第6話 彼は、踏み込まなかった
優しさは、ときどき凶器になる。
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彼は、察していたのだと思う。
私が、
線を引いていること。
踏み込まれたくない距離を、
必死に守っていること。
それでも、
完全には拒絶していないこと。
だから彼は、
踏み込まなかった。
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ある日、
放課後の教室で、
二人きりになった。
夕方の光が、
机の影を、長く伸ばしている。
帰り支度をしながら、
彼は何度か、
言葉を探すように口を開いた。
でも、
何も言わない。
その沈黙が、
私には分かりすぎていた。
「……何か言いたい?」
私が、
先に聞いてしまった。
卑怯だと、
思いながら。
彼は、少し驚いてから、
困ったように笑った。
「いや」
一拍置いて。
「言ったら、困らせそうだから」
それだけだった。
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胸の奥が、
きしんだ。
彼は、
自分の気持ちより、
私の都合を選んだ。
踏み込めば、
関係は変わる。
良くも、
悪くも。
でも彼は、
変えないことを選んだ。
私が、
それを望んでいると、
思ったから。
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「優しいね」
思わず、
そう言っていた。
彼は、
首を振る。
「優しくないよ」
「臆病なだけ」
その言葉が、
静かに刺さる。
臆病。
それは、
彼の欠点じゃない。
私が、
そうさせた。
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未来が、
はっきりと見えた。
彼が踏み込まない未来。
気持ちを伝えない未来。
何も始まらない未来。
壊れない。
でも、
救われもしない。
感情を、
胸の奥にしまったまま、
日常に戻っていく。
その未来は、
安全で、
残酷だった。
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「じゃあ、先に帰るね」
彼は、
いつも通りに言う。
「うん」
それだけで、
すべてが終わった。
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彼が廊下に消えてから、
私は、しばらく動けなかった。
選ばなかったのは、
私だ。
でも、
選ばれなかったのは、
彼だ。
その事実が、
重くのしかかる。
私は、
彼を守った。
同時に、
彼の可能性を、
奪ったのかもしれない。
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優しさは、
相手を思う気持ちから生まれる。
でも、
その優しさが、
誰かの未来を、
狭くすることもある。
私は、
その凶器を、
自分の手で作った。




