槍水仙
年が明けた。
もうすぐ、彼女と出会った季節がめぐってくる。
彼女はあの告白以来、家にはさすがに上がらなくなった。
僕らの間には暗黙の了解の様に横たわる空気はあるけど、二人とも気がつかないふりをして、変わらず過ごした。
ちょっとお節介な店員と、馴染みの客。
そんな役を演じて。
それでもいいやと、僕は思い始めていた。
彼女は誠実な人で、優しくて、明るくて、朗らかで、家族思いで……僕はやっぱりそんな彼女が大好きで。
この気持ちに決着がつけられなくても、彼女の気持ちがハッキリ分からなくても、もういい気がしていた。
ただ、彼女と一緒にいられれば。
ただ、彼女がこうやって会いに来てくれさえすれば。
でも、この祈りは、今度は聞き届けられる事はなかった。
「え? 嘘でしょ」
「本当なの。今日まで黙っててスミマセン」
「明日、引っ越すなんて」
もう、この時点で、僕らの関係は店員と客ではない。
どこの世界に、自分の引っ越しを告げなかった事を店員に謝る客がいるだろうか。
それでも、もう、僕の気持ちはそんな些細な特別を喜んでいる余裕はあるはずなかった。
彼女が、いなくなる。本当に、遠くへ行ってしまう……。
「転勤族だから、移動も急に決まってしまうって言うのもあったんですけど……なんだか、言いづらくて」
「今度はどちらへ」
彼女が告げたのは、この町からはるか遠い土地の名だった。
彼女はしきりに後ろに回している手をもじもじさせていた。
「それで、今日は、お別れをいいに」
「お別れだなんて」
もう、本当に会えなくなるんですか?
もう、本当にあの時間はなくなるんですか?
もう、二度と、永遠に?
「昌樹さん」
「え?」
彼女はたどたどしく僕の名を呼んだ。「花屋さん」ではなく、僕の名を。
そして、そっと何かを僕の前に差し出した。
それは、花の鉢植えだった。
「お花屋さんにお花を贈るのもどうかと思うけど」
僕に差し出された花。それはイキシアの花だった。
フリージアに似た花だ。季節にはまだ少し早いはずなのに……。
「本当は最後まで黙って自分で持っていくつもりだったんだけど、昨夜までずっと悩んで、やっぱり昌樹さんに貰ってもらうのが一番いいと思って」
「恵理さん」
彼女は転勤が決まった後、こっそり親父からこの花の球根を買い、植えたのだと言っていた。
「どうか、お元気で」
彼女が手を差しだした。
そして、僕はこの花の意味を知った。
彼女はちゃんと僕が込めた想いをわかって、あのシクラメンを受け取ってくれたのだ。そして、意味をもってこの花を僕に……別れの決意と共に。
何の形にもならなかった
伝えることもできなかった
声にすることすら許されなかった
でも
僕らの気持ちは
確かにあったのだ
僕は片手で鉢を抱えると、彼女の手をしっかり握り返した。
もう、二度と会う事はなくても、もう、きっと彼女との出会いも思い出も、後悔する事はないだろう。
だって、彼女と出会って、初めてこんな気持ちがある事を知ったのだから。
彼女の笑顔が遠くなっていく。
僕は彼女がいなくなると、そっと手もとの鉢植えに目を落とした。
そして想像した。
やわらかな春の陽ざしの中、この花が咲く日の事を。
僕はようやく、自分が花屋になって良かったと思えるようになった。
【花言葉】
蒲公英
飾り気のなさ・神のお告げ
桜草
初恋・希望
百日紅
雄弁・敬愛
花水木
貞節・想いを届ける
金木犀
変わらぬ魅力
銀杏
しとやか
篝火花
切ない私の想いを受け止めてください・嫉妬
槍水仙
秘めた恋・人生の出発
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
花言葉は諸説ありますが、その一部を採用させていただいております。