第一章 記憶という名の鎖
登場人物
【スパイ】
二條兼秀 55歳 外務省局
Code G08-03
本名 四戸明
25歳の頃に事故に合い、以前の記憶がない
元外務大臣 二條兼郷の養子となる
高橋義等 32歳
Code G08-34
二條兼秀と行動を共にする
長嶺四郎 57歳
Code G08-02
外局長 二條と高橋の上席
金葉円 26歳
Code G08-49
長嶺局長秘書
【二條家】
二條兼郷 98歳
元民法党党首
二條かおり 38歳
兼秀のサポートを常に心がけている
二條ホールディングスの社長
二條隆 32歳
本来家業を継ぐ者だが、海外で生活をしている
二條正孝 72歳
兼郷の弟 二條ホールディングス 専務取締役
【私立探偵】
舘川剛 36歳
四戸領とは中学時代、同じ部活で活躍する
豊玉ひかる 23歳
舘川剛の秘書
セキュリティに詳しく、また情報通でもある
【エージェント】
四戸領 36歳
新宿を寝城とするスナイパー
四戸明の弟だが、幼少期に生き別れ互いにその存在を知らない
普段は中古車屋を営んでいる
鷹見みさ 24歳
元保険外交員
四戸領の弟子の身分
本来の立場を知る者はいない
【大泥棒】
過罪正年齢不詳、国籍不明
アジアを各地を拠点とする
【マフィア】
陳英順 95歳
ハルピン、上海を牛耳る長
四戸兄弟の父親
本名は四戸達
【政府】
柏芳雄 68歳
元内閣総理大臣
太刀機美咲 32歳
衆議院議員
【企業】
松元頭取 56歳
第三銀行
宮﨑会長 56歳
丸菱ホールディングス
【海外企業】
ジョージ•加藤 46歳
カナダオークス社長
ダグラス•ケイン 34歳
保険外交員/産業スパイ
第一章 記憶という名の鎖
一
東京の夜は、嘘をつくのが得意だ。
霞が関の官庁街を抜ける風は、この季節になると決まって湿り気を帯びる。六月の初旬、梅雨前線が本州に近づきつつある夜、外務省の裏手にある雑居ビルの六階は、まだ煌々と明かりが灯っていた。表通りから見れば、残業に励む会社員の部屋にしか見えない。実際、表札には「アジア貿易コンサルタント株式会社」とある。ドアを開けても、受付には観葉植物と事務机が並んでいるだけだ。
だが奥の扉、指紋認証と虹彩スキャンを組み合わせた重厚なそれを抜けた先に、本当の仕事場がある。
二條兼秀は、その部屋の中央に置かれた楕円形のテーブルに両肘をついて、手の中の写真を見ていた。
五十五歳。白髪混じりの髪を短く刈り込み、彫りの深い顔には幾筋もの皺が刻まれている。体格は中肉中背だが、スーツの下に隠れた筋肉の密度は、その年齢に似つかわしくない。指が長く、かつてピアニストを目指した人間のような手だ、とかつて誰かに言われたことがある。それが誰だったか、二條には思い出せない。思い出せないことは、彼の人生において、呼吸と同じくらい自然なことだった。
写真には、上海の夜景を背景に、高層ビルのテラスで談笑する数人の男たちが写っていた。画質は粗い。相当な距離から望遠レンズで撮影されたものだと、一目でわかる。
「陳英順」
二條は静かに言った。声に感情はない。事実を確認するように、ただ名前を口にした。
写真の中心にいる老人。白髪を後ろに撫でつけ、オーダーメイドと思しき黒いスーツを纏った男は、九十五歳とは到底思えない威圧感を放っていた。細い目が笑っているのに、笑っていない。何十年もかけて磨き上げられた、人を見る眼だ。ハルピンと上海の両都市で、名実ともに裏社会を支配するマフィアの長。アジアの暗黒街では、その名前を口にすることすら憚られる男。
二條の視線は、老人の隣に立つ男へと移った。
四十代後半と思われる日系の顔立ち。長身で、茶色がかった髪を無造作に流し、白いドレスシャツの袖を捲り上げている。笑顔が人懐っこい。どこか屈託のない、カナダあたりで成功した実業家というイメージ。
「ジョージ・加藤」
二條は再び呟いた。カナダオークス社長。表向きは再生可能エネルギー関連のコンサルタント企業の代表だ。だが、カナダ情報保安局が十八ヶ月前から内偵を進めているという情報が、先月初めてこちらに届いた。
「二條さん」
部屋の隅から声がした。高橋義等が、コーヒーの入ったマグカップを二つ持って近づいてくる。三十二歳。引き締まった体つきで、目が鋭い。だが普段は軽口を叩くことが多く、職場の空気を和らげる役割を自然と担っている。
「長嶺局長からの追加資料が来ました。今朝の分です」
高橋はテーブルにマグカップを置き、タブレット端末を差し出した。二條はそれを受け取り、画面をスクロールする。
「ダグラス・ケインの動きが活発になっている」
高橋が背もたれのない椅子に腰を下ろしながら言った。「先週ソウル、一昨日は台北。そして昨日の夜、成田から入国しています。保険外交員という肩書きで」
「保険外交員」
二條は短く繰り返した。
「まあ、産業スパイの方が本職ですよね」
高橋は皮肉な笑みを浮かべた。「カナダオークスと繋がっているという証拠はまだ掴めていませんが、タイミングが良すぎる。ケインが東京に来た翌日、加藤が上海から動こうとしている」
二條はコーヒーに手を伸ばした。一口飲んで、少しだけ眉を上げる。
「金葉くんが淹れた」
「ええ。局長室から降りてくる前に。彼女、最近コーヒーに凝ってるみたいで」
「美味い」
「でしょう。僕も毎朝楽しみにしてるんですよ」
高橋は笑った。二條は笑わなかった。写真の中の陳英順の目を、もう一度見た。
三十年前、二條兼秀という人間は存在しなかった。戸籍上は存在していたかもしれないが、それは記録の話だ。二條が二條になったのは、二十五歳の夏、事故の後からだ。
崖から転落した。それだけが記録に残っていた。山形県の山中で発見された、記憶喪失の若い男。身元不明。持ち物はなく、ただ生きていた。四戸明という名前も、後になって戸籍を辿る過程で判明したものだ。
だが四戸明として生きた三十年間の記憶は、どこにも残っていない。
あるのは、二條兼秀として歩んだ三十年だ。恩師と呼ぶべき元外務大臣・二條兼郷に拾われ、その養子となり、外務省の裏組織で働き始めた。なぜそれを選んだのかも、今となってはよくわからない。ただ、向いていると思った。感情を切り離すことが。過去を持たないということが、ある種の仕事には有利に働くことを、二條は身をもって知っていた。
「明日」と二條は言った。「ケインの動きを追う。宿泊先は」
「赤坂のホテルニューグランド東京。二十三階のスイートです。加藤と同じ系列のホテルを使う傾向がある」
「接触するまでの時間は」
「早ければ明後日には。でも」高橋は少し間を置いた。「長嶺局長は、まだ泳がせておけという判断です。ケインを通じて、加藤の動きを把握したい。上の意向でもある」
二條は写真を裏返した。テーブルの上に伏せて、コーヒーを飲んだ。
「わかった」
それ以上は何も言わなかった。高橋もそれ以上は聞かなかった。二人の間には、言葉を省くことで成立する信頼がある。長い仕事の中で積み上げてきた、静かな了解。
雨が窓を叩き始めた。
東京の六月が、また嘘をつこうとしていた。
二
同じ夜、新宿区大久保の一角に、目立たない中古車屋があった。
「フォーズオート」という看板は、少し錆びている。ショールームには古めかしい国産車が数台並んでいるが、店内の照明はいつも暗い。平日の昼間でも客がほとんど来ない店として、近隣では知られている。
四戸領は、その店の二階に住んでいた。
三十六歳。中背だが肩幅が広く、腕が長い。無造作に伸ばした黒髪、鋭いが感情の読めない目。顔には細い傷跡が一本、右頬から顎にかけて走っている。普段は寡黙で、口を開くときは必要なことしか言わない。
今夜は、狙撃用ライフルの整備をしていた。
テーブルの上に部品を丁寧に並べて、油を染み込ませた布で一つ一つ拭いていく。手慣れた動作。考えなくてもできる作業。頭が別のことを考えながらでも、手は正確に動く。
「領さん」
階段の上から声がした。鷹見みさが、二つのコップを持って現れた。二十四歳。小柄で、外見は普通の若い女性に見える。目が柔らかく、笑うと少し幼く見える。元保険外交員という経歴は、その見た目に違和感がない。
だが、彼女の本当の姿を知る者は、ほとんどいない。
「緑茶でいいですか」
「ああ」
みさはテーブルの隅にコップを置き、椅子を引いて座った。じっと領の手元を見ている。
「明後日の件、確認したいんですけど」
「依頼の話か」
「ええ。舘川さんから連絡が来てて」
領の手が一瞬止まった。
舘川剛。三十六歳、私立探偵。領とは中学の同じ部活で、同い年だ。今も時折、仕事上での繋がりがある。探偵と、エージェントと、どちらからとも言えない曖昧な関係。互いの仕事を完全には明かさないまま、それなりに長い付き合いになっていた。
「何の依頼だ」
「直接は言ってないんですが、人物調査みたいです。ダグラス・ケインという外国人。成田から昨日入国した」
領は布を置いた。
「舘川が個人でやってる案件か」
「依頼人は太刀機議員らしいです。衆議院議員の」
領は少し考えた。太刀機美咲。三十二歳の衆議院議員。当選二回、内閣委員会所属。派閥の後ろ盾は柏芳雄元首相。党内では中堅だが、近年急速に発言力を増している。
「舘川はケインの何を調べたいんだ」
「来日目的と、接触する相手の特定。特に、国内の金融機関や大企業との接触が疑われているって」
「松元頭取か、宮﨑会長か」
みさが少し目を見開いた。
「なんでわかったんですか」
「勘だ」
領は再び布を手に取った。正確には勘ではなかった。この手の動きには、決まってパターンがある。外国の産業スパイが日本で動くとき、最初に接触するのは金か情報だ。金融機関か大企業か、どちらかが必ず絡む。そしてケインの名前は、三年前に自分が関わったある案件の周辺で、一度だけ聞いたことがあった。
「断るか、受けるか」
「どう思いますか」
「舘川が正直に話してくれるなら、受けてもいい。条件付きで」
「条件は」
「情報の共有。舘川が掴んだものは全部こちらに入れてもらう。俺が動いた分も、必要なら伝える」
みさはメモを取った。古いノートに、細かい字で。スマートフォンにはほとんど記録を残さない。それがこの仕事の基本だと、みさは師匠から叩き込まれていた。
「わかりました。明日、舘川さんに連絡します」
「今夜、連絡しろ。明日では遅い可能性がある」
みさは顔を上げた。「何かあるんですか」
「ケインが明日にも動く可能性がある。先手を打っておきたい」
「……了解です」
みさは立ち上がり、スマートフォンを手に部屋を出ていった。領は再び整備に戻った。
新宿の夜は騒がしいが、この部屋の中は静かだ。
領は、兄のことを考えたことはない。なぜなら、兄がいることを知らないからだ。知っているのは、五歳の頃に父親と別れて、親戚の家で育ったということだけだ。父の名前は聞いたことがあるが、顔を覚えていない。どこかで生きているのか、死んでいるのかも知らない。
知る必要もないと思っていた。
少なくとも、今夜までは。
三
翌朝、長嶺四郎は六時に出勤した。
五十七歳。外局長のコードはG08-02。この組織の中で、二條よりも古株は数えるほどしかいない。長身で骨太、短く刈り込んだ白髪に、太い眉。顔全体に疲れが染みついているように見えるが、目だけは若い。
局長室に入ると、金葉円がすでにデスクにいた。
「おはようございます」
金葉は立ち上がった。二十六歳。小柄で、肩まである黒髪を常に整えている。局長秘書としての立ち居振る舞いは完璧だが、その背後に何を考えているのかを読むのは難しい。コードG08-49。この仕事には不釣り合いなほど若いが、長嶺は彼女の能力を高く評価していた。
「夜中に何かあったか」
「二件、報告があります。一つは、ダグラス・ケインが昨夜、赤坂で人物と接触しています。相手の特定は現在作業中ですが、日本人の男性です。三十代か四十代と見られます」
「早い」
「ええ。入国して十二時間も経っていないタイミングです」
「もう一つは」
「柏元首相の秘書官から、今朝の早い時間に非公式の連絡が入りました。内容は……」金葉は手元のメモを見た。「二條局員に会いたいと。非公式で、秘密裏に」
長嶺は窓の外を見た。まだ夜明け前の東京が、灰色の空の下で眠っている。
「柏が」
長い沈黙があった。
柏芳雄。六十八歳。元内閣総理大臣。民法党の重鎮で、現在は表向き政界の第一線を退いているが、その影響力は依然として大きい。二年前の内閣改造の際も、党内調整に柏の名前が何度も出た。表に出ない力の持ち主。
「二條には伝えたか」
「まだです。局長のご判断を待っていました」
「伝えろ。ただし、俺も同席する。そういう条件で先方に返答しろ」
「はい」
「それと」長嶺は金葉を振り返った。「太刀機議員の動きを確認しておけ。昨夜、妙な動きをしているという話が耳に入った」
「太刀機議員ですか」
「あの女は柏の息のかかった人間だ。柏が動くなら、太刀機も何かを知っているはずだ」
金葉は短くメモを取り、頷いた。「了解しました」
長嶺はコートを椅子に掛け、自分のデスクに座った。引き出しを開けて、鍵のかかったフォルダーを取り出す。中には、長嶺が三十年かけて集めた資料の要約がある。公式には存在しない資料。いつか必要になると思って、自分だけの手で管理してきた記録。
その中の一枚に、四戸達という名前がある。
現在の名前は陳英順。マフィアの長。九十五歳。
だが長嶺が今、気になっているのは、その息子たちのことだった。
四
赤坂の静かな通りに、舘川剛は車を停めた。
三十六歳、私立探偵。中肉中背で、どこにでもいそうな顔つきをしている。それが仕事上の強みでもある。目立たないことが、この仕事の基本だ。
「どこ行きましたかね、ケイン」
隣の助手席で、豊玉ひかるがノートパソコンの画面を見ながら言った。二十三歳。ショートカットで、眼鏡をかけている。舘川の秘書だが、その実力はある分野では舘川を上回る。セキュリティとデジタル情報収集においては、プロの中のプロと言っていい。
「ホテルに戻ったはず。問題は接触した相手だ」
「カメラの画像、解析しています。ちょっと待って」
ひかるがキーボードを叩く。信号機の近くにある防犯カメラの映像を、合法とは言いがたい手段で取得している。それを問い質したことはない。舘川は結果を見る人間だ。
「あ」ひかるが声を上げた。「出ました。男性、三十代半ば、日本人。顔のデータは……照合中」
「急がなくていい。ゆっくりやれ」
「でも舘川さん、依頼主から今日の午前中に報告しろって言われてますよね」
「太刀機議員は待てる人間だ」
ひかるが少し眉を上げた。「議員と直接知り合いなんですか」
「顔は知っている。向こうが俺のことを知っているかどうかは知らない」
嘘ではなかったが、全部の真実でもなかった。太刀機美咲とは、五年前に一度だけ会っている。場所は柏元首相の私邸のパーティーだった。その場に舘川がいたのは、別の調査の流れだった。太刀機は当時まだ当選一回の新人議員で、柏の近くに寄り添うように立っていた。
今回の依頼が太刀機の名前で来たとき、舘川は少し驚いた。だが断る理由もなかった。
「舘川さん」ひかるが画面を見ながら言った。「照合完了しました。ただ」
「何だ」
「データベースにヒットしたんですが、ちょっと変で」
「どう変だ」
「この人、公式の記録がほとんどないんです。顔は出ているのに、名前が複数の候補に散らばっていて……一つだけ確からしいのが」
ひかるはパソコンを舘川の方に向けた。
画面には、ぼやけた写真と、一つの名前があった。
四戸領。
舘川の表情が変わった。わずかに、ほんのわずかに。だが変わった。
「……領か」
「知ってる人ですか」
「ああ」舘川はシートに背中を預けた。「中学の頃、一緒に野球をやっていた」
ひかるが驚いた顔をした。「え、それって普通の知り合いですか」
「普通じゃない部分もある」
「ということは、ケインが接触したのはスパイとか……」
「エージェントだ。そういう言い方をする」
舘川はしばらく黙った。雨が降り始めていた。フロントガラスに小さな雫が張り付いては流れていく。
領がケインと接触した。それは、誰かが領にケインの監視を依頼したということだ。舘川と同じ依頼人か、あるいは全く別の筋からか。
どちらにせよ、この案件は思ったより深い。
「ひかる」
「はい」
「俺の個人の連絡先から、四戸領に連絡を入れてくれ。緊急の用があると。番号は俺のスマホの連絡先に入っている」
「了解です。でも、答えてくれますかね」
「たぶん、今夜は答える」
五
その日の昼、二條兼秀は赤坂の料亭にいた。
表向きは外務省の非公式な会食という設定になっている。案内された奥の個室は、廊下から完全に遮断されており、窓は中庭に面している。昼間でも薄暗く、静かだ。
柏芳雄は、すでに席についていた。
六十八歳。元首相。だが「元」という言葉が似合わない男だ。白髪で、顔に深い皺が刻まれているが、背筋が伸びていて、声に張りがある。政治家として三十年以上生き残った者特有の、どこか超然とした雰囲気を漂わせている。
二條の隣には長嶺が座った。向かいに柏と、柏の秘書官らしき若い男。
「二條さんには初めてお目にかかりますな」
柏が言った。二條は軽く頭を下げた。
「お呼び立ていただき、光栄です」
「いや、こちらからお願いしたことです。長嶺さんには無理を言って申し訳ない」
長嶺は表情を変えなかった。「いえ、滅相もない」
料理が運ばれてきた。山菜の先付けと、だし巻き卵。季節の食材を丁寧に使った、この料亭らしい仕事だ。しばらく当たり障りのない会話が続いた。天候のこと、国会の日程のこと、最近読んだ本のこと。
二條は口数が少なかった。柏が何を言いたいのかを、静かに待っていた。
料理が三品目になったところで、柏は秘書官に目配せした。男は立ち上がり、個室を出ていった。
「二人だけにしていただいた」
柏は箸を置いた。「率直に話しましょう。陳英順の件です」
長嶺の目が微かに動いた。二條は動じなかった。
「何をご存知ですか」
「あの男が、日本に何らかの工作を仕掛けようとしている。それは、わたしの独自の情報源からも裏が取れている」
「具体的には」
「丸菱ホールディングスと第三銀行です」
二條は柏の目を見た。
「宮﨑会長と松元頭取」
「そうです」柏は静かに頷いた。「陳は、日本の金融と産業の中枢に、自分の人間を送り込もうとしている。それが、ダグラス・ケインの役割です」
「ケインは陳の人間ですか」
「直接の繋がりかどうかは確認できていない。ただ」柏は一瞬だけ目を伏せた。「カナダオークスのジョージ・加藤が、陳の資金を動かすフロント企業の一つである可能性が高い。そして加藤とケインは、同じ組織の中で動いている」
長嶺が言った。「それは、政府の公式な見解ですか」
「公式にはなっていない。なれない事情があります」
「どういう事情ですか」
柏は少し間を置いた。
「陳英順という男は、ただのマフィアの親玉ではない。あの男の過去には、日本の政治と深い関わりがある。具体的には……三十年前、ある政府の工作に、陳は協力していた。その記録が、今も消えずに残っている」
二條は何も言わなかった。
「その記録が表に出れば、今の与党にとって致命的な打撃になる。陳はその記録を人質にしている。だから、政府は陳に強硬な手段を取れない」
「なぜ我々に話されるのですか」
「あなた方は、政府の外にいる。外務省の公式な組織でもない。だからこそ、動ける」
二條は柏の顔を見続けた。老政治家の目に、恐れと、焦りと、それ以外の何かが混じっているのが見えた。それ以外の何か。
「柏先生」
「はい」
「三十年前の工作とは、何ですか」
また沈黙があった。柏はゆっくりと茶を飲んだ。
「今日は、そこまでは話せない」
「では、いつ話せますか」
「あなた方が、陳の動きを止めてくれると約束してくれたなら」
二條は長嶺を見た。長嶺は小さく頷いた。
「検討します」と二條は言った。「ただし、情報の全開示が条件です。三十年前のことも含めて」
柏は少し眉を上げ、それから微かに笑った。
「手強い方だ」
「仕事ですので」
六
同じ日の午後、新宿の歌舞伎町から徒歩五分ほどのビルの三階に、舘川剛の事務所があった。
豊玉ひかるはパソコンの前に座り、複数の画面を同時に確認していた。左の画面にはケインの行動履歴、右の画面には金融関連の資料、中央には太刀機議員の公開スケジュール。
「舘川さん、四戸さんから返信来ました」
「何て言ってる」
舘川は窓の外を見ながら言った。雨は午後になっても続いていた。
「今夜、会えると。場所は四戸さんの指定で、代々木の喫茶店だそうです」
「わかった」
「それと」ひかるが声のトーンを変えた。「太刀機議員から追加の連絡が来ています」
「内容は」
「ケインの調査を急いでほしい、と。理由は……松元頭取が明日、ケインと会食の約束を入れているようだという情報が入ったそうです」
舘川は振り返った。「もう動いているのか」
「松元頭取側は、ケインを海外投資家として受け入れているみたいです。第三銀行の国際部門の人間が仲介しているとのこと」
「仲介した人間の名前は」
「太刀機議員も、そこまでは把握していないようで……ただ、今調べているとのことです」
舘川は椅子を引いて座った。テーブルの上のメモを見る。陳英順、ジョージ・加藤、ダグラス・ケイン、松元頭取、宮﨑会長。それぞれの点が、まだ線で結ばれていない。
「太刀機議員が、なぜこんなに急いでいるんだ」
「それ、私も思いました」
「柏元首相との関係か、あるいは」舘川は少し考えた。「議員自身が、この件に個人的な利害関係を持っているか」
「探りを入れてみましょうか」
「いや、今は動かない。太刀機議員は依頼人だ。依頼人を探るのは、最後の手段だ」
ひかるは頷いた。
「でも舘川さん、一つ気になっていることがあって」
「言ってみろ」
「四戸さんがケインと接触したのって、誰かの依頼でですよね。だとしたら、依頼人が同じか違うかで、今夜の会話の意味が変わってくるなと思って」
舘川はひかるを見た。若い秘書は、画面を見ながら淡々と言った。
「もし依頼人が違う場合、私たちと四戸さんは、同じ対象に対して別の方向から動いていることになります。それって、どこかで衝突する可能性がありますよね」
「ある」
「衝突したら、どうしますか」
「その時考える」
「無計画ですね」
「探偵ってのは、そういうものだ」
ひかるは少し笑った。「そうですか」
舘川は立ち上がり、コートを取った。
「今夜の会合まで、ケインの昼間の動きを追い続けてくれ。動いたら、すぐ連絡しろ」
「了解です」
七
二條兼秀が二條家の屋敷に寄ったのは、その夕方だった。
世田谷の高台にある二條家の屋敷は、明治時代に建てられた主屋と、戦後に増築された新館が複雑に繋がっている。広大な庭には手入れの行き届いた松の木が何本もあり、東京にあることを忘れさせるような静けさがある。
玄関を入ると、二條かおりがいた。
三十八歳。黒いパンツスーツを着ていて、髪を後ろで束ねている。二條ホールディングスの社長として日常的にスーツを着ているが、屋敷の中ではどこか表情が柔らかくなる。兼秀の義妹にあたる存在として、何かにつけて連絡を取ってくれる。
「お帰りなさい、お兄様」
「今夜は泊まれないかもしれない」
「わかってます」かおりは笑った。「お父様が、今日はご気分がいいみたいで、会いたがっていました。少しだけでも」
二條は頷いた。
二條兼郷の部屋は新館の最奥にある。九十八歳になったその人は、今も頭は明晰だが、体がいうことを聞かなくなって久しい。ベッドに起き上がるのも、今は補助が必要だ。
部屋に入ると、兼郷が目を開けた。
「来たか」
声は弱くなった。だが目の光は、まだ消えていない。
「はい」
二條は椅子を引いて、老人のそばに座った。しばらく無言だった。この二人の間には、多くの言葉が必要ない。
「陳の件か」
老人が言った。二條は少し目を細めた。
「ご存知でしたか」
「柏に呼ばれたんだろう」
「……ええ」
「あの男は、最後まで自分の手を汚さない」兼郷は目を閉じた。「陳のことは、昔から知っておる。四十年前の話だ」
「四十年前」
「日中の外交正常化が進んでいた頃、陳はまだ若かった。上海でのし上がりつつある、危険な男だった。だが、使える男でもあった」
二條は何も言わなかった。
「日本の外務省の一部と、陳は水面下で繋がっていた。公式には認められない繋がりだ。その関係の中で、いくつかの工作が行われた」
「柏元首相も、その関係に」
「柏は当時まだ若手だったが……関わっていた。深くは言えない。だが、陳が柏を脅せる材料を持っているのは事実だ」
老人はゆっくりと息をついた。
「お前に一つ聞いておかなければならないことがある」
「はい」
「お前の、本当の名前を覚えているか」
二條は少し間を置いた。
「四戸明、だったと記録にはあります。記憶はありません」
「そうだ」兼郷は目を開けた。「四戸明。その名前を、もう一度調べてみろ」
「なぜですか」
「陳英順の本名は、四戸達だ」
部屋が静かになった。
二條は兼郷の顔を見た。老人は目を閉じたまま、何も言わなかった。
四戸達。陳英順。
そして、四戸明。
二條の中で、何かが、音もなく動き始めた。
八
代々木の喫茶店は、夜の八時を過ぎると客が少なくなる。
四戸領は窓際の席に座り、コーヒーを飲んでいた。
舘川剛が入ってきたのは、約束の時間の少し前だった。
互いを確認し、頷いた。言葉より先に、体が反応する。中学の頃からそうだった。野球部の練習で、グラウンドの端と端に立って、互いの動きを目で追っていた頃から。
「久しぶりだな」
舘川が向かいに座った。
「二年か」
「二年半だ。あの大阪の件以来」
コーヒーが運ばれてきた。舘川は砂糖を二つ入れた。領はブラックで飲む。その違いも、変わっていない。
「ケインの件だな」
「ああ」
「俺が先に接触したのは知っているか」
「昨夜、赤坂で。午後十一時頃」
舘川は少し驚いた顔をした。「早いな。どこで掴んだ」
「仕事だ」
「誰の依頼だ」
領は少し間を置いた。「それは聞かれても答えられない。お前も、俺に依頼人を言えとは言えないだろう」
「そうだな」
「ただ」領はコーヒーカップを置いた。「俺たちは今、同じ対象を追っている。それなら、情報を共有した方が効率がいい。ただし、互いの依頼人の情報は開示しない。それが条件だ」
「同じ条件を、お前の秘書が俺の秘書に送ってきた」
「同じ条件だ」
舘川は少し笑った。「変わらないな、お前は」
「変わる必要がない」
「そうか」舘川は窓の外を見た。雨はまだ続いていた。「俺が今日掴んだ情報を話す。松元頭取が明日、ケインと会食を予定している。第三銀行の国際部の人間が仲介した。仲介した人間の名前はまだわからない」
「丸菱の宮﨑会長は」
「今のところ動きは確認していない。だが、陳英順との繋がりを考えると、時間の問題だと思う」
「陳英順」
領が名前を繰り返した。その声に、わずかな変化があった。舘川が気づくかどうかは微妙なラインだったが、気づいた。
「何か、あるか」
「いや」
「領」
「……三年前に、陳英順の名前を聞いたことがある。ある依頼の中で。その時は直接関係がないと判断したが」
「今は違う判断をしているのか」
「確認が必要だ」
舘川はテーブルの上で指を組んだ。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「お前、自分の父親を知っているか」
沈黙。
領の目が少し変わった。感情が動いた、と舘川は思った。滅多に動かない目が。
「知らない。幼い頃に別れた」
「名前だけ知っているとか」
「……四戸達、という名前を、聞いたことがある。親戚から、子どもの頃に」
舘川は何も言わなかった。
領がゆっくりと言った。「何を知っている」
「まだ確証はない」
「だから聞いている」
「陳英順の本名が、四戸達だという情報が、俺の依頼人ルートで入った」
店内の音が、遠くなったような気がした。少なくとも、領にはそう感じられた。
陳英順。四戸達。
父親の名前。
「……それは」領は静かに言った。「確かな情報か」
「依頼人が信頼できる筋から得た情報だという。裏を取る必要はある」
「裏を取る必要がある」
領は繰り返した。機械的に。感情を整理する時間を作るように。
父親がマフィアの長だった。それだけでも、十分に重い事実だ。だが領の頭の中を今、別の考えが走っていた。
四戸達には、子どもが何人いたのか。
五歳の頃に、自分は父親と別れた。別れたとき、他に子どもはいたか。親戚は何も言わなかった。だが言わなかったこと自体が、何かを示唆している可能性がある。
「舘川」
「ああ」
「四戸達には、自分以外の子どもがいたかどうか、わかるか」
舘川は少し間を置いた。
「……一人、いたという情報がある」
「性別は」
「男だ。お前より年が上の」
領は窓の外を見た。雨の夜の代々木。東京の喧騒。
「名前は」
「四戸明、と聞いている」
九
同じ夜、二條兼秀は自分のアパートに戻っていた。
霞が関から少し離れた麻布の、目立たない建物の一室。家具は最低限しかない。生活感というものが、この部屋にはない。本棚だけが壁一面にあり、様々な言語の本が詰まっている。読書は習慣だが、本棚を見ただけでは、この部屋の主人が何者かはわからない。
二條はソファに座り、天井を見ていた。
四戸明。
自分の本名だと記録にある名前。記憶がない名前。三十年前まで、自分が使っていたはずの名前。
四戸達。
陳英順の本名。
もし陳英順が自分の父親だとしたら。
二條はその考えを、感情的に処理しようとしなかった。そういう習慣がある。情報として受け取り、整理し、判断する。感情は後から来る。それもいつかは来るかもしれないが、今は必要ない。
だが、今夜の兼郷の言葉が頭を離れなかった。
「もう一度、調べてみろ」
なぜ今、この話をしたのか。兼郷は三十年前から自分を養子にした。その時、四戸明という名前を知っていたはずだ。そして四戸達のことも、当然知っていた。
三十年間、黙っていた。
なぜ今、言ったのか。
二條は起き上がり、書棚から古いファイルを取り出した。三十年前の事故の記録。警察の資料のコピー、病院の診断書のコピー、それに兼郷が集めた情報の断片。二條がこの組織に入った直後、兼郷から渡されたものだ。
何度読んだかわからない。だが今夜は、違うものを探していた。
四戸という名前。
ファイルの後半に、一枚の古い書類があった。二條が過去に何度も見た書類だが、今まで気に留めなかった部分に目が止まった。
身元確認の過程で接触した関係者リスト。山形の山岳救助隊のメンバー、地元の警察署員、それに一名。
「四戸領(十歳、弟か否か不明)という情報あり。現在の所在不明。確認断念。」
二條は書類を持ったまま、動かなかった。
弟。
領。
三十年間、そこにあった言葉。三十年間、見ていたはずなのに、引っかからなかった言葉。
今夜、兼郷の言葉を聞いた後に、初めてそれが見えた。
十
深夜、長嶺四郎は外局のオフィスに一人でいた。
金葉円はとっくに帰宅している。高橋義等もいない。建物の中は静かで、外を走る車の音だけが時折聞こえた。
長嶺はデスクの引き出しから、あのフォルダーを取り出した。
四戸達。陳英順。
長嶺はこの名前を、三十年前から知っていた。
当時、長嶺はまだ若手の工作員だった。先輩に言われるまま、ある工作に関わった。その工作の中で、陳英順という人物の名前を聞いた。日中の水面下での外交工作。公式には存在しない、いくつかの取引。
その取引の中で、二條兼郷が果たした役割は大きかった。兼郷は外務省の中枢にいた。だが兼郷は、その工作の後に、一人の若い男を引き取った。記憶を失った男。四戸明。
長嶺は当時から、それが偶然だとは思っていなかった。
だが確認することはしなかった。兼郷を信頼していたし、二條兼秀という人物が有能な工作員に育ったことで、それ以上追う必要がないと判断していた。
今は、違う。
陳英順が動いている。四戸兄弟の父親が、日本に牙を向けようとしている。そして今、二條兼秀がその案件を担当しようとしている。
これを偶然と呼ぶのは、無理がある。
長嶺はしばらく考えてから、金葉円に暗号メッセージを送った。
「明日、早めに来い。二條の件で、話がある。」
十一
夜が深くなる頃、鷹見みさは新宿のコンビニで弁当を買って、店に戻ってきた。
領は二階の部屋で、窓の外を見ていた。戻ってきたみさに振り返りもしなかった。
「舘川さんとの話、どうでしたか」
領はしばらく答えなかった。
「情報を共有することにした」
「そうですか」みさは弁当をテーブルに置いた。「何か、ありましたか」
「なぜそう思う」
「戻ってきてから、ずっと窓見てるんで」
領は窓から目を離した。みさを見た。
「お前は俺の素性を、どこまで知っている」
みさは少し間を置いた。「……仕事上の経歴は知っています。個人的な経緯は、ほとんど知らないです。教えてもらったことがないので」
「父親の名前を聞いたことはあるか」
「ないです」
「四戸達、という名前だ」
みさは表情を変えなかった。
「陳英順の本名が、四戸達だという情報が出てきた。今夜、舘川から聞いた」
今度はみさの目が動いた。
「……それは」
「俺の父親と、陳英順が同一人物である可能性がある」
みさはしばらく何も言わなかった。
「どう思う」と領は聞いた。
「感情的に、どう思うかということですか」
「判断として」
「……もしそれが本当なら、今回の案件は、領さんにとって個人的な問題になります。依頼人も、対象も、すべての関係性が変わってくる。慎重に動かないと、判断が歪む可能性があります」
「正しい分析だ」
「でも」みさは言った。「領さんが一番よく知ってると思います」
「何を」
「感情が歪めるのは判断だけじゃない。むしろ、感情が研ぎ澄ます部分もある」
領はみさを見た。
「お前が師匠を選んだのは、俺だったのか、それとも仕事が俺の元に来たからか」
みさは少し考えた。「……両方です。でも、こういう時に一緒にいたいと思える人を選んだ、という部分が大きいです」
領は何も言わなかった。
しばらくして、テーブルの弁当を取った。
「食べるか」
「はい」
二人は並んで、窓の外の新宿の夜を見ながら食べた。
雨は、夜中になってようやく止んだ。
十二
翌朝の六時、金葉円は外局のオフィスに出勤した。
長嶺局長はすでにいた。テーブルに珍しく資料を広げて、何かを書き込んでいる。
「局長、おはようございます」
「来たか。座れ」
金葉は椅子を引いた。珍しい雰囲気だと思った。長嶺はいつも冷静だが、今朝は何かが違う。集中というより、緊張に近い。
「二條の件で話す、と昨夜言ったな」
「はい」
「二條の素性について、お前はどこまで知っている」
金葉は少し考えた。「コードG08-03、本名四戸明、二十五歳の頃に記憶喪失、二條兼郷の養子。それが公式の記録です」
「公式の記録だ」長嶺は頷いた。「それ以上は」
「……自分なりに調べたことはあります。でも」
「言え」
「二條さんは、記憶を失う前の自分について、あまり話さない。それは本当に覚えていないからだと思っていました。でも最近、少し疑問を持つようになっていました」
「なぜ」
「二條さんの仕事の仕方、特に陳英順関連の情報に対する反応が、他の案件と違うように見えるんです。感情的にではなく……注意の向け方が違う、とでも言えばいいか」
長嶺は金葉を見た。「鋭いな」
「的外れでしたか」
「いや、正しい観察だ。だから言う」
長嶺はフォルダーを開いた。
「陳英順の本名は四戸達だ。そして、四戸達には日本に置いてきた子どもがいた可能性が高い。一人は、四戸明。もう一人は、四戸領」
金葉は目を見開いた。
「四戸明は……二條さんの本名です」
「そうだ」
「では四戸領というのは」
「二條の弟の可能性がある。そしてその人物は、現在、新宿を拠点にするエージェントとして動いている」
金葉はしばらく黙った。頭の中で、複数の情報が繋がり直していくのがわかる。
「その人物も、今回の陳英順案件に」
「関わっている可能性がある。別の経路で、別の依頼人から動いている」
「二條さんは」
「昨夜、兼郷翁から示唆を受けたはずだ。今朝の二條の反応を見れば、自分で何かに気づいているかどうかわかる」
「伝えないんですか、直接」
長嶺は少し間を置いた。
「伝えるべきかどうか、俺はまだ判断できていない」
金葉は長嶺の顔を見た。この人が「判断できていない」と言うのは珍しい。
「理由は」
「二條は、今回の案件の担当者だ。もし陳英順が自分の父親だという情報が、仕事中に入ったとき、二條がどう動くかを、俺は信じ切れていない」
「信じていないんですか」
「信じていないというより……心配している」
金葉は少し驚いた。長嶺局長が、心配、という言葉を使った。
「二條さんは、三十年間、過去のない人間として生きてきた。記憶がないということは、何もない状態から人間関係を作ってきたということです」
「ああ」
「だから逆に、その空白に何かが突然入ってきたとき……想像できないくらい大きな混乱が来る可能性がある」
「それを、心配している」
「はい」
長嶺はフォルダーを閉じた。「今日の午前中に、二條と高橋がケインの動きを追う。その動きを横から確認しながら、タイミングを見て、俺が二條に話す」
「わかりました」
「それと、四戸領という人物についての情報を、今日中に可能な範囲でまとめてくれ。正面からではなく、周辺から丁寧に」
「了解です」
金葉は立ち上がった。長嶺も立ち上がり、窓の外を見た。
雨上がりの東京。梅雨の合間の朝は、不思議に清々しい。
だがこの清々しさが、今日の午後にはどう変わっているか、長嶺にはまだわからなかった。
十三
その朝、二條兼秀は珍しく早起きした。
六時に起きて、シャワーを浴びて、コーヒーを淹れた。昨夜のファイルを再度開いた。「四戸領(十歳、弟か否か不明)」。その一文を、明るい朝の光の中で見た。
感情が来た。
来た、と思った。
だが何の感情かが、二條にはうまくわからなかった。悲しみでも、怒りでも、驚きでもない。もっと静かな、しかし深いところから来る何か。
自分に弟がいるかもしれない。父親が生きているかもしれない。そしてその父親が、今自分が追っている対象の可能性がある。
三十年前、記憶を失う前の自分は、どんな人間だったのか。
二條兼秀として生きた三十年は確かに存在するが、それ以前の二十五年は空白だ。その空白の中に、領という名前の弟がいたかもしれない。
二條はコーヒーカップを置いた。
感情は後回しにしていい。今やるべきことは、確認だ。
スマートフォンを手に取り、高橋に連絡した。
「今日の動き、予定通りか」
「はい。ケインが午前十一時に第三銀行本店へ行く予定です。松元頭取との会食は午後一時です」
「わかった。先に銀行周辺に入る」
「了解です。それと、一つ。昨夜、新宿の目撃情報に、興味深い人物が映り込んでいて」
「誰だ」
「舘川剛、という私立探偵の情報が出てきました。太刀機議員の依頼で動いているらしいです」
「舘川剛」
「代々木で、別の人物と接触しています。その人物の特定は」
「後でいい」と二條は言った。
だが心の中では、別のことを考えていた。
舘川剛。その名前を、どこかで見た気がした。
記録ではない。記憶でもない。
もっと奥の、言語化できない場所にある何か。
十四
午前十時半、二條と高橋は大手町の路上に車を停めていた。
第三銀行本店は目の前だ。重厚な石造りの建物で、玄関のガラスドアに朝の光が反射している。スーツ姿の人々が次々と出入りしている。普通の銀行の、普通の朝の風景。
「来ます」高橋が小さく言った。
道路の反対側から、ダグラス・ケインが歩いてきた。三十四歳、外国人。茶色の短髪、グレーのスーツ。背が高く、歩き方に自信がある。周囲を見回す様子はない。警戒しているとすれば、それをおくびにも出さない。
「あれが保険外交員に見えるか」高橋が言った。
「保険外交員にも見える」
「二條さんが言うと真実味があって困りますね」
二條は双眼鏡をゆっくり動かした。ケインの後ろに続く人物がいないかを確認する。今朝のところは一人のようだ。
「ケインに接触した人物の情報は、昨夜中に整理したか」
「はい。新宿を拠点とするエージェントです。名前は……四戸領。三十六歳」
沈黙。
二條は双眼鏡を下ろした。
「四戸領」
「ええ。現在は中古車屋を営みながら、エージェントとして活動しているという情報です。依頼人は今のところ不明」
二條は正面の銀行を見た。
「コードは持っているか」
「外局のデータベースには入っていない人物です。独立した動きをしている」
「そうか」
「……何か」
「いや」
ケインが銀行の中に入った。二條はシートに背中を預けた。
四戸領。
昨夜のファイルの言葉が、頭の中で繰り返した。
「二條さん」高橋が少し声のトーンを変えた。「珍しいですね。考え込んでいるの」
「案件が複雑になってきた」
「どのくらい複雑ですか」
「個人的な要素が入ってきた」
高橋は少し驚いたように見えた。「二條さんに、個人的な要素があるとは」
「俺にも、ある。あった、かもしれない」
高橋は何かを言いかけて、止めた。二人の間の了解が、ここでも働いた。
ケインが銀行から出てきたのは、四十分後だった。
十五
午後の光の中で、舘川剛と豊玉ひかるは、第三銀行の会食場所となったフレンチレストランから半ブロック離れたカフェにいた。
「頭取が入りました」ひかるが言った。小型のカメラの映像を、スマートフォンで受信している。「ケインも五分後に入ります」
「仲介した人間は来ているか」
「……男性、一名。四十代くらい。第三銀行の職員だと思います。内部の人間です」
「顔を撮れるか」
「撮っています」
舘川はコーヒーを飲んだ。
隣の席で、ひかるが静かに操作を続けている。外から見れば、普通のカップルか友人のように見える。それがこの仕事の基本だ。
「舘川さん」ひかるが小さく言った。「一時五分前、車が来ました。黒のセダン。ナンバーを解析します」
「急がなくていい」
「でも……乗っている人間の顔が」ひかるが画面を拡大した。「二人います。一人は中年の男性、もう一人は……」
しばらく沈黙。
「どうした」
「外務省の人間だと思います。官用車に近いナンバーです」
舘川は少し考えた。
「外務省が、この案件を追っている」
「かぶっていますね」
「三方向から、一つの対象を追っている」
「あの」ひかるが言った。「四戸さんの方は、今日はどう動くんですか」
「連絡は入れてある。昼から別の位置を取っているはずだ」
「ということは、四方向ですか」
「そうなるな」
「それって、複雑すぎませんか」
「複雑な方がいい。それだけ、対象が重要だということだ」
ひかるはため息をついた。「探偵さんって、大変なんですね」
「楽な仕事なんてない」
「……私の仕事も、大変なんですが」
「知ってる」
十六
同じ頃、四戸領は丸菱ホールディングスの本社ビルの近くにいた。
依頼とは別の動き。自分の判断で動いていた。
昨夜の舘川との会話の後、領は眠れなかった。眠れない夜に、頭が余計なことを考える。
四戸明。
兄の名前かもしれない存在。
別れたのは五歳の頃だから、覚えていなくて当然だ。だが「覚えていない」と「存在しなかった」は違う。五歳の記憶は曖昧だが、何かはある。人の温もりの記憶、声の記憶。形のない感覚として残っているものが。
宮﨑会長のスケジュールを確認するのが今日の目的だった。陳英順とジョージ・加藤の動きに連動して、丸菱側でも何かが動く可能性が高い。
だが頭の半分は、別のことを考えていた。
みさに頼んで、四戸明という名前を調べさせていた。結果は今日の夕方に出る予定だ。
もし本当に兄がいたとして、三十年間どこで何をしていたのか。
生きているのか。
領は、感情をコントロールすることには慣れている。それがエージェントとして生きる基本だ。だが今日は、コントロールの外側に何かが滲み出ている気がした。
スマートフォンが振動した。
みさからのメッセージ。「調べた件、重要な情報があります。今すぐ連絡できますか」
領はビルの影に入り、電話をかけた。
「何がわかった」
「四戸明、という名前は現在、別の名前で存在している可能性があります」
「別の名前」
「記憶喪失の後に、養子として別の家に入ったという記録が断片的に見つかりました。養父は元外務大臣の二條兼郷です」
領は黙った。
「現在の名前は……二條兼秀。外務省の外局に所属しているとの情報です」
外務省。
外局。
外務省の黒のセダン。
領は頭の中で、今日の昼前に偶然目にした車のことを思い出した。遠目で、はっきりとは見えなかったが、乗っていた男の顔が、妙に引っかかっていた。
「領さん」みさが言った。「大丈夫ですか」
「ああ」
「……兄弟かもしれない、ということですよね」
「かもしれない」
「どうしますか」
領は少し考えた。空の上を、鳥が一羽横切っていった。
「今日の夕方、もう一度舘川に連絡する。情報を開示してもらう必要がある」
「舘川さんが知っているかどうか」
「知っているかどうかは、聞いてみればわかる」
みさは少し間を置いた。「領さん」
「何だ」
「お兄さんかもしれない人が、同じ案件を追っているって、すごいことだと思います」
「すごいかどうかは知らない」
「私は、すごいと思います」
領は電話を切った。
ビルの壁に背中を預け、目を閉じた。
三十年前、五歳の子どもが覚えていた、形のない温もりの記憶。
それが今、東京のどこかで動いている。
十七
夕方、長嶺四郎は二條兼秀を呼んだ。
ケインの会食は終わり、高橋は別の追跡業務に入っていた。二條は一人で局長室に入った。
長嶺はデスクに座ったまま言った。「座れ」
二條は向かいの椅子に座った。
「聞きたいことがある」
「はい」
「四戸領、という人物を知っているか」
二條は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目が止まった。
「名前は認識しています。今回の案件に絡んでいるエージェントです」
「そうだ。だが、それだけではない」
長嶺はフォルダーを開かずに言った。「お前の素性について、俺が知っていることを話す」
「……はい」
「四戸達、という男がいる」
「陳英順の本名です」
「そうだ」長嶺は少し驚いたように見えた。「知っていたか」
「昨夜、兼郷翁から示唆を受けました。そこから自分で調べました」
「何がわかった」
「四戸達と四戸明が、父子である可能性がある。そして昨夜発見した資料に、四戸領という名前がありました。自分の弟かもしれない」
長嶺はしばらく黙った。
「整理ができているな」
「感情の整理はまだです。情報の整理だけです」
「その正直さは、お前の美点だ」長嶺は立ち上がり、窓の外を見た。「お前に言わなければならないことがある。言うべきかどうか、今朝まで迷っていたが」
「言ってください」
「四戸領は、今回の案件に、別の経路で関わっている。舘川という探偵を通じて、太刀機議員と繋がりがあるらしい。つまり、お前と弟は、同じ対象を別の方向から追っている」
二條は静かに聞いた。
「俺が知っている限り」長嶺は続けた。「お前は今回の案件を担当する。だが、弟が関わっているという個人的な事情が、判断に影響する可能性がある。それを心配している」
「局長」
「ああ」
「排除しますか」
「何を」
「私を、この案件から」
長嶺は振り返った。二條の目を見た。感情を隠そうとしていない目。隠せないのではなく、隠す必要がないと判断している目。
「していない」
「なぜですか」
「お前がいないと、この案件は動かない。それが一つ。もう一つは……お前と四戸領が同じ案件の中で動いているとき、どう動くかを見たいという、これは俺の個人的な感情だ」
二條は少し間を置いた。
「それは、答えとしては不十分ですが」
「知っている」
「続けます」
「わかった」
二條は立ち上がった。
「一つだけ聞いていいですか」
「ああ」
「兼郷翁は、三十年間、私に何も言わなかった。なぜだと思いますか」
長嶺はしばらく考えた。本当に考えている顔だった。
「……お前を守るためだった、と俺は思う」
「何から守るためですか」
「過去から。父親から。そして、この仕事に就いた後は、感情から」
二條は頷いた。
「ありがとうございます」
部屋を出ようとして、ドアの前で止まった。
「四戸領に会いに行こうと思います。この案件の中で、ではなく。ただ会いに行く」
「……それは、個人の判断だ」
「個人の判断です」
長嶺は何も言わなかった。
二條は部屋を出た。
十八
その夜、新宿大久保の中古車屋の前に、一台の車が止まった。
四戸領は二階の窓から見ていた。みさはすでに別の場所に出ていた。
車から降りてきた男を見た。
五十代半ばか。白髪混じりの短い髪、整ったスーツ。一人で来ている。こちらを見ている。
領は階段を降りた。
シャッターを上げて外に出た。夜の空気が柔らかかった。雨上がりの匂いがした。
二人は数メートル離れた位置で向かい合った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
二條兼秀は、目の前の男を見た。
三十六歳。自分の二十年前に近い顔立ち。違うのは目の色の深さと、右頬から顎にかけての古い傷跡だ。だが顔の構造、鼻の形、耳の位置。写真で見るより、はっきりとわかるものがある。
四戸領は、目の前の男を見た。
五十五歳。自分の二十年後に近い顔立ち。白髪が混じっているが、骨格は自分と似ている。特に額の形が、鏡で見慣れた形と重なる。
東京の夜が、二人の周りにあった。
最初に口を開いたのは、二條だった。
「二條兼秀です」
一拍。
「本名は、四戸明だったと記録にあります」
領は少し目を細めた。
「四戸領です」
また沈黙。
「来ると思っていなかったわけではありません」領は言った。「ただ、今夜とは思っていなかった」
「俺も、今夜来るつもりはなかった」二條は言った。「気づいたら、車が止まっていた」
領は小さく、ほとんど見えないくらい微かに、口元を動かした。笑ったのかもしれなかった。
「三十年以上、別々に生きてきた」
「そうです」
「あなたは記憶がないと聞いている」
「記憶がない。だからある意味、会うのは初めてのようなものです」
「俺にも、ほとんど記憶がない。五歳の頃のことは、感覚しか残っていない」
「感覚は、何を覚えていますか」
領は少し考えた。「温かかったという感覚だけです。誰かがいたという。顔は見えない」
二條は何も言わなかった。
「一つだけ聞いていいですか」領は言った。
「どうぞ」
「あなたは、陳英順が父親だということに、どう向き合うつもりですか」
二條はその質問を受け止めた。急ぎもせず、避けもせず。
「向き合う、というより」二條はゆっくり言った。「事実として処理しようとしています。今のところは。感情の部分は、まだ整理が追いついていない」
「同じです」
「そうですか」
「そうです」
また沈黙。だが今度は、最初のそれとは違う質感の沈黙だった。
「今夜は」と二條は言った。「ただ、あなたに会いに来ました。仕事の話ではなく」
「わかりました」
「明日以降、案件の中で顔を合わせることになるかもしれない。その前に、一度だけ、仕事と切り離した場所で会いたかった」
領は頷いた。
「中に入りますか」領は言った。「コーヒーか緑茶か」
「緑茶で」
「どうぞ」
四戸領は、四戸明かもしれない男を、自分の仕事場に迎え入れた。
東京の夜が続いた。陳英順という名前の男がどこかで動いていて、ダグラス・ケインが何かを仕掛けようとしていて、松元頭取と宮﨑会長の周辺に見えない工作が動いていた。
だが今夜この部屋では、コーヒーミルの音と、梅雨の合間の静けさだけがあった。
十九
夜の十一時を過ぎた頃、二條兼秀はフォーズオートを後にした。
話したことは多くなかった。互いの仕事の詳細には触れなかった。だが、いくつかのことは確認した。
互いに、同じ対象を追っている。
互いに、依頼人が違う。
互いに、陳英順が父親である可能性を、今日初めて知った。
それだけを確認して、コーヒーを一杯飲んで、帰ってきた。
帰り際、領が言った。「次に会うのは、仕事の中でかもしれない」
「そうかもしれない」
「その時は、仕事として動く」
「当然です」
「あなたも、そうですか」
「そうです」二條は言った。「ただし」
「ただし」
「仕事の外側に、今夜の時間があったということは、覚えておきます」
領は何も言わなかった。だが目が、少しだけ変わった。
二條は車に乗り、新宿の夜の中を走った。
麻布のアパートに戻り、ソファに座り、天井を見た。
感情が来た。
今度は、何の感情かがわかった。
悲しみでも、喜びでも、怒りでもない。
それは、長い時間をかけて積み重なった空白が、少しだけ埋まる感覚だった。
記憶がない三十年以前の、五歳以前の、どこかにあったはずの何か。それが今夜、少しだけ形を取り戻した。
二條は目を閉じた。
明日は仕事だ。
陳英順が動いている。ケインが動いている。柏元首相が何かを隠している。太刀機議員が焦っている。松元頭取と宮﨑会長が、見えない手で動かされようとしている。
全てが、一つの方向に向かって収束しようとしている。
その中心に、何があるのか。
二條はまだ、その答えを持っていなかった。
だが、今夜の時間があった。
それだけで、十分だと思った。
二十
同じ夜、陳英順は上海のペントハウスから窓の外を見ていた。
九十五歳。だが目の光は消えていない。
長い夜を、この男はどれだけ越えてきたか。
秘書が近づいてきた。
「東京からの報告が入りました」
「ケインか」
「はい。松元頭取との会食は成功です。来週、追加の会合を設定しました」
「宮﨑は」
「まだ慎重な様子です。ただ、丸菱の内部から、当方の意向に沿った動きをする人間の名前が上がっています」
「加藤の方は」
「明後日、東京入りの予定です」
陳英順は頷いた。窓の外の上海の夜景が、何十年経っても変わらずそこにある。この街と共に、この男は生きてきた。
「日本側の監視は」
「外務省の外局が動いています。コードG08-03が担当者です」
陳は少し目を細めた。
「G08-03」
「はい」
「名前は」
「二條兼秀、です。以前の名前は……」
「わかっている」
秘書は黙った。
陳英順は窓ガラスに映った自分の顔を見た。九十五年の歴史を持つ顔。多くのものを失い、多くのものを手に入れ、それでもまだここにいる顔。
「他には」
「新宿のエージェントも動いているようです。四戸領、という」
陳の表情が、わずかに動いた。
「領」
「はい。中古車屋を…」
「知っている」
また静寂。
「どうなさいますか」
陳英順は長い間、何も言わなかった。
東京で、二人の男が動いている。三十年以上の時を経て、別々の場所で、別々の仕事を持つようになった二人の男が、同じ対象に向かって動いている。
その対象は、自分だ。
「泳がせておけ」
陳はゆっくりと言った。
「まだ、時間はある」
東京の夜が深くなった。
霞が関のオフィスで、長嶺四郎が最後の資料を閉じた。新宿の中古車屋の二階で、四戸領が窓の外を見ていた。麻布のアパートで、二條兼秀が目を閉じた。赤坂のホテルで、ダグラス・ケインが何かを計画していた。そして上海のペントハウスで、陳英順が東を向いていた。
影が、動いている。
まだ誰も、その全体像を見ていなかった。
だが確実に、何かが動き始めていた。
記憶という名の鎖が、ゆっくりと、その形を変え始めていた。
第一章 了
第二章「収束する点」に続




