11月30日(土)無償の愛の証明
一ヶ月という歳月は、ミラノを流れる運河のさざなみのように、音もなく、けれど確実に過ぎ去っていった。
契約満了の日。
サンタ・カテリーナ修道院を包み込む朝の霧は、どこか名残惜しげな湿り気を帯びていた。クララは、あの日マザー・ベネデッタから預かった銀のロザリオを握りしめ、最後の一日を刻むためにボルテッリ・タワーズへと向かった。
オフィスは、相変わらず無機質な機能美を保っていた。だが、クララにとっては、使い慣れたデスクの感触、コーヒーメーカーが立てる微かな音、そして窓から見える幾何学的な摩天楼の景色すべてが、もはや切り離せない自らの一部となっていた。
「……ステファノ様。本日の、そして私が行う最後の全スケジュールが終了いたしました」
夕刻。
燃えるようなオレンジ色に染まる執務室で、クララは静かに告げた。デスクの前に立つ彼女は、あの日用意されたミッドナイトブルーのスーツを、今や完璧な矜持と共に着こなしていた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、主を見つめるその姿は、気高く、そしてどこか哀しい。
ステファノはペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。彼は一言も発さず、窓辺へと歩み寄る。逆光の中で縁取られた彼のシルエットは、相変わらず冷徹な王のようだったが、その肩先には、愛する者を自ら手放そうとする男の、隠しきれない悲哀が滲んでいた。
「……一ヶ月か。君は期待を遥かに超える働きをした。石よりも堅物な連中を微笑ませ、私の不可能な要求をすべて形にしてみせた」
ステファノが振り返る。そのサファイア色の瞳に宿っているのは、かつての冷酷な審美眼ではない。一人の女性を、その魂の深淵まで慈しむような、深く、狂おしい熱だった。
「約束だ、クララ。サンタ・カテリーナ修道院の負債は、今日この瞬間をもってすべて清算された」
「ありがとうございます。……これで、子供たちも安心して眠れます。マザーも、どれほど安堵されることか」
クララは深く頭を下げた。頬を伝おうとする熱い涙を、必死の思いで堪える。これでいい。彼女は自分の使命を果たし、彼は元の孤独な王座に戻る。それが、二人が結んだ「契約」という名の掟なのだから。
「……最後に一つ、君に受け取ってほしいものがある」
ステファノが、デスクの上に置かれた重厚な革張りのフォルダーに指をかけた。クララの胸が、警鐘のように激しく鳴り響く。もし彼に「行かないでくれ」と乞われたら、自分は正気を保っていられるだろうか。神への誓いを、この足元に脱ぎ捨ててしまわないだろうか。
だが、ステファノが差し出したのは、彼女の想像を遥かに超える「自由」の証だった。
フォルダーの中にあったのは、二枚の厚い書類。一つは、サンタ・カテリーナ修道院の土地と建物の「全権利譲渡証書」。そしてもう一つは——。
「……『ボルテッリ・サンタカテリーナ・アカデミー』設立計画書?」
クララは目を見開いた。そこには、修道院に隣接する広大な空き地に、最新の設備を備えた子供たちのための新学校と、高度な医療施設を建設する詳細な計画が記されていた。
「ステファノ様、これは……いったい」
「君を秘書として雇ったこの一ヶ月で、私は理解した。君という人間を支えているのは、信仰という名の形ではない。あの場所で共に生きる子供たちへの、見返りを求めない無償の愛だということを」
ステファノはクララとの距離を詰め、その細い肩を、壊さないよう慎重に、けれど力強く掴んだ。至近距離で合う彼の瞳。そこには、彼女を支配したいという欲望を超えた、崇高なまでの献身が揺れていた。
「私は君を縛り付けたくない。君をこのオフィスに閉じ込め、私の所有物にすることは容易だ。だが、それは君の瞳から光を奪うことだと気づいた。……私は、君を奪う男ではなく、君が愛する場所を、共に愛せる男になりたいんだ」
ステファノの声が、微かに、けれど激しく震えていた。彼は、彼女のために、自らの中に巣食っていた「独占欲」という名の怪物をねじ伏せたのだ。
「これは贈り物ではない。私の新たな事業だ。君には、このアカデミーの理事として、子供たちの未来を導いてもらう。……もちろん、修道女としての誓いを守ったままで構わない」
「……どうして。どうしてそこまで、私に……」
「愛しているからだ、クララ。私の人生に光をくれた君を、そのままの姿で守り抜きたい。……それが、愛など信じなかった私が、君という奇跡から学んだ唯一の答えだ」
クララの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼は彼女を奪うのではなく、彼女の世界を丸ごと包み込んでくれた。これこそが、彼女が求めていた「奇跡」であり、神が彼という男を通じて示した「愛」の形だった。
「……ステファノ様。いいえ、ステファノ」
クララは彼の胸に飛び込んだ。もう、どちらが「聖」でどちらが「俗」かなど、この熱量の中では意味をなさなかった。二人の間に流れるのは、ただ一つの、汚れのない真実の鼓動だけ。
ステファノは愛おしそうに彼女を抱きしめ、その黄金色の髪に何度も額を寄せた。
「君の神に、一つだけ伝えておいてくれ。……彼女の身は返すが、その心は永遠に私のものだ、とな」
窓の外では、ミラノの街に夕刻の鐘が重厚に鳴り響いていた。それは別れの弔鐘ではなく、古い自分たちを葬り、新しい愛の幕開けを告げる、希望のファンファーレだった。




