなるしで途中で抜け出したんだった。
「抜け出したときに、家まで送って行ったのが僕だったんです」
「え。でも、確かあの人は眼鏡で」
人の顔を覚えるのが苦手な私は、とりあえず相手の特徴から覚えることにしている。川村部長は背が低くて白髪で笑顔が可愛いとか、専務は背が高くてごま塩頭で色黒でいつも小難しい顔をしているとか、そういう感じだ。
初対面なら、間違いなく眼鏡や髪型から覚える。あの時介抱してくれた人は、無茶苦茶背が高くて銀縁眼鏡をかけていた。
「ちょうどコンタクトを片方失くしてしまって、しかも仕事が詰まっていて新しいものを作りに行く暇がなかったんです。だから自宅用に使っていた眼鏡をかけていたんですよ」
来栖さんは、ほら、と言って上着のポケットから取り出した眼鏡をかけて見せた。
「あ、あああああーー!?」
思わず来栖さんの顔を指差し、声を上げてしまった。ちょうど揚げ出し豆腐を運んできてくれていた店員さんが、私の声にびっくりして危うくそれをひっくり返しそうになっていた。
「眼鏡って、かけているのとそうじゃないのとで、印象がガラッと変わるんですよ。気づかなくても無理がないと思います」
パーキングに停まったままの車の中、私は自己弁護とも取れる言葉を、溜息とともに吐き出した。
「僕もうっかりしていたんですよ。眼鏡をかけていたのは、本当にあの時期だけだったんです。」
それはそうだろうけれど。
「でもね、崎谷さん。入社試験や面接に研修の前半は、コンタクトだったんですよ」
それを言われると返す言葉がない。けれど言い訳させてもらえるのならば、あの頃は極度に緊張していた時期だった。人事の人の顔を覚える余裕なんてあるはずがなかったのも確かなのだ。
「あの時は崎谷さんが酔っていたから、手を出しませんでしたけれどね。翌日名古屋への異動の辞令を受け取って、かなり後悔しました」
「は? 後悔、ですか?」
「だから今度会った時には遠慮なんかしないで口説こうと、心に決めていたんですよ。それなのに崎谷さんが僕のことを全然覚えていないものだから、うっかり初手を打ち損ねてしまいました」
初手というのは、恐らく一昨日のことなんだろう。だからあのとき「下心」なんて言っていたのか、と妙に納得できた。
「そ、そそ、そうなんですか」
なぜか身の危険を感じた私は、来栖さんから離れようと試みる。けれどしょせん狭い車の中、身動ぎするのが精一杯だ。
「そうなんです。というわけで崎谷さん。改めて、僕とお付き合いしていただけませんか」
至近距離から顔を覗き込まれ、身動きどころか息をするのも苦しい状態に、心臓は暴れだすし顔は熱いしで、私はちょっとしたパニック状態に陥っている。未だかつてこんなに身の危険を感じたことがあっただろうか。
「無言は了承と取らせていただきますよ?」
「え? あ、あの」
慌てて言いかけた言葉が、不意に重ねられた来栖さんの唇に呑み込まれてしまった。その柔らかさと甘い感触に驚き、私は目を見開いたまま身動き一つできない。
「嫌だったら、逃げてもいいですから」
来栖さんの「逃がすつもりはありませんけれど」という言葉が、僅かに離れた唇をくすぐる。
「嫌、じゃ、ありません、から」
熱に浮かされたように、私の意思を無視して言葉が零れた。けれどそれは、紛れもない私の気持ちでもあって。
一昨日一目惚れをしたのかそれとも今日来栖さんという人を少し知ったことで惹かれたのか。それとも入社した頃に心に入り込んでいたのかもしれないなんて、自分でもはっきりとは分からないけれど。
再び重ねられた唇の感触に、今度はちゃんを目を閉じて応える。角度を変えて何度も重ねられる口付けは熱を帯び、どんどん深くなっていった。
週末ということもあって、その後かなり強引にお持ち帰りされてしまった私は、翌朝ベッドの中で、来栖さんからかなり驚くような事実を聞かされた。
来栖さんは実は社長のご子息で、けれど跡を継ぐ気はまったくなく、当初はこの会社に入社することすら拒否していたそうだ。社長・専務そして会長であるお婆様を巻き込んでの騒動の末、跡継ぎは専務の長男である沢渡さんに決まったらしい。それを条件に強制的に入社はさせられたけれど、と少し苦い顔で話してくれた。
どうりで身のこなしが洗練されていると感じたはずだ。
ちなみに来栖というのはお母様の旧姓で、社長一族と縁戚関係にあるということを隠すために使っているのだとか。
なんだか凄い人を恋人に持ってしまったのではないだろうかという思いとともに、私ではとても来栖さんに釣り合わないという考えが頭を過ぎる。二部上場企業の社長のご子息なんて、超がつくほどの庶民の私にとってはまったく別の世界の住人なのに。
「大丈夫。僕の母もごく普通のサラリーマンの娘だから」
なんでも、お母様に一目惚れした社長が押しの一手で口説き落とし、ゴールインしたのだとか。
なんとなく今の来栖さんと似ているなと思ってそれを口にしてみたら、来栖さんが思いっきり嫌そうな顔をした。