10.嫌われ者とお友達
不安だらけの状態で幕を開けた私の新生活だが、予想外にも上手くいっていた。
というのも、現状、私にまだこれといった役目がないからだ。
この国に来たばかりの私が政治に関わることは、当然ほとんどない。
もちろん、今後そうした振る舞いを求められる場は増えていくだろう。
今できることは、少しでも早くこの国に慣れ、周囲からの信頼を得ることだ。
(どうして陛下がああも私に期待しているのかは分からないけれど……)
これはただの政略結婚なのに、どうしてあそこまで熱烈な視線を注げるものか。
私のことを深く知らないからこそ、彼は私を好ましく思ってくれているのだろう。
(見てくれだけは取り繕えていても……いつか、破綻するわ)
寵愛と言えば聞こえはいいが、それに手放しで甘えることなどしてはいけない。
陛下が私の本当の姿を知って幻滅してしまえば、私の足元は簡単に崩れ落ちる。
彼の理想の人でなくなった瞬間、これまでと同じように接してくれる保証は無い。
「イングリット様がすっかりエトルシアに馴染んでくださったようで、わたくし嬉しいですわ」
ふわふわの巻き髪を揺らしながら、目の前の令嬢は微笑む。
彼女はガレッティ侯爵家の令嬢、プリシラ様だ。
私の相談役もとい話し相手として登城しており、なおかつヴィーラント殿下の婚約者である。
「式ももうすぐですし、ウェディングドレス姿のイングリット様を見られるのが楽しみですわ」
「ありがとうございます。私たちの結婚式が、国民の皆様にとって明るい話題となれば幸いです」
「もちろんですとも! 新政権への期待だけでなく、こんなに愛らしいお妃さまが来て下さったのですから、きっと初夏にふさわしい賑やかな話題になりますわ」
ブロンドの髪は陽の光を浴びるときらめくかのよう。鮮やかな庭園の花々も、彼女の笑顔を彩る背景のようになる。
天気も良いので庭園でお茶をすることになったが、正解だっただろう。
プリシラ様の美しさがより引き立つかのようだった。
自国の貴族からは嫌われていたのでここでも身構えていたのだが、私に聖女の力があると勘違いしているのか、私に敵意を向ける人はいなかった。
プリシラ様も、最初はヴィーラント殿下のご命令だから無理して私に接してくれているのかと思ったものの、天真爛漫な笑顔はとても演技に見えない自然さがある。
それに、側妃の座を狙う令嬢はまだ今の段階ではいないのか、オルクス陛下の寵愛を求め競い合うような相手もいなかった。
つかの間の安息。
ここへ来てから結婚式の準備が整うまでは、そう形容できただろう。
ただし、自国から来た侍女たちのことを除いて、だが。
「イングリット様、紅茶のおかわりをお持ちしました」
派手な耳飾りがいやに目に付く侍女が、呼んでもいないのに現れた。
一見すると気の利く仕事のできる娘に見えるだろう。
しかし、私のティーカップに注がれた液体は煮出しすぎて濃くなったものだった。
これでは口に含んだら渋すぎて顔をしかめてしまうだろう。しかし、プリシラ様の前でそのようなことはできない。
(まただわ。よりによって、エトルシアの貴族の前で嫌がらせを……)
ため息は心の中に飲み込む。
きっと、裏では今日も彼女たちはくすくす笑っているのだろう。
(人前でこんなことばかりして、嫌になっちゃうわ。バレたら私だけじゃなくて、あなたたちの首を絞めることにもなるのに)
万一気付かれてもただの不手際だと誤魔化せる程度のささやかな嫌がらせは、徐々にヒートアップしている。
今日はまだ苦い紅茶で済んでいるが、運んできた侍女の耳飾りは、元は私のものだ。
だがそれをプリシラ様の目の前で指摘することはできない。
そんなことをすれば、私が自国から連れて来た侍女にいじめられていることが知れ渡ってしまう。
侍女から馬鹿にされいじめられている王妃など、誰が敬うだろうか。
自身の身を守るためにも、人前ではやり過ごさなければならない。
「あら、あなた――――――――」
プリシラ様が眉をひそめる。
侍女は手を止めざるを得ない。
「紅茶の淹れ方がなっていないようね。それでは茶葉がもったいないわ」
プリシラ様は哀れなものでも見るかのような目になった。
侍女が啞然とする。追い打ちをかけるかのように、プリシラ様がくすりと笑った。
「それに、ずいぶんと着飾っているようねぇ。今日はこれからパーティーでもあるのかしら?」
途端、侍女の顔が真っ赤に染まる。
こういう時、彼女もまた高位貴族なのだと実感する。
「し、失礼致しました」
侍女はあわててティーカップを回収してしっぽを巻いて逃げ出す。
「ごめんなさい、プリシラ様の前で粗相を……」
「いえ、お気を悪くさせてしまったのならごめんなさい。ただ、主人より派手な格好はちょっとねぇ」
プリシラ様は気を悪くするでもなく、上品に微笑んでいる。
ひとまず危機は回避したと言えるだろう。
(ああ、胃が痛い……!)
プリシラ様が私に優しくしてくれているのは、私が王妃でありフィルゼスタの聖女だからなのだろう。
だが私は聖女ではない偽物だ。
どれだけ好意的に接してくれていたって、貴族社会では個人の友情なんてものは一瞬で消える夢幻だ。
(いっそのこと、遠くへ逃げ出せてしまえたら……)
眩しい晴天にちらりと視線を向ける。
あの日と変わらない、吹き抜けるような真っ青ははるか遠くにある。
いつかあの大海に飛び込んで、遠く月の向こうまで泳いでいきたい。
怯えも、恐怖も、苦痛もない世界に飛んでいきたい。
あの空のように、自由で広い場所に…………。
「あ」
思わず、声が零れた。
(――――――だったら、逃げ出せばいいじゃない。全部捨てて、どこか遠くへ消えればいいじゃないの)
今まで、どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
エトルシアが必要としていたのは『聖女』であって、イングリットではない。
最初から、私は誰にも必要とされていなかった。
だったら、ここで秘密を隠して生きていく理由なんかない。
捨てられる前に、自分で出ていけばいいのだ。
『世の中、生きてさえいればなんとかなるものよ』
母の言葉を思い出す。
生きてさえいれば……そうだ、私はまだ死んではいない。
「どうかされました?」
首を傾げたプリシラ様に、私はにこりと微笑む。
「いいえ。……そうだ、プリシラ様にひとつお聞きしたいのですが……」
「はい。なんなりと」
「エトルシアの治療院について、教えてくれませんか?」




