桜草
僕がいつものように若い子たち(注:幼稚園児)を見送り、鉢を並べ終え、水やりをしている時だった。
「あの。すみません」
まるで、鈴の音が転がるような、そんな声だった。僕は振り向き「はい、いらっしゃい」と愛想良く声をかけた。
そこに立っていたのは、僕より少し年上くらいに感じる落ち着いた雰囲気の女性だった。 しかし、いつも前を通る園児達の母親たちよりは若く見え、上品で小奇麗な印象だ。
髪を一つに縛りほぼ着のみ着のままのすっぴんのママさん達と違って、彼女は春色のスカートを品良く着こなし、化粧もほんのりと施している。
これは、久々の若い『女性』のお客さんか。
僕は少々気分を良くして、エプロンで手を拭きながらその客に近づいた。
「なんでしょうか?」
「あの。園芸、初心者なんですけど……初心者でも育てやすいお花ってありますか?」
彼女は気恥ずかしげに僕にそう尋ねてきた。男って言うのは馬鹿な生き物で、綺麗な女性に頼りにされると、俄然やる気が出てしまうものだ。
僕は「それなら」と少々声を上ずらせると、腕まくりをした。
気がつくと、その日の午前中は鉢や土の選び方から世話の仕方まで、彼女につきっきりで教えていた。
彼女が聞き上手だったのもあるけど、なにより自然と気があった。いや、気があるって、下心があるって言う意味じゃなくて、ノリがあう、の方。
確かに、微塵も下心がなかったのかと訊かれたら、ちょっと厳しいけど、とにかく、彼女と一緒にいる時間は楽しくてあっという間に過ぎて行った。
彼女がいくつかの苗と鉢、土を抱えて店を出る頃にはもう昼近くだった。
「わからないことや困ったことがあったらいつでも来てくださいね」と最後に自分で言った言葉を、半ば祈るような気持ちで僕は彼女の背中にもう一度呟いてみる。隣りで桜草が揺れていた。
その祈りは、なんと、天に届いたらしい。彼女は毎日のように店に顔を出すようになった。
始めはここで買った花の話をしたり、たまに肥料や新しい苗を買って行ったりしていたが、そのうち世間話だけするような日も増えていった。
彼女に夢中になる僕を、親父も祖父も始めは苦い顔をして見ていたが、彼女の人柄に触れるうち、彼らも彼女のファンになり、苦い顔が苦笑いに変わって、しまいには彼女が来ると、それとなく他の客の接客は僕に回さないように気を使ってくれるようになった。
彼女はいつも明るく、はきはきとしていて朗らかだ。気さくで、気もきく。
季節が春から夏に差し掛かる頃には、うちの園芸店の男は皆、彼女の来店を待ち焦がれる様になっていた。
祖父なんかは時々半分本気で「恵理さん、うちの嫁に来てくれないかなぁ」なんて口にするようになっていたし、僕はその倍、願っていた。
あ、ちなみにその頃には僕は彼女の事を「恵理さん」と呼ぶようになっていた。僕はと言うと「お花屋さん」からは一向に昇格していなかったが、それでもいつか僕の名を呼んでくれるんじゃないか、そんな期待をしていた。
しかし、幼稚園が夏休みに入った頃、園児達の姿と一緒に、恵理さんの姿も消えた。
花屋の男達は、いや、僕は、かなり寂しかった。
夏の花はどれも色鮮やかだし、空も雲も、何もかもが生きる喜びを謳歌しいているって言うのに、僕の心は真っ暗だった。まるで、太陽が頭上を覆う眩しいばかりの青空からすっぽり抜け落ちたような、そんな感じだ。
そして、皮肉な事にこの時、痛いほど思い知ったんだ。
自分にとって、彼女はもう、なくてはならない存在になっているのだという事を。
僕は来る日も来る日も待った。
僕に気を遣い、彼女の事を話さなくなった親父たちの労わるような視線も気がつかないふりをして、彼女をひたすらに待った。
今度会ったら、言うんだ。
自分の気持ちを。
今度会えたら、伝えるんだ。
自分の想いを。
その切ないほどの決意は、日に日に固まっていった。