【番外編】12月24日(火)21:00 不遜な救済者
ボルテッリ・タワーズの最上階、室温は常に完璧な22度に保たれている。だが、ステファノ・ボルテッリの指先は、硝子に触れるたび凍てつくような冷たさを感じていた。
窓の外は、暴力的なまでの白。ミラノの街を飲み込む雪嵐は、文明の灯りを一つ、また一つと塗り潰していく。手元のモニターには、数分おきに更新される各地のインフラ状況が映し出されていた。
「……サンタ・カテリーナ地区。送電網に過負荷。老朽化した配管の破裂リスク……」
ステファノは無機質な数字を睨みつけた。秘書に命じて数日前から監視させていたデータだ。彼は知っている。あの古い石造りの修道院が、この異常気象に対してどれほど無防備であるかを。そして、そこにいる「愚かなほど利他的な女」が、自分の命よりも先に、凍える子供たちの手を握るだろうということを。
「……チッ」
彼はクリスタルのグラスに黄金色のスコッチを注ぎ、それを口元へと運んだ。喉を焼く刺激で、胸の空洞を誤魔化そうとしたのだ。
だが、グラスが唇に触れる直前。
耳の奥、あるいは魂の深部を、鋭い「震え」が突き抜けた。
風の咆哮ではない。 それは、かすかな、けれど心臓を鷲掴みにするような「音」だった。 かつて深夜のオフィスで何度も聞いた、あの静かな、囁くような呼吸。
(……ステファノ様)
自分を呼ぶ声がした。いや、呼んでいるのではない。彼女は今、あそこで限界を迎え、神に——あるいは、自分を捨てたこの世界に対して、必死に助けを求めている。
「……空耳か」
ステファノは一度、グラスを置いた。自分は合理的であるはずだ。あんな女のことは忘れたはずだ。だが、心拍数は跳ね上がり、呼吸は浅くなる。
「聞こえるぞ、クララ。……お前の、その救いのないほど純粋な祈りが」
彼は確信した。
今、この瞬間、彼女の心が折れかけている。神は沈黙している。なら、誰がその声に応える?愛など信じない。奇跡など鼻で笑ってきた。だが、彼女の声が聞こえてしまった以上、それを無視して生きるほど、彼は自分を欺くことはできなかった。
「……神はあてにならない。なら、私が行くしかないだろう」
ステファノはデスクの上のキーを掴み、内線ボタンを乱暴に叩いた。
「輸送チームを叩き起こせ。除雪車と移動式暖房ユニットをすべて出せ。今すぐだ!」
「ボス、この嵐の中を出るんですか?無謀です!」
受話器の向こうの声を無視し、彼はコートを掴んだ。理性的で、冷徹で、完璧なステファノ・ボルテッリ。その男が今、たった一人の女の「聞こえるはずのない声」のために、すべてを投げ打とうとしていた。
エレベーターが地下駐車場へ向かって急降下する。彼はハンドルを握り、アクセルを深く踏み込んだ。
「待っていろ、クララ。……私の眠りを妨げた罪は、高くつくぞ」
猛吹雪の闇へと、黒い獣のような車が飛び出していく。「皇帝」が「救済者」へと変わった、聖なる夜の始まりだった。




