百日紅
「昌樹。あのな。父さん思うんだが、あの人は……」
八月も終わり、百日紅も花を落とし、蝉の声が日に日に遠くなっていくある日の事だった。
いつものように僕が彼女の影を探しながら、充分に綺麗になった店先をまだ箒で掃いていた時だ。
親父が僕の肩に手を置いた。
僕が振り向くと、親父は母親が死んだ時のように沈痛な面持ちでそこにいて、僕の目をじっと見ていた。
「諦めた方が、いい」
「どうしてだよ!」
もう、誤魔化す事も面倒で、僕は思わず声を荒げてしまった。親父は口を真一文字に結び
「いいから、諦めるんだ。たぶん、彼女は……」
「もう来ないって言うのか? そんなのわからないじゃないか。僕らが何かしたか? 最後の日だって、普通にしてたじゃないか。 夏にどこか行くのかとか、映画は何が好きだとか。それとも、僕が何か彼女に嫌われるような事……」
「違う。お前が悪いわけでも、誰が悪いわけでもない」
「じゃあ」
遠くでベルが鳴った。
幼稚園の予鈴だ。
そうか、そういえば今朝、小さい子たちが前を通って行った様な……僕はもう、彼女以外自分の目に何にも映っていない事にはたと気がつき、自然に顔が幼稚園の方に向いていた。
すぐに木々の葉がこすれ合うようなざわめきが聞こえ始める。
たぶん今日が始業式で、これから皆、家へ帰るのだ。
「昌樹。あのな。たぶん、彼女は……」
親父の手が下ろされた。そして僕と同じ方向へと目を向ける。
特に変わり映えのしない風景。
いつもの、何年も見て来た景色。
彼女のいた場所だけがぽっかりと空いていた。
力が抜けた。
虚しさがじんわりと残暑に温められたアスファルトの上から吹き出て来て、僕を息苦しくさせる。
確かに、もう、彼女はここには来ないのかも、しれないな。
あれだけ固まっていた決意が、ほろほろと解け崩れ落ちる。
ゆっくりと、踵を返し店の奥へと引き返そうとした、その時だった。
目の端に、彼女の横顔が見えた。
僕は慌てて身を翻す。
「昌樹!」
親父の叱るうな声が耳を打ち、そして、僕は信じられないものを目にした。
それは……彼女が小さい子どもの手を引いて、幼稚園から出てくる所だった。
――
その次の日から、彼女は前と変わらず店を訪ねる様になった。なんて事はない。幼稚園が夏休みだったから、彼女は、恵理さんは現れなかった。今まで彼女が子どもを連れた姿を見かけなかったのは、ただ単に、幼稚園を挟んでこの店の反対側に家があるからだ。
それだけの話。
彼女は既婚者だ。子どももいる。
僕は自分にそれらを散々言い聞かせ、彼女の前に立った。
いつもの会話。いつもの笑顔。いつもの声。いつもの……。
彼女は僕と知り合う前から既婚者だったわけで、僕と知り合う前から子どもがいた。
ただ、その事実を僕が知らなかっただけ。
彼女は何にも変わらない。変わってなんかいない。
そう、悔しいくらい。やるせないくらい。何にも……。