第2話 それでも、彼は優しい
彼は、特別なことをしない。
クラスの中心にいるわけでもないし、
目立つ発言をすることもない。
誰かを笑わせようとして空回りするタイプでもなかった。
ただ――
気づく人だった。
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朝、私が教室に入ると、
彼はすでに席に着いていた。
窓から入る光が、
机の上を斜めに照らしている。
私はなるべく音を立てないように、
自分の席に向かう。
関わらない。
目を合わせない。
それが、私の決めた距離だった。
「……今日、寒いね」
不意に、声が落ちてきた。
顔を上げると、
彼がこちらを見ていた。
それだけで、
胸の奥が、嫌な予感を立てる。
――この人は、何も壊さずに距離を縮めてくる。
「この教室、朝は冷えるから」
そう言って、
自分のカーディガンを脱ぐでもなく、
ただ窓を閉めただけ。
大げさじゃない。
押しつけがましくもない。
まるで、
私が寒がっていることに気づいたのが
「たまたま」みたいな顔をして。
「……そうだね」
短く答えると、
彼はそれ以上、何も言わなかった。
引き止めない。
踏み込まない。
距離を測るのが、上手な人だった。
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昼休み。
私はいつも、
人の少ない場所でお弁当を食べる。
未来が見えるこの目は、
人混みが苦手だ。
誰かと視線が合うたびに、
「その先」が流れ込んでくる。
壊れる未来。
泣く未来。
取り返しのつかない瞬間。
だから私は、
静かな場所を選ぶ。
――今日も、そうするつもりだった。
「そこ、空いてる?」
声に驚いて、
箸を落としそうになった。
彼だった。
どうして。
どうして、ここに。
「……どうぞ」
断る理由が、
見つからなかった。
彼は私の向かいに座り、
黙って弁当を開いた。
会話は、なかった。
ただ、
同じ空間で、
同じ時間を過ごしているだけ。
それなのに。
不思議と、
未来は見えなかった。
彼の壊れる結末は、
ちゃんと知っている。
でも、この瞬間には、
何も映らない。
「……静かだね、ここ」
ぽつりと彼が言った。
「うん」
それだけで、
十分だった。
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彼の優しさは、
いつも「後ろ」にある。
前に出て、
誰かを引っ張る優しさじゃない。
困っている人がいたら、
一歩下がった場所から、
そっと支える。
だから、
目立たない。
それでも、
確実に、残る。
ノートを忘れた子に、
何も言わずに自分のを半分渡す。
先生に叱られている誰かの隣で、
黙って同じ方向を見る。
私が避けても、
追いかけない。
それでも、
完全には離れない。
その距離感が、
どうしようもなく――優しかった。
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放課後、
昇降口で靴を履いていると、
彼が声をかけてきた。
「今日、雨降るらしいよ」
空は、まだ明るい。
「傘、持ってないでしょ」
どうして分かるのか、
と聞くのは野暮だと思った。
「……ありがとう」
彼は、笑った。
静かで、
無理のない笑顔。
その瞬間、
胸の奥が、強く締めつけられた。
見えてしまったから。
彼を選ぶ未来で、
この笑顔が、
二度と戻らなくなることを。
だからこそ、
この人を壊す未来が、許せなかった。
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恋なんて、
始まらなければいい。
始まらなければ、
彼は壊れない。
私は、
そう信じている。
それなのに。
未来とは関係ない場所で、
「今」の彼が、
あまりにも優しく存在してしまう。
その事実だけが、
私を少しずつ、
追い詰めていく。
――このままでは、
きっと、どこかで間違える。




