第五話 愛桜ちゃんと初出勤
例えどんなに楽しくて懐かしくて、感傷に浸る休日を過ごしたとしても、平日には仕事に行かなくてはいけないのがサラリーマンの辛いところだ。
僕がいつものように、始業時刻ギリギリに出社して自分の机の前で準備していると、どうも周りがいつもより騒がしい気がする。
みんなが会議室に集まり、部長が最後に入ってきて朝礼が始まると、その原因はすぐに分かった。
部長はリクルートスーツに身を包んだ数人の若い社員たちを呼ぶと、神妙な顔で切り出した。
「えー、新卒社員が全体の集合研修を終えたので、今日から各支社へ出勤することになりました。分からないことも多いと思うので、皆さん色々教えてあげてください」
僕や他の社員は、頷きながら部長の話を聞いていた。
なるほど、学校で転校生の来訪が噂されていた日のような朝のざわめきは、このためだったのか。
部長は、新入社員の方に目線を向けながら続けた。
「なお、本格的な配属部署は六月に決まるので、それまでは各部署を回って見てもらいます。それでは、新入社員の皆さん、簡単に自己紹介をお願いできますか」
その後、一人ひとり自己紹介が始まった。
僕は、ここまで聞いてはじめて、愛桜が新入社員たちの列の後ろの方に並んでいたのに気づいた。
愛桜は、僕と目が合うと、他の人には気づかれないように小さくウインクした。
僕は、ニヤリと笑ってウインクを返そうとしたが、よくよく考えればウインクを人生で試みたことが無いので、やり方がわからない。
片目を閉じて片目を開ける。理論的には完璧だったものの、僕には両目を薄く閉じて口角をあげることが精一杯だった。
それでも、愛桜には意図が伝わったようで、半目の視界で小さく吹き出すのがうっすらと見える。
そして、愛桜の自己紹介の番が来た。
「本日からお世話になります。煙山愛桜です。大学では、国際交流サークルに入っていました。特技と趣味は……えっと、寝ること(?)です」
「おいおい、仕事中は寝ないでくれよ!」
「えっ、あ、大丈夫です! 仕事とプライベートは分けるタイプなので! そのっ、これからよろしくお願いします」
お調子者の社員からツッコミが入り、愛桜がじゃっかん言い淀みつつも照れたように顔を赤くしながら頭を下げた。
会議室に、大きな拍手とそこそこの笑い声が響く。
全員の自己紹介が終わると通常の朝礼が始まり、それが終わるとその場は解散となった。
解散した後、愛桜を含めて新卒社員たちは、他の社員に囲まれて色々と談笑している。
先ほどの自己紹介の印象もあるのだろう。愛桜は早速会話の中心になっていて、歳が近い女性社員たちからは既に「愛桜ちゃん」と親しげに呼ばれているようだった。
それを横目に、僕が会議室の外に出ようとすると部長に声をかけられた。
「鶴野くん。すまないが、この後この子たちの会社案内とオリエンテーションを頼んでもいいか?」
「はい、分かりました」
「ありがとう。去年も、インターンの子たちの指導をがんばってくれてたし、適任だと思ってな。じゃあ、後よろしくな」
おかしいな。月曜日の朝から仕事が増えた。
まあ、今年二年目の僕は、もう一つ下の社員が入ってきたとしても下っ端であることは変わらないので、断ることなんてできないのだが。
たしかに去年、同じ部署でインターンシップに来た学生の指導を担当したが、けっきょく二人とも辞めてしまったし、実績としては弱い気がする。
とにかく、決まったことは仕方ないので、言われたことをやろうと僕は声を張りあげて新入社員を呼び寄せた。
案内をするために、会社の各所を回っていく。
新入社員たちは、RPGの勇者パーティみたいに僕の後をゾロゾロと着いてきた。
そんな事をしていると、当たり前のように目立っていて、同僚や先輩がRPGのNPCのごとく話しかけてくる。
「鶴野くん、指導係するんだ。すごいね、もう先輩じゃーん」
「賀来さん……。半年前も同じこと言ってましたよ」
賀来さんは、僕の一つ上の先輩であり、おっとりとした喋り方が特徴である。
今日も、明るめの茶色のふわふわクセッ毛を揺らしながら、ゆるふわな癒し空間を展開している。
「そうだっけ。時間が経つのは早いね」
「たしかにそうですね」
「あ、インターンの子たち元気かなあ。鶴野くん連絡取ってないの?」
もし、辞めた後の職場の先輩から、急に連絡が来たら怖すぎないだろうか。
しかも、僕と一緒にやった業務が原因で辞めてしまったのだから、なおさらである。
僕がRPGの勇者だとすれば、例えるなら会社は魔王城で、倒すべき悪は支社長になるのだろうか。
思わず会社に敵対してしまったが、別に会社に倒産してほしい訳ではない。
正義と悪は状況によって異なるし、見方によっては違いなんて無いのである。
心のなかで、そんなしょうもない自己弁護をしていると、愛桜が心配そうに話しかけてきた。
「鶴野さん、大丈夫ですか? 顔色悪そうですけど」
「お気遣いありがとうございます。昨日、夜遅くまで外出していたので、寝不足かもしれません」
もちろん、昨日一緒に酒を飲んだ相手は目の前にいるので、誤魔化せるとは思っていない。
二次会も一緒に断ったし、なんなら僕が寝不足なら愛桜も寝不足になるはずである。
愛桜は、当然のごとく納得していない様子だったが、周りの視線を気にしたのかこの場ではこれ以上聞いてこなかった。
その後、会社を一通り案内し終えたので、逆に新卒社員側から聞きたいことがあるか聞いてみた。
しばらくの間、新卒社員たちは顔を見合わせるだけで何も言わなかったが、髪をきっちり七:三に分けた男性が意を決したように手を挙げた。
「早く仕事を覚えて戦力になるために、鶴野さんが新卒の頃に意識していたことはありますか?」
思っていたより真面目で、若い質問が飛んできた。
だが、入社したての時は僕もそうだったかもしれない。
質問してきてくれた社員のキラキラしたとした目に、半年前のインターン生が重なる。
さて、あの時はなんて返したんだっけ。
「えっと……。分からないことがあったら、早めに聞くことですかね。でも一番大切なのは、慣れないうちから仕事を頑張りすぎないこと。仕事は体が資本なので、もし辛かったらすぐに教えてください」
「ありがとうございます!」
他に質問が出なかったので、皆に十分間の休憩解散を言い渡し、自分のデスクへと向かわせる。
皆の意識が僕から逸れた瞬間、愛桜がつま先立ちになり、僕の耳に届くように顔を近くに寄せ、ささやくように言った。
「ほんとに大丈夫?」
「ありがとう。なんかあったらすぐに言うよ」
「分かった。約束ね」
それだけ告げると、愛桜も自分のデスクのある方向へと向かった。
途中まで一緒だったので、僕も付いていくと、同じ部署の先輩の山崎さんが声をかけてきた。
「鶴野、今日の昼までの資料作成、もう終わってるか?」
「はい。八割方できていて、あとデータを加工して挿入するだけです」
「分かった。それなら、残りは俺でやっておく」
「ありがとうございます」
「新卒ばっか構って、無駄な時間を取られないようにな」
山崎さんは言いたいことだけ言うと、すぐに自分の仕事に戻った。
僕は自分のデスクに戻ると、資料に進捗を手短にまとめた文章を付けて山崎さん宛に社用チャットで送った。
山崎さんはとても優秀かつ、思ったことは言葉を選ばずに言ってくる性格だが、裏表がなくて上司としては付き合いやすい。
ただ、自分に厳しく他人にも同じくらい厳しいため、しっかりと彼の求める水準の仕事をこなす必要がある。
僕が立ち上がろうとすると、愛桜から社用チャットでメッセージが来たことに気付いた。
「さっきの人、誰?」
「同じ部署の先輩」
「なんか厳しそうだね」
「うん、だいぶ厳しい」
「ちょっと苦手かも。私も仕事で関わりあるかな」
「僕と同じ部署になるなら、わりとある」
「そうなんだ」
「でも、悪い人じゃないよ」
「でもでも、わざわざ新卒の私に聞こえるように、言わなくても良くない?」
「それはまあそう」
愛桜は、グッドのリアクションスタンプをメッセージに付けて、チャットでの会話を終わらせた。
文面だけだったが、愛桜の怒っている顔が目に浮かぶ。
社用のチャットツールでどうでもいいことを話すのは、ちょっとした背徳感があって、思ったより楽しい。
スリープモードにしたパソコンの黒い画面に映る僕の表情は、先ほど愛桜に心配されていた時に比べ、少し晴れやかになっていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回の更新は、10/12です。