第九話 愛桜ちゃんと配属ガチャ
梅雨に入ってしばらく経って人々が曇り空に慣れ始めたころ、長かった研修期間が終わった。
僕が指導係をしていた新卒社員たちが、各人の適性や部署の空き人員をもとに各部署へ配属されていく。
ちなみに、配属において重視されるのはもちろん後者である。
そのため、本人の希望通りの配属がされることは、よっぽど運や実力がない限り無いといっていい。
配属ガチャとは面白い表現だが、配属を決めるのは会社や上司のエゴであり、むしろランダムとは程遠いのかもしれない。がんばれ新人。
僕と同じ営業部に配属された愛桜も、うちの部署を希望していたわけではないらしい。
今日から本格的な業務開始ということで、総務部から営業部用のパソコンを早速受け取った愛桜が、僕を見つけて近づいてきた。
「鶴野さん、この席、空いてますか?」
「はい。空いてますよ」
「ありがとうございます。いつもこの辺りに座っているんですか?」
「うん。フリーアドレスとはいえ、何となくみんな同じ席に座りがちなんですよね」
「そうなんですね」
愛桜は僕の隣の席に座ると、配属への不満を顔に出すことなく淡々とパソコンの初期設定を進めていった。
「なんか変な通知が強制的に開かれちゃうんですけど」
「あー、セキュリティソフトですね。会社基準のやつだけ入れれば問題ないはず」
「そうなんですね、ありがとうございます」
「ソフトの種類が多くて、それに伴って広告も多いし、どれを選べばいいか分からないですよね」
もう、Nort〇nやウイ〇スバスター、Mc〇feeなどのソフト同士を戦わせて、最終的に生き残ったソフトを使えばいいのではないだろうか。
ウイルス対策ソフト蟲毒である。どちらかというと、ウイルスにやるべき処遇だが。
愛桜がパソコンと格闘しているの横目に見ながら、明日使う提案資料を作成しているとお昼休みの時間になった。
山崎さんが、僕たちの近くまで来て声をかけてくれて一緒にランチへ向かう。
僕の一つ上の先輩の男性二人も一緒だった。
会社のすぐ隣にある定食屋へ入ると、愛桜はすぐにメニューを山崎さんに差し出したが、山崎さんはそれを見ずに「いつもの」と言って注文を済ませた。
僕たちも、それに遅れまいとしてメニューを見て、良さそうな定食を注文していく。
愛桜は、僕が注文したメニューに被せて「それ二つお願いします」と言って、注文を済ませた。
それから料理が来るまでの間、自己紹介や出身地の話などの初対面トークに花を咲かせていたが、それらがひと段落すると、それまで黙っていた山崎さんが口を開いた。
「煙山。営業部に配属されて、どうだ?」
「まだわからないことは多いですけど、何とかがんばります」
「そうか……。顧客とのやり取りは何かと大変だと思うし、責任も大きな仕事だが、その分やりがいも大きい」
「はい」
「まあ、別に期待はしてないから、気軽にやってみろ。失敗したときの責任は俺が取る」
「あ、ありがとうございます」
店の外に出ると、重そうな黒い雲が空の大部分を占めているのが見えて、雨が降る前に急いでオフィスに帰る。
少し席に戻るのが早かったのか、みんな昼休みでオフィス全体に人が少なくて閑散としていた。
午後は、会議の日程調整や、電話の対応、議事録や提案資料の作成など、営業にかかわる様々な業務について愛桜にやり方を説明していく。
僕もそうだったが、教えた業務を独力でできるようになるためには、これから少なくとも一か月くらいはかかるだろう。
そんな風に、愛桜は営業部の仕事をどんどんこなしていった。
*
それからしばらく経ったノー残業デーの水曜日、退勤間際の愛桜に声をかけられた。
「鶴野さん、この後用事ありますか?」
「今日はもう帰るだけですけど……」
「ちょっと行きたい場所があるので、付き合ってもらえません?」
僕は、疲れた雰囲気の愛桜が少し心配になったので、分かりましたと言って席を立った。
僕たちは、たわいのない話をしながら駅までの道を進む。
そのまま一緒に電車に乗り、各駅停車の電車しか止まらないような、降りたことのない駅で降りた。
ただ、駅名になぜか聞き覚えがあったので、誰か知り合いが以前に住んでいたような気もする。
そのぐらいの認知度の駅だ。
愛桜に着いて行って改札を出た後、一つしかない出口から外に向かう。やがて、愛桜は薄汚れた大きなビルのドアを開けた。
そのまま大股で廊下を進んでいき、ビルの外見通りに年季の入った店構えの中華料理屋の横を通り過ぎる。
看板には『来々軒』とあるが、店の名に似合わず店内はガラガラだった。
そしてこんな冗談を言える空気でもなく、僕たちは突き当たりのエレベーターに入って最上階のボタンを押した。
エレベーターがゆっくりと動き出す。
エレベーターが最上階の二十階に到着するまでの間、僕たちは無言だった。
エレベーターの中は誰でも思わず無言になってしまうものだけど、いつもの沈黙とは何か違う重々しい雰囲気が漂っている。
僕がその違和感の理由を考えていると、愛桜の視線が増えていくエレベーターの階数パネルではなく、ドアと床の境目に向けられていることに気づいた。
沈黙を破って愛桜に声をかけようとしたところで、エレベーターが目的地に着いたことを告げる。
ドアが開くと、思わず顔を手で覆ってしまうくらいの強めの風が吹き込んできて、足を止めてしまった。
「……おーい鶴野ー。野球しようぜ」
ドアから出て先を歩いていた愛桜が、立ち止まってこちらを振り返り、さっきより少しだけ明るい表情で言う。
その愛桜の言葉で、僕はここがバッティングセンターであることに気づいた。
「分かった。じゃあ、どっちが多く打てるか勝負しようか」
「いいよ! ちなみに与一、野球やったことあるの?」
「無い。が、体育の授業で少しはある」
「ちなみに、私も無い! よし、負けた方が缶ジュース奢りね!」
愛桜は、なぜか自信たっぷりに言うと、「九〇キロ・右」と書かれたブースに入っていって、バットを取った。
そのまま、流れるような動作で機械にお金を入れると、ブースの外の網目状のドアの前にいる僕の方を見た。
「じゃあ始めるよ?」
「磯野! 決闘の開始を宣言しろ!」
「えっと……? たぶん磯野違いじゃないかな」
「え? いや、これがないと勝負は始まらないだろ?」
「え? ……わ、分かった! うおー、決闘、開始!」
きょとんとした顔の愛桜は、勢いよく緑色のスタートボタンを押して疑問符を吹き飛ばし、バットを構える。
たぶん元ネタを知らないであろう愛桜が、ノリだけで正解を当てているのはちょっと面白かった。
そして、満を持して投げられた一球目を、――盛大に空振った。
「与一! このピッチングマシン、フォーク投げてくる!」
「いや、打ちごろのストレートにしか見えんぞ」
「そんなはずは……。なんと小癪な……!」
その後も、愛桜は空振りを続けた。
八割くらいボールが飛んできた頃、愛桜が一旦バットを構えるのを止め、空を見上げて嘆いた。
「全然打てなーい! どうしたらいいのかな?」
「なんだろ。ストレスとかを叫びながら打てば、気分が乗るんじゃない?」
「いいね。それ、やってみる!」
愛桜は、大きく息を吸い込んでバットを構えなおした。
ピッチングマシーンがガタガタと音を立て、レーンの上をボールが転がり、そのボールが勢いよく発射される。
ボールが飛んでくるのに合わせて、愛桜がバットを振りつつ大きな声で叫んだ。
「なんで言ってることが上司ごとに違うの!」
カキーンという快音がして、ボールが左斜め前に打ち返される。
よしっと愛桜がガッツポーズをし、次以降のボールに対しても同じように叫び続けた。
「雑務が多すぎ! 効率化して!」
「山崎さんが怖い! 何考えているか分からない!」
「入社前に人事と聞いてたことと違う!」
「私はこの仕事をやりたくて、うちの会社に入ったんじゃない!」
愛桜が思い思いに叫んでボールを打ち返すと、そこでボールが無くなったのか、ピッチングマシーンは動かなくなった。
それを確認すると、愛桜は元にあった位置にバットを置き、網目状のドアを開けてブースの外へと歩いてきた。
最後の方はかなり気持ちよさそうに打てていたのに、ナイター用のライトの人工的な光に照らされる愛桜の顔は、どこか浮かない表情をしている。
「そうなんだよね……。私は営業をやりたくて、うちの会社に入ったわけじゃない」
「愛桜……」
「でもね。うちの会社の商品は好きだし、別に転職とかをしたいわけじゃないんだ」
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次回の更新は、10/23です。