1 雨の出会い
雨が、降っていた。それはもう半端じゃないくらいの土砂降りで、傘をさしても無駄だと、一目で分かるほどの豪雨だった。秋の人事異動でうちの部署に来た新入りの歓迎会。アルコールが苦手だからと二次会を断った私は、駅まで徒歩十分あまりの距離を残して立ち往生してしまっている。
喫茶店の軒先に駆け込み、雨脚が弱まるのを待って既に二十分が経過していた。横殴りの雨と地面からの雨水の跳ね返しで、足元は既にびしょ濡れ。膝上丈のスカートさえも、かなりの水分を吸収してしまっている。まだおろしたてのこのスーツは今日で二回しか着ていないのに、これではクリーニングに出すしかない。
店内は突然の雨で避難した人々で溢れ返り、とてもじゃないけれど中に入る気も起きない。恐らくにわか雨だと思うのだけれど、それにしても一向にやむ気配がない。恨めしげに空を睨んでから視線を足元に落とし、盛大な溜息を吐いた。
「すみません、隣、いいですか」
その声に顔を上げると、軒先にかかるかかからないかの場所に、スーツ姿の男が立っていた。その手に持っている傘は、彼の頭部を守る以外全く役に立ってはいない。
「どうぞ。早く入ってください」
「じゃ、お邪魔します」
律儀にぺこりとお辞儀をして、男が私の右隣に来た。身長一五七センチに七センチヒールの私でさえ見上げるくらいの長身ということは、恐らく一八十センチ以上あるのではないだろうか。
年齢は、正直他人の年を見分けるのが不得意な私には見当がつかないのだけれど、スーツが身に馴染む程度には年を重ねているのだろう。綺麗と言うよりは男らしい造りの顔立ちで、僅かに茶色がかった硬そうな髪は、もしかすると今どき珍しい地色なのかもしれない。もっとも、私だって今どきの女にしては珍しく、髪を染めたりはしていないのだけれど。
仕立てのいいスーツは恐らくブランド物だと思うのだけれど、見る影もないほどの濡れ鼠。庶民な私は思わず勿体ないなと感じる。
「いやあ、参りました。突然降られてしまって。あなたもですか?」
無遠慮にもじろじろと相手を観察していた私は、その笑顔に慌てて笑顔を取り繕った。
「ええ。駅に向かっていたんですけれど、この雨で足止めをされてしまって」
「それは災難でしたね。僕は一応傘を持っていたんですが、この通り、あまり役には立ってくれませんでしたよ」
困ったような笑顔が、恐らく実際の年齢よりもずっと彼を若く見せる。その口調と表情の柔らかさが、初対面の男性と話すのがあまり得意ではない私に必要以上の警戒心を抱かせることがなく、ありがたかった。
それからとりとめもない世間話をしたりしながら、雨脚が弱まるのを待っていた。残暑も一段落して朝夕が涼しくなっていたせいで、ずぶ濡れの足元から体が冷え始めている。立ちっぱなしだったことも影響しているのだとは思うけれど、だからと言ってそのために雨の中を移動する気も起きなかったからだ。
ようやく雨脚が弱まったのは、この軒先に避難してから三十分が経ったころだった。とはいえ傘の持ち合わせがない私には、まだまだ動くことができないほどの降りっぷりだ。ここまで濡れたら、雨の中を歩くのも同じかなと思いはしたけれど、頭の先からつま先までずぶ濡れの状態で電車に乗りたくないのが正直なところだ。
「雨、少しましになりましたね」
「そうですね。でもまだ結構降っていますけれど」
「駅まではまだ遠いですし、よろしければ僕の車に乗って行きませんか?」
「は? お車で、って」
「すぐそこの駐車場に停めてあるんです」
だったらなぜさっさと車に乗って帰らなかったのだろうか、この人は。
「これくらいの雨ならすぐに車に戻れたのですが、さすがにさっきの豪雨の中を歩く気にはならなかったんですよ」
にこやかに微笑むその顔がとてもとても胡散臭く見えるのは、私の気のせいだろうか。
「いえ。せっかくのお言葉ですけれど、もう少し小降りになったら歩きますから」
この男は相手の心を掴む話術に長けているらしく、短い時間だが会話を楽しませてもらった。だからと言って身元どころか名前すら知らないような男の車に乗り込むほど、私はバカでも尻軽でもないつもりだ。
「おや。僕のことを警戒しているんですか」
穏やかだけれど、その顔には心外だという気配が窺える。
けれど妙齢の独身女である私が、そう易々と誘いに乗ると思われていたのだということに腹が立った。つまりはそういう尻の軽い女に見られていたということなのだから。
怒りを隠し無表情を装って、私は僅かに頷いた。
「うーん、参ったな。全く下心がないと言えば嘘になるけれど、今すぐ女性に不埒な行いをするほど飢えてはいませんよ」
つまりは、下心はあるけれど手は出さない、とでも言いたいのだろうか。男の目には真摯さが窺え、口先だけの言葉ではないのだと伝えている。信用していいものかどうか判断をつけかね、私は黙り込んでしまった。
こういうときにどう対応すればいいのか、咄嗟に判断できるだけの材料と経験を持ち合わせていなかったことが、少しだけ悔やまれる。あくまでも、少しだけ。
無言で考え込んでいる私を見て何を思ったのか、男はぽんと手を打ち合わせ、私の顔を覗き込んできた。
「こうしませんか。あと十分待って雨が止まなかったら、僕の車で駅まであなたを送らせていただきます。もし雨が止めば、そのまま歩いて行けばいいということで」
勢いで頷いてしまってから十分後。相変わらず降り続く雨に、私の心中はかなり複雑だった。
「じゃあ、車を取ってきますから。ここで待っていてください」
そう言い残し傘をさして駆け出す男の後姿を見送りながら、このままばっくれた方がいいのかも、という考えが頭を過ぎった。けれどこの雨の中に飛び出していくだけの気概もない。かと言ってこのままでは、帰りの電車がなくなってしまう。やはり濡れてでも駅まで歩くべきか、それとも出費を覚悟してタクシーを拾った方がいのだろうか。
葛藤しているうちに私の目の前に一台の車が停まり、内部から助手席のドアが開かれた。
「どうぞ」
所要時間三分。本当にすぐそばに停めていたらしい。
誘いに乗るべきか否かを迷っていると、困ったように苦笑を浮かべる男の顔が目に入った。
「早く乗っていただかないと、車の中が濡れてしまうんですが」
幾分おさまったとはいえ、風に吹かれた雨粒が開かれたドアから車中に降り込んでいる。
「でも、私が乗ったら、もっと濡れます」
既に水を吸って変色して重くなったスカートを見下ろしながら、私も苦笑を返す。このまま座れば、シートを濡らしてしまうのは目に見えている。
「僕も濡れているから、全然構いませんよ」
その矛盾した言葉に、私は首を傾げた。
「でも、濡れるのは困るんでしょう?」
「雨が吹き込むのは困るけれど、あなたを乗せて濡れるのなら全然かまいません」
先ほどから感じていたことだが、話術に長けているということは、つまり口が上手いということで。きっと普段から女性を口説くのも上手いんだろうなと、妙に納得させられる。
「駅まで送るだけですから。道を逸れそうだと感じたら、途中で逃げてもらっていいですよ」
そこまで言われては、断りきれるものじゃない。私は渋々といった態度で車に乗り込み、ドアを閉めた。
「走り出したら自動でロックがかかります。開けるときは、そのツマミを引いてください」
わざわざ教えてもらわなくても、車のドアの開け方くらい私だって知っている。けれどどうやらそれが「逃げてもいい」という言葉に対するフォローだと分かり、なんだかおかしくなってしまう。
「なにか変なことを言いましたか?」
「いえ、ただの思い出し笑いです」
そんないい加減な返事を本気で信じてはいないだろうけれど、それでも男は
「そうですか」
と頷いてから、サイドブレーキを解除した。
あれだけ警戒していたにもかかわらず、何事もなく車が駅に到着した。
「ここでいいんですよね?」
駅前のロータリーに車を停め、男がこちらを向いた。
「はい。ありがとうございました。あの、それと」
一瞬言いよどむ。車を降りてからにしたほうがいいだろうか。そう思ったけれど、やはりこういうことは先に言った方がいいだろう。
「疑って、すみませんでした」
その言葉に、男が破顔した。出会ってから今までの僅かな時間、穏やかな笑顔は何度も見たけれど、こんなに嬉しそうな顔は初めてだった。人を惹きつける不思議な力がある表情だなと感じる。
「どういたしまして。でも今度会ったときには口説くつもりだから、覚悟しておいてください」
口説くって、やはりあの口説くという意味だろうか。だとしたら、からかわれているのだろうか。それともやはりそういう軽い女だと思われていたのだろうか。どちらにしても愉快なことではない。それなのに私の口をついて出てきた言葉に、私自身が驚いた。
「あ、あの。お差し障りなければ、お名前を」
「ああ、そういえば名乗っていませんでしたね。僕は来栖ですよ、来栖明良。覚えておいてくださいね。崎谷佳苗さん」
なぜこの人は、私の名前を知っているのだろう? 一度も名乗ったりしなかったはずなのに。訝しむよりもびっくりする気持ちの方が大きくて、うっかりそのことを訊ね損ねてしまった。
「じゃ、おやすみ」
「あ。おやすみ、なさい」
呆気なく走り去る車を、その場に呆然と立ち尽くして見送った。
いつの間にか雨はやんでいて、涼しさを通り越して寒気さえ感じる。このままだと風邪を引くかもしれない。
車が見えなくなり、仕方なく私は、駅の階段に向かって歩き出す。
来栖明良。私は二度と会うこともないかもしれない男の名前を、最後に見た笑顔とともに頭の中に刻み込んだ。