11月1日(金)運命の邂逅
ミラノの夜明けは、常に二つの相反する旋律から始まる。
一つは、街を囲む古き教会が奏でる、重厚で静謐な鐘の音。それは空気を震わせる祈りの残響だ。そしてもう一つは、眠りから覚めた大都市が吐き出す、アスファルトを削るような低く唸る地響きである。
「聖母マリア、どうか今日も迷える者たちに、等しく光をお与えください」
サンタ・カテリーナ修道院の小さな礼拝堂。ステンドグラスから差し込む薄明かりの中で、クララは跪き、指先で木製のロザリオをなぞっていた。彼女の指先は、孤児たちの世話と日々の清掃でわずかに荒れている。しかし、その動きは洗練された舞踊のように優雅であり、祈りに捧げる心は、凍てついた冬の泉のように一点の濁りもない。
彼女にとって、この質素な石造りの壁こそが世界のすべてだった。外の世界は、騒々しく、過剰な色彩に溢れ、そして何より——残酷だと聞いていた。
だが、その残酷さは、静寂を切り裂く一通の封筒によって、冷ややかなナイフのように彼女たちの平穏を侵食した。
「クララ、このままでは、子供たちの居場所が……彼らの未来が、砂のように指の間から零れ落ちてしまうわ」
院長であるマザー・ベネデッタの、祈りのように震える声が、クララに現実という名の断崖を突きつけた。修道院が抱える莫大な負債。慈悲深くあった先代の遺産は、現代の冷徹な経済合理性という荒波に飲み込まれ、今や銀行の手によって競売という処刑台にかけられようとしていた。
「私が行きます。ミラノの、その銀行の本拠地へ」
クララは静かに、しかし決然と言った。彼女の蒼い瞳には、神への揺るぎない信仰と、家族である孤児たちを守ろうとする、静かな炎のような意志が宿っていた。
「……ミラノの『王』、ステファノ・ボルテッリに会うというのですか?クララ、彼は石の心を持つ男。祈りなど、彼の耳には届きませんよ」
「石であっても、神の愛を注げばいつかは熱を帯びるはずです。私はそれを信じます」
そう答えたものの、クララは自らの胸の鼓動が、不吉な鐘の音のように速まるのを隠せなかった。
翌日、クララは使い古された黒い修道服を纏い、ミラノの心臓部へと向かった。そこは、彼女が知る世界とは全く別の物理法則で動く惑星だった。
天を突くガラス張りの摩天楼、せわしなく行き交う高級車の群れ。歩道を行く人々は、誰もが鎧のような高級スーツを纏い、手元の小さな画面に魂を吸い取られたかのように、隣にいる誰とも視線を合わせようとしない。排気ガスの焦げた匂いと、誰かが振りまいた刺激的な香水の残り香。クララは思わず、胸元に下げた小さな十字架を握りしめた。
ボルテッリ・タワーズ。その最上階にある執務室は、まるで天空から地上を見下ろす神の玉座、あるいは断罪の場のようだった。
「予約のない方はお通しできません」
受付の女性は、氷のように冷ややかな微笑みを浮かべた。彼女の纏う香りは、甘く、それでいて神経を逆撫でするような鋭さがある。クララの素朴な修道服は、この完璧に磨き上げられた空間において、あまりにも場違いで、奇妙な静寂を放っていた。
「お待ちください。私は——」
「通せ」
インターホン越しに響いたのは、チェロの低音のように深く、しかし抜身の刃物のように冷徹な声だった。
重厚なオーク材の扉が開くと、そこには一面のガラス窓を背にした男が立っていた。ステファノ・ボルテッリ。逆光の中で浮かび上がるシルエットは、彫刻家が執念で作り上げた最高傑作のように端正で、同時に触れる者を拒絶する圧倒的な威圧感を放っている。
彼が振り返った瞬間、クララは息を呑んだ。磨き上げられたサファイアのような冷たい瞳が、彼女の全身を、その魂の奥底まで見透かすように射抜いたからだ。
「修道女が、金の無心か?それとも、私の罪を数えに来たのか」
ステファノはデスクに腰掛け、長い足を組んだ。仕立ての良いスーツから漂う、洗練されたアフターシェーブローションの香り——それはサンダルウッドの芳醇さと冷たい潮風を混ぜ合わせたような、都会的で複雑な、理性を揺さぶる香りだった。
「祈りに来たのではありません、ボルテッリ様。お願いに参りました。サンタ・カテリーナ修道院の、子供たちの未来を守っていただきたいのです」
クララの声は、震えていなかった。彼女は真っ直ぐに、男の冷徹な瞳を見つめ返した。
「未来、か。この街では、未来は金で買うものだ。タダで与えられる慈悲など、私の辞書には存在しない」
ステファノは嘲笑するように口角を上げた。彼は立ち上がり、ゆっくりとクララに近づく。彼の影が彼女を覆い、男特有の熱気と、抗いがたい暴力的なまでの香りが、彼女の五感を麻痺させようとする。
「君の神は、銀行の残高を書き換えてはくれない。だが、私にはそれが可能だ」
彼はクララの目の前で立ち止まり、彼女のベールの端を、指先で忌々しそうに、あるいは獲物を吟味するように弾いた。
「君がその神への誓いを一時忘れ、私のために働くというのなら、考えてやらなくもない」
「働く……?私に何ができるというのですか。私は神に仕える身です」
「私の秘書だ。一ヶ月間、完璧に務め上げてみせろ。この醜い世俗のルールに従い、私の手足となって動くんだ。そうすれば、修道院の負債はすべて私が消し去ってやろう」
クララは目を見開いた。それはあまりにも無謀で、聖職者としての矜持を試すような悪魔の誘惑。ステファノの瞳の奥で、サディスティックな光が揺れている。彼は、この清廉な少女が屈辱に耐えかねて逃げ出すのを、あるいはその白さが黒く染まりゆくのを、愉しもうとしているのだ。
だが、クララは十字架を握る手を緩めなかった。
「……わかりました。お引き受けします」
「いい返事だ。ただし」
ステファノは彼女の耳元に顔を寄せた。熱い吐息が耳朶をかすめ、クララは全身の血が逆流するような戦慄を覚えた。
「その服は脱げ。明日からは、私の隣にふさわしい姿で現れるんだ。……君の神ではなく、私のために」
ミラノの正午を告げる鐘が、遠くで鳴り響いた。それは祝福の合図か、それとも破滅への序曲か。クララは、運命という名の巨大な歯車が、取り返しのつかない音を立てて回り始めるのを聞いた気がした。




