団らん
ジュリアは食堂の扉の前で、一度だけ深呼吸をした。
侯爵家アークライトの朝食。それは前世において、決して穏やかな場ではなかった。
『エドワード、お前は判断が遅い』
『お前は優しすぎる』
『弟を見ろ。剣も頭も回る』
低く響く父の声。隣で拳を握る兄。何も言えなくなる自分。庇えば兄を傷つける。黙れば兄が傷つく。
だから朝食の時間は嫌いだった。パンの香りより先に胃が痛くなる場所だった。
「ジュリアお嬢様、本当に本日はお一人で……?」
「問題ない」
メイドの不安げな声を背に、ジュリアは扉を開けた。朝の日差しが白いクロスへ落ちている。銀食器。焼きたてのパン。静かな紅茶の香り。
「おはよう、ジュリア」
父が、笑っていた。理解が一瞬遅れた。アークライト侯爵。前世では常に厳格で、家督と責務を語り続けた男。その父が、新聞を片手に穏やかな顔をしている。
「……おはようございます、お父様」
反射的に背筋が伸びる。椅子を引く動作。座る角度。ナプキンの置き方。身体が勝手に完璧な令嬢作法をなぞった。
……便利だな、この身体。
「…………」
父が固まった。隣では母も目を丸くしている。
しまった、とジュリアは思った。元のジュリアはもっと雑だった記憶がある。食事中に癇癪を起こし、気に入らない献立へ文句を言い、兄へ八つ当たりする少女だったはずだ。
だが今さら戻せない。軍隊生活が長すぎた。食事作法は身体に染みついている。
「ジュリア、具合はもういいのか?」
兄――エドワードが恐る恐る声を掛けてくる。その声音に、胸がわずかに軋んだ。
生きている。目の前にいる。今朝、何度確認しても信じきれなかった事実が、朝の光の中に存在していた。
「……はい、お兄様」
自然と声が柔らかくなる。エドワードが微妙に目を逸らした。なんだその反応。ジュリアは小首を傾げる。だが視線は無意識に兄へ向いてしまう。
パンを取る手。カップを持つ指。穏やかに食事をする姿。生きている。本当に。
「…………」
「…………」
食卓に妙な沈黙が落ちた。ジュリアは気づいていない。
父と母は、気づいていた。娘がやたら兄を見ている。しかも今日は異様に行儀がいい。ナイフとフォークの扱いは完璧。姿勢も美しい。癇癪の気配ゼロ。時折ちらちら兄を見る。そして兄は兄で、妙にそわそわしている。
「…………ふふ」
母が耐えきれず微笑んだ。父も口元を押さえている。頬が、緩みきっていた。
「あなた」
「ああ……」
侯爵が低い声で頷く。
「これは……躾係を褒めるべきか?」
「ええ、本当に」
完全に勘違いしていた。ジュリアは紅茶を飲みながら眉を寄せる。
……何だ、この空気。
前世では考えられない。
父は兄を叱責しない。兄は萎縮していない。母は楽しそうに笑っている。同じ家族のはずなのに、まるで別物だった。理解できない。理解できない、のだが。なぜか酷く愛おしい時間。
「ジュリア、ジャムを取ってくれるか?」
「はい、お兄様」
自然に差し出した瞬間。エドワードが少し嬉しそうに笑った。その顔を見た瞬間。
ジュリアは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
……駄目だ。生きている兄を見ると、調子が狂う。
その様子を見て。父はとうとう耐えきれず、新聞の後ろで顔を隠した。
その頬は、完全にだらしなく緩んでいた。
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「お嬢様!? 何をなさっているんですか!?」
朝食後。悲鳴のような声を上げたリナが見たのは、窓を開け放ち、自分でシーツを畳んでいるジュリアの姿だった。
侯爵令嬢が、自分でシーツを整えようとしている。
「何って、片付けだが」
「わ、私がやります!!」
「いや、これくらい――」
「やらせてください!!」
半泣きである。ジュリアは困惑した。
戦場では、自分のことは自分でやるのが当然だった。装備の手入れも、衣服の補修も、寝床の確保も。むしろ人に任せる方が危険だった。
だから身体が勝手に動く。起きたら寝具を整える。使ったものを片付ける。次に動きやすいよう準備する。
それだけだ。
「……仕事を取るつもりはない。ただ、手が空いているなら自分でやった方が早い」
「は、早いとかそういう問題ではなく……!」
リナはふらつきながらシーツを受け取った。
怖い。昨日からお嬢様がおかしい。急に落ち着いた。怒鳴らない。物を投げない。使用人を罵倒しない。
それどころか、『ありがとう』『すまない』『無理はするな』などと言う。別人では?いや別人だとしても説明がつかない。
「リナ」
「ひゃ、ひゃい!」
変な声が出た。ジュリアは少し眉を下げる。
「そんなに怯えなくていい」
「…………」
「昨日から思っていたが、君たちは私を気にしすぎだ」
静かな声だった。責めるでもなく。試すでもなく。ただ純粋に、不思議そうに。
「お前たちにも仕事があるだろう。私一人に構っていたら負担になる」
リナは瞬きをした。"負担"。今、この人は。自分たち使用人の負担を気にしたのか。あの傲慢なジュリア様が?
「私は、自分でできることは自分でする」
そう言って、ジュリアは自然な動作で水差しを持ち上げた。リナが慌てて止める。
「そ、それも私が!」
「……? 水を飲むだけだぞ?」
「そういう問題ではありません!」
本気で分かっていない顔だった。そこでリナは、ふと気づく。"今"のお嬢様は、“令嬢だからやらない”という発想自体が薄い。だから平然と動く。
ドレス姿で家具を運ぼうとするし、自分で髪を結おうとして大惨事になりかけるし、あろうことか、湯浴みの準備までやろうとした。
そのたび使用人たちは青ざめた。だが。怒鳴られない。失敗しても責められない。むしろ、『助かった』『ありがとう』と、真っ直ぐ礼を言われる。
リナは胸の奥が妙にざわつくのを感じた。今まで、使用人は空気だった。いて当然。やって当然。褒められることも、気遣われることもない。報われない。それが上位貴族が下級貴族に対する普通の扱いだと思っていた。
けれど、"この"お嬢様は違う。違いすぎる。
「……お嬢様」
「なんだ」
「その……なぜ、そこまで私たちに気を遣われるのですか?」
ジュリアは少しだけ目を丸くした。逆にそんなことを聞かれると思わなかった顔だ。
「なぜ?」と当然のように答えた。
「仲間を雑に扱うと、最後に困るのは自分だからだ」
「…………え?」
「人は疲れる。無理をすれば判断を誤る。積み重なれば綻びになる」
淡々としていた。まるで経験則を語るように。
「だから、支える側ほど大事にするべきだ」
リナは息を忘れた。
その瞬間。
なぜか脳裏に浮かんだのは、昨日の姿だった。兄の生存を確かめるように鼓動へ触れた手。カレンダーを見た時の、あの絶望と執念が入り混じった顔。
この人は何かを知っている。何か、とても恐ろしいものを。その上で。誰かを守ろうとしている。
「……リナ?」
気づけば、リナは深く頭を下げていた。
「お嬢様」
「……?」
「どうか、何でもお申し付けください」声が震えている。
「私は、必ずお力になります」
ジュリアは少し困ったように瞬きをしたあと。
「……そうか」
と、小さく頷いた。その声音は静かだった。だがリナには、それで十分だった。
この日。リナ・フェルナンドは心の中で決めた。この人に仕えよう、と。
侯爵令嬢だからではない。優しいからでもない。この人はきっと、自分を削ってでも誰かを守る。
だからこそ。誰かが、この人を支えなければならないのだと。
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中庭に、乾いた打撃音が響いていた。
木剣。踏み込み。振り下ろし。そして、止まる。
「……っ」
エドワードが小さく息を吐く。額には玉になった汗。何度も繰り返しているのだろう。足元の芝は擦れていた。
ジュリアは回廊の陰から、その姿をじっと見つめていた。
――懐かしい。
前世でも、兄はこうして一人で鍛錬していた。誰も見ていない場所で。誰にも弱音を吐かず。『弟に負けるな』『跡取りとして恥じるな』父の言葉を飲み込んで。力んだまま、剣を振っていた。
そして結局。身体を壊しやすくなり、戦場で判断が遅れる癖が抜けなかった。違う。あれは才能が劣っていたわけじゃない。ただ、“無駄に力みすぎていた”。
「……駄目ですね」
気づけば、口から漏れていた。エドワードが振り返る。
「ジュリア?」
しまった。侯爵令嬢が剣術に口を出すのは不自然だ。だがもう遅い。ジュリアは諦めて回廊から出た。
「肩」
「え?」
「力が入りすぎています」
エドワードがきょとんとする。
「踏み込みで腰が死んでいます。腕で振るから剣先が流れます」
「…………」
「あと肘。広がりすぎです」
ぴしゃり。完全に軍隊式の指摘だった。
エドワードは数秒固まったあと、苦笑する。
「き、厳しいな……」
「事実です」
ジュリアは木剣を指差した。
「それでは敵を斬る前に、自分の身体が先に潰れます」
言ってから気づく。しまった。令嬢の語彙ではない。
だがエドワードは気にしていなかった。むしろ少し驚いたように目を瞬いている。
「ジュリア、剣なんて興味あったんだな」
「…………」
興味どころではない。命綱だった。だが言えないので、ジュリアは咳払いした。
「見ていて分かります」
「すごいな……?」
本気で感心している。ジュリアは妙な居心地の悪さを覚えた。前世では兄の方がずっと年上で、尊敬する存在だったのだ。剣を教える側に立つなど、妙な感覚だった。
「……一度、そのまま打ってみてください」
「う、うん?」
エドワードが構える。真面目だ。素直に従う。そして打ち込む。
「遅い」
「っ!?」
「踏み込みの前に肩が動くと敵に読まれます。もっと下半身から動かしてみて下さい」
「こ、こう?」
「違います。力を抜いてみて下さい」
「難しいな……」
ジュリアはため息を吐いた。もどかしい。あまりにも昔の兄と同じだった。真面目で。優しくて。だからこそ無意識に全部抱え込む。
気づけば、彼女は兄の背後へ回っていた。
「足」
「え?」
「開きすぎです」
ぺし、とふくらはぎを叩く。エドワードがびくっとした。
「腰は落としすぎないで。重心が固定されます」
「は、はい」
「肩の力を抜いて」
自然と身体が動いていた。軍学校で後輩を指導していた頃の癖だ。エドワードの腕を軽く押し、姿勢を矯正する。
「剣は腕で振らない。腰から連動したほうがいいです」
「こ、こう……?」
「そうです」
ジュリアは数歩下がる。
「もう一度」
エドワードが踏み込む。先ほどより滑らかだった。
剣筋がぶれない。空気を裂く音が変わる。
「……あ」
エドワード自身が驚いた顔をした。
もう一度。さらに一度。
目に見えて動きが良くなる。
「え、すご……」
本人が一番困惑している。
「振りやすい……!」
「当然です」
「すごい、ジュリア!なんで分かるんだ!?」
目が輝いていた。犬か。ジュリアはちょっと引いた。
「見れば分かります」
「天才だ……!」
「違います」
「いや絶対そうだよ!」
エドワードは完全に感動していた。木剣を握ったまま、尊敬の眼差しを向けてくる。
やめろ。その顔はずるい。前世で見たかった兄の顔、そのものだった。
「ジュリア、また教えてくれるか?」
「…………」
一瞬、返事に詰まる。
本当は。本当はもう失いたくない。もっと強くなってほしい。今度こそ、生き残ってほしい。
そんな感情が喉元までせり上がる。だからジュリアは、わざと素っ気なく言った。
「仕方ないですね」
「本当か!?」
「その代わり、力みは直して下さい」
「うん!」
満面の笑みだった。その顔を見て。ジュリアはそっと視線を逸らす。
……駄目だ。生きている兄は、想像以上に心臓に悪い。




