第8話 一日だけ、恋人だった
未来を見なかったその一日が、
いちばん幸せだった。
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「一日だけでいいから」
その言葉を、
口にしたのは、私だった。
放課後、
校舎の裏。
夕暮れが、
世界をやわらかく包んでいる。
彼は、
少し驚いた顔をした。
「……何が?」
「普通に」
私は、
視線を逸らす。
「普通の、恋人みたいに過ごしたい」
理由は、言わない。
期限も、言わない。
それでも彼は、
否定しなかった。
少し考えてから、
静かに頷く。
「一日だけ?」
「一日だけ」
約束は、
それだけだった。
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私は、
未来を見ないと決めた。
目を合わせないわけじゃない。
関わらないわけでもない。
ただ、
「覗かない」。
それは、
私にとって、
小さな反逆だった。
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駅前のカフェ。
並んで歩く。
同じ飲み物を頼む。
他愛もない会話。
「甘いの、好きなんだ」
「意外?」
「うん、ちょっと」
そんな一言一言が、
胸に、静かに積もっていく。
未来を、
見なければ。
彼は、
ただの同級生で。
私は、
ただの女の子だった。
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映画を観て、
笑って、
少し泣いた。
エンドロールの間、
肩が触れる。
彼は、
何も言わない。
でも、
離れない。
それだけで、
十分だった。
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夕方、
川沿いを歩く。
風が、
少し冷たくなってきた。
「手、冷たい?」
彼が、
そう言って、
そっと手を取る。
未来を、
見ない。
見ない。
見ない。
ただ、
温度だけを感じる。
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その瞬間、
分かってしまった。
これが、
「普通の幸福」だ。
特別じゃない。
劇的でもない。
でも、
確かに、幸せ。
だからこそ、
痛い。
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日が沈む。
空が、
ゆっくり暗くなる。
「……そろそろ、終わりだね」
私が言う。
彼は、
少しだけ、寂しそうに笑った。
「一日、早かったね」
「うん」
それ以上、
言わない。
聞かない。
それが、
この約束の条件だった。
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別れ際、
彼は、少しだけ迷ってから、言った。
「今日さ」
一拍置いて。
「楽しかった」
それだけ。
告白は、ない。
未来を変える言葉も、ない。
私は、
それに救われて、
同時に、深く傷ついた。
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帰り道、
私は一人で、立ち止まる。
未来を、見る。
全部、戻ってくる。
彼を選ぶ未来。
壊れる未来。
変わらない。
何も、変わっていない。
それでも――
未来を見なかったその一日が、
いちばん幸せだった。




