花水木
「どうしたんですか? 今日は元気がないみたいですけど」
僕がこんな状況に開き直ったのは、金木犀の香りが街中でするようになった頃だった。
もう、いいや。
そう思ってしまったのは、こうやって僕の顔を覗き込んだ恵理さんの唇が余りにも綺麗だったからかもしれない。遠い季節に咲くハナミズキの花弁を思わせる、その唇を見た時、もう、僕の気持ちはどうしようもないのだと、諦めた。
自分の心に鎖をかけるように、何度も何度も「彼女は既婚者だ。旦那さんも子どもいるんだ」と言い聞かせてきた。でも、そんな呪文は何の意味も効力ももたらしはしなかった。
結局、彼女が返ると胸が寂しさに悲鳴を上げ、彼女が訪れる時間になると喉が干上がり落ち着けなくなった。
接客しているふりをして、彼女を無視して会話をしない日も作ってみた。でも、その後、必ず食事もろくに食べられないくらい後悔したし、落ち込みもした。
僕の気持ちは、あの事実を知った所で、何にも変えられる事なんかできなかったんだ。
いや、むしろさらに苦しくなったのかもしれない。
休日になれば、家族と過ごす彼女を想像した。酷い時は旦那とベッドを共にする彼女すら想像し、一人で地の底まで落ちた。
もう、いっそ、彼女と出会わなければ良かった。そんなことすら思うのに、彼女の足音を聞くだけで、僕の心はどうしようもなく彼女の方に吸い寄せられてしまうのだ。
「いえ。大丈夫です」
僕は何とか体裁を保つ程度に微笑むと、この開き直りを誤魔化すようにしゃがんで足もとの苗を手に取った。
別に、対して意味のある行動じゃないのに、僕はその苗を観察するふりをして彼女の気配を背中で探る。
「恵理さんは、優しいんですね。その……」
一瞬、戸惑った。でも、開き直るなら、向き合いたいと思った。この、どうしようもない、現実に。
僕は小さく息をのむと、彼女に背を向けたまま口を開いた。
「旦那さんはこんな優しい奥さんを持って、幸せでしょうね」
「え」
恵理さんの空気が、一瞬淀む。僕は彼女の気持ちを推し量ろうと、振り返った。だけど、そこには、哀しいくらいいつもの彼女の穏やかな微笑みがあって
「そうでも、ないみたいですよ」
と軽やかな冗談交じりの口調で答えた。
その口調に、彼女が今、十分幸せである事を知らされ、僕の胸は醜く軋む。
「もう、30も過ぎて子持ちのおばちゃんだもの。こんな人が待ってても、たいして嬉しくなんかないでしょう」
「そんな事、ないです!」
僕は立ち上がると、思わずムキになってしまった。
まず、その言い方にムカついた。そんな言い方をした彼女が、じゃない。そんな言い方を軽い調子で平気でさせるほど彼女を幸せにしている、旦那に、だ。
「そんな事、絶対ないです」
僕は、開き直りと同時に、見たこともない彼女の旦那への嫉妬も自覚してしまったようだ。
馬鹿な話だ。
勝手に人妻に片思いして、勝手に相手の旦那に嫉妬している。
彼女は十分幸せで、本当なら好きな人の幸せを喜ぶべきなのに、いつの間にか歪み始めていた僕の心はそんな彼女の幸せすら、憎々しく感じてしまっている。
「お花屋、さん?」
「あの。とにかく……年とか、子どもがいるとかは、関係ないと思います」
恵理さんは、綺麗です。
本当に言いたい言葉だけ僕は飲み込むと、開き直った男の図々しさに任せてこう切り出してみた。
「あの、僕、これから休憩なんですけど、飯でも一緒に食いませんか?」
――
それから、僕らは時々、本当に時々だけど一緒に昼飯を食うようになった。といっても、幼稚園の近くや彼女の家の近所だと、変な噂を立てられて彼女に迷惑がかかってもいけない。
だから、ちょっと奇妙な感じだけど、昼飯は店の奥にある家の中で食べた。
僕が用意する日もあれば、彼女が持って来て一緒に食べようと言う日もあった。たまにしかそう言う時間は設けないのに、不思議と二人のタイミングがずれることはなくて、僕はこんな事にも彼女との運命を感じてしまっていた。
さすがに親父たちはいい顔はしていなかったが、彼女自身からいやらしさを感じない分、口出しも出来ないでいるような感じだった。
正直、その部分については僕は苦々しく思っている。
明らかに、僕らは店員と客という関係から、一歩も二歩も踏み込んでいるというのに、彼女と言ったらやはり僕の事は「お花屋さん」としか呼ばないし、なんといっても女を匂わせるような事は一切しないのだ。
どちらかと言うと、近所の友達が遊びに来ている。そんな雰囲気で、彼女自身、どこかそんな雰囲気を頑なに守ろうとしている感じがあった。むしろ、旦那さんがいる事を指摘したあの日から、家庭の事をよく話すようになり、僕との壁を作ろうとしているようにも見えた。
彼女が旦那さんの話をする度、僕は逃げ出したくなるような気持ちになるのに……彼女は僕に気がないのだろうか。でも、たぶん、僕が気がある事くらい気がついているはずだ。だったら、どうしてこの店に通い続けるのだろう。
彼女の気持ちがつかめず、もどかしく、そして歯がゆくて、いつも置きどころのない感情を、僕はだんだんもてあますようになっていた。