表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミラノの鐘は愛を歌う  作者: Lucy M. Eden


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/11

11月24日(日)石畳のメロディ

日曜日のミラノは、平日の傲慢な喧騒が嘘のように、穏やかな琥珀色の光に包まれていた。ボルテッリ・タワーズの重厚なエントランス。休日返上で急ぎの書類を届けに来たクララを待っていたのは、漆黒の高級車ではなく、カジュアルなカシミアのコートを羽織り、ラフに髪をかき上げたステファノだった。


「……ステファノ様?出かけられるのですか?」


「仕事は終わりだ。クララ、今日は私に付き合え。……これはボスの命令だ」


彼はそう言うと、戸惑うクララの指先をそっと取り、大通りを避けて歴史の影が色濃く残るブレラ地区の路地裏へと導いた。


ステファノが自分の足で街を歩く。それはクララにとって、神の奇跡を目の当たりにするような光景だった。いつもは防弾ガラス越しに切り取られた風景として眺めるだけのミラノ。だが、彼の隣で歩く石畳は、なぜかいつもより柔らかく、確かな生命の鼓動を宿しているように感じられた。


「見てください、ステファノ様!あの窓辺のゼラニウム。マザー・ベネデッタが慈しんでいるものと同じくらい、誇らしげに咲いています」


「……ただの花だろう。手入れを怠ればすぐに枯れる」


「いいえ。誰かが愛を持って触れているから、あんなに鮮やかな声を上げているのです。この街には、気づかないだけでたくさんの愛が溢れているのですね」


クララが子供のように瞳を輝かせ、軽やかな足取りで歩く姿を、ステファノは一歩後ろから静かに見守っていた。彼女が立ち止まって路上の絵描きに柔らかな微笑みを向けたり、迷子の犬の頭を慈しむように撫でたりするたび、周囲の凍てついた空気がふんわりと温度を上げる。冷徹な資本家として、この街を「支配と奪取の対象」としてしか見てこなかったステファノにとって、彼女の瞳が捉える世界はあまりにも新鮮で、直視できないほどに眩しかった。


小さな広場に差し掛かったとき、バターの芳醇な香りが、冬の乾いた空気に溶け込んで漂ってきた。


「なんていい匂い……。あ、あそこの『パスティッチェリア(菓子店)』。子供の頃に一度だけ、先代の院長に連れてきてもらった記憶があります」


クララが指差したのは、間口の狭い、けれど地元の人々の笑い声が絶えない古びた店だった。ステファノは無言で彼女の背を促し、黄金色の光が漏れる店の中へと足を踏み入れた。


「ステファノ様、ここは貴方のような方が……」


「黙っていろ。……おい、一番の『ボンボローニ(揚げドーナツ)』を二つ。熱いやつをだ」


ステファノは店主にぶっきらぼうに命じた。手渡されたのは、薄い紙に包まれただけの、揚げたてのカスタード入りドーナツ。ステファノは眉を寄せ、まるで未知の高度な暗号を解読するかのような目で、それを見つめた。


「……これを、このまま手で食べるというのか?」


「はい。こうして、粉砂糖で口の周りを真っ白にしながら頬張るのが、一番正しい食べ方なんです。ほら、見てください」


クララが大きく一口頬張ると、案の定、鼻の先に白い粉砂糖がついた。それを見て、ステファノの頬が、春の雪解けのようにわずかに緩む。彼は覚悟を決めたように、その庶民的な菓子を口に運んだ。


「……悪くない。計算された甘さだ」


「ふふ、本当は『美味しい』と仰りたいのでしょう?」


「……ただの糖分補給だ」


彼はそう言い張りながらも、二口目、三口目と食べ進めた。高級レストランの贅を尽くしたフルコースよりも、わずか数ユーロの温かなお菓子が、彼の心の深部に張り付いた氷を溶かしていく。


広場のベンチに座り、二人は並んで秋の名残のような柔らかな日差しを浴びた。ステファノの隣に座っているだけで、クララの心には穏やかな波が打ち寄せる。


「クララ。……一ヶ月の期限が終わったら、君は本当にあの静寂だけの修道院に戻るつもりか?」


ステファノの問いは、冬の風のように静かだった。クララはドーナツを包んでいた紙を丁寧に畳み、遠くに見える大聖堂ドゥオーモの尖塔を、眩しそうに見上げた。


「私の居場所は、あそこしかありませんから。子供たちが待っていますし、神様との約束もあります」


「……神との約束、か」


ステファノは自嘲気味に笑い、彼女の手をそっと握った。その手は大きく、けれど今は彼女を縛り付けるためではなく、ただその存在が消えてしまわないよう、確かめるように優しい。


「私は神など信じない。だが、もし神がいるというのなら、一つだけ礼を言いたい。……君という奇跡を、私の退屈で歪んだ人生に投げ込んでくれたことを」


クララは胸の奥が、熱いカスタードのように溶け出すのを感じた。彼の手を握り返し、彼女は心の中で静かに祈った。


(神様。どうか、この方に、永遠の安らぎと光をお与えください。たとえ、私がその隣にいられなくなったとしても……)


ミラノの午後の鐘が、穏やかに鳴り響く。それは日常の終わりを告げる鐘ではなく、二人の魂が、立場の違いを超えて一つの旋律を奏で始めたことを証明する、静かなセレナーデだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ