11月15日(金)ルビーの休息
ミラノの摩天楼を、冬の足音が静かに、しかし確実に侵食していた。一ヶ月という契約の砂時計が半分ほど落ちた頃、ボルテッリ・タワーズの社員たちの間では、密かな「奇跡」が囁かれていた。冷徹な皇帝ステファノの傍らに、凍てついた心を解かす一筋の月光のような秘書がいる、と。
クララはもはや、慣れない事務作業に戸惑うだけの娘ではなかった。彼女は驚異的な記憶力で複雑な市場データを血肉に変え、マザー・ベネデッタから受け継いだ慈愛をもって、殺伐とした会議室の空気を一変させていた。彼女が微笑むだけで、鋼のように硬い交渉相手の表情がわずかに綻ぶ。それは計算された色香ではなく、魂の奥底から溢れ出る、濁りのない誠実さという名の暴力的な輝きだった。
だが、その輝きが強まれば強まるほど、ステファノの周囲に漂う空気は、より低く、重く沈んでいった。
「クララ、今夜のチャリティ・ガラには君も同行しろ」
デスクでペンを走らせるステファノの横顔は、大理石の彫刻のように無表情だった。しかし、その指先がわずかに力み、ペン先が紙を削る音を、クララは見逃さなかった。
「……私のような者が、そのような華やかな場に相応しいとは思えませんが」
「君は私の秘書だ。……そして、私の価値を証明する最も美しい装飾品だと思えばいい」
突き放すような言葉。だが、その瞳は、彼女の反応を飢えた獣のように注視していた。
その夜、歴史的建造物——パラッツォ・ボルテッリの広間は、シャンデリアの眩い光と、富を象徴する宝石の煌めきで埋め尽くされていた。クララは、ステファノが選んだ深いワインレッドのドレスを纏っていた。それは彼女の真珠のような肌を際立たせ、背中の大きく開いたカットは、彼女が秘めていた「女性」としての圧倒的な美しさを無慈悲に暴き出していた。
会場に足を踏み入れた瞬間、幾百もの視線が矢のように彼女に突き刺さった。
「お初にお目にかかる。ボルテッリの新しい『宝石』は、噂以上に素晴らしい」
ステファノがわずかに席を外した隙を突き、ライバル企業の代表であるマルチェロがクララに近づいた。彼はクララの細い指先を強引に取り、その甲に唇を寄せようとする。
「修道院出身だとか?堅苦しい生活はもう十分だろう。私の秘書にならないか。彼よりもずっと、君を『自由』にしてあげられる自信があるのだが」
マルチェロのねっとりとした視線が、クララの鎖骨の窪みを這う。クララが戸惑い、一歩身を引こうとしたその時だった。
「その手に触れるな。……汚れる」
低く、地を這うような声。気づけば、ステファノがクララの背後に立っていた。彼は彼女の腰を、まるで自らの領土であることを全世界に宣戦布告するように、強く、深く引き寄せた。
「ステファノ、何もそんなに熱くならなくても……」
「消えろ、マルチェロ。私の辛抱を試すな。次があれば、君の会社の株をすべて紙屑に変えてやる」
ステファノの全身から、物理的な重圧を伴う威圧感が放たれる。マルチェロが苦々しく去った後も、ステファノの手はクララの腰から離れなかった。薄いドレス越しに、彼の掌の激しい熱が、彼女の肌に直接焼き付くように伝わってくる。
「……ステファノ様、苦しいです」
「黙っていろ。君は無防備すぎる。自分がどれほどの男たちを狂わせているのか、その自覚のなさが罪だと気づけ」
彼の声は怒りに震えていたが、その奥には、彼自身も制御しきれない「恐怖」が混じっているのを、クララは感じ取った。彼は、彼女という純粋な存在が、自分以外の誰かに触れられることを、耐え難いほどに恐れているのだ。
ステファノはクララを連れ、喧騒から離れたバルコニーへと向かった。冷たい夜風が、火照った身体を撫でる。眼下には、宝石を散りばめたようなミラノの夜景が、無機質に広がっていた。
「……これを飲め。君のために用意させた」
彼が差し出したのは、クリスタルグラスに注がれた、燃えるようなルビー色の液体だった。クララは一瞬躊躇したが、それがワインではなく、独特の清涼な香りを放っていることに気づいた。
「アルコールは入っていない。ザクロと数種類のハーブをブレンドした特製だ」
クララは驚いて彼を見上げた。この狂乱の宴の中で、彼だけは、彼女が守り続けている「聖なる一線」を誰よりも重んじていた。
「『ルビーの休息』……この特製レシピには、そう名付けている。今の君に必要なのは、狂乱の酒ではなく、魂を鎮める静寂だろう?」
一口含んだ瞬間、ザクロの凝縮された甘酸っぱさとハーブの爽やかな刺激が、乾いた喉を潤した。それは、どんな高級なヴィンテージ・ワインよりも芳醇で、心に深く染み渡る味がした。
「君の瞳が、下劣な酒や欲望で曇るのを、私は望まない」
ステファノはバルコニーの手すりに寄りかかり、夜の闇を見つめた。その横顔には、いつもの傲慢な仮面はなく、どこか孤独な少年の面影が漂っていた。
「私は今まで、手に入らないものなどないと思って生きてきた。……だが、君だけは違う。君の心は、私がどれほど大金を積んでも、決して買うことができない聖域だ」
「ステファノ様……」
「クララ。私を、その清らかな祈りの中に、一秒でもいいから含めてはくれないか。……たとえ私が、君を汚す悪魔に見えていたとしても」
彼は振り返り、クララの頬にそっと指先を滑らせた。その動きは、まるで壊れやすい聖遺物に触れるかのように繊細だった。ステファノの体温が、夜風にさらされたクララの理性を甘く麻痺させていく。
「祈りの中には、あの日からずっと、貴方がいらっしゃいます」
クララの言葉に、ステファノの瞳が激しく揺れた。彼は吸い寄せられるように顔を近づけ、彼女の唇に触れるか触れないかの、痛いほどの距離で止まった。
遠くでミラノの鐘が鳴り響く。
ルビー色の沈黙の中で、クララは自分の心が、静かに、しかし決定的に、神以外の誰かのために脈打っているのを知った。




