第三十二話 先輩でも同期でも後輩でもなく
最悪の一日も、最高の一日も、まずは部屋のカーテンを開けて朝日を浴びることから始まる。
その日がどんな一日になるかは、ベッドから起き上がったときに何となく分かるものだ。
それで言うと、今日の僕の目覚めは良かった。
しっかりとした睡眠って、やっぱり大切なんだな。
昨日までの疲労感や倦怠感は、秋の長い夜を越えることができなかったみたいだ。
山崎さんの言う通り、僕も愛桜と同じくらい、気づかないうちに疲弊していたのかもしれない。
――だからきっと、今日は最高の一日になる予感がした。
愛桜が会社に来てくれさえすれば。
*
会社の創立記念日である今日は、全社員が一堂に会する社員総会の日である。
よほどのことが無い限り、通常の業務は午前中で停止し、午後からは会社の近くにあるホテルの大広間に移動して社員総会が開催される。
数週間前に、全社員宛てのメールで共有された内容によると、第一部として社長や役員陣のありがたいお話と、経営方針や業績についての貴重なお話を小一時間聞かされるようだ。
その後、第二部として『第十回 インテリアザラシさんの空間創造フェス』の最終選考と、各種の表彰が実施される予定である。
ちなみに、その後には立食パーティーも企画されていたはずだ。
そのパーティーの参加費は無料だったので、打ち上げがてら僕も参加予定である。
たとえ、会社のつまらない飲み会であったとしても、タダ飯の魅力には抗えなかったんだ……。
僕が朝早くオフィスに出社すると、まだ愛桜は来ていなかった。
昨日より良質な睡眠をとることができたので、朝自然に目が覚め、結果としていつもより数本早い電車に乗れたのだ。
賀来さんや愛桜はもとより、山崎さんすら来ていないほどのスピーディー出社である。
僕は、いつも座っている席に座ると、さっそくパソコンをカバンから取り出して業務を始めた。
でも、朝イチかつ同じ部署の同僚や上司がまだ来ていないという、一番集中できる時間帯のはずなのに、なんとなく仕事に身が入らない。
オフィスのドアの開く音がするたびに、特に用事もないのに首がそちらを向いてしまいそうになる。
たくさんの社員が入口から入ってくる、出勤時刻の三十分前にこんなことをしていては、まったく仕事にならない。
それに気づいた僕はパソコンを閉じ、コーヒーを買うために席から立ち上がろうと足に力を込めた。
業務開始からわずか五分で閉じられた可哀そうなパソコンには、後で十分に活躍してもらうことにしよう。
その時、一番僕に近いドアが開いて、見慣れたミルクティーベージュ色の髪が何本か揺らめいたのが見えた。
――愛桜だ。来てくれたのか。
僕は、コーヒーの売っている自動販売機から方向転換して、愛桜へと足を一歩踏み出した。
でも、二歩目を踏み出そうとした僕の足は、見えない網か何かに絡めとられたかのように動かない。
愛桜に何と言って声をかければいいのか。
愛桜からは何を言われるだろうか。
もし、愛桜から避けられたらどうしよう。
避けられるだけならまだしも、無視されたり、嫌われていたりしたらどうしよう。
色んな思考が頭の中をぐるぐると回り、真っすぐに立っているはずなのに、自分がどのように立っているのか分からなくなってくる。
僕が思わず、目をギュッと閉じて膝を床につけようとすると、耳元で愛桜の声がした。
「鶴野さん!? 大丈夫ですか?」
僕は気づかぬうちに近くまで来ていた愛桜に驚いて、反射で崩れ落ちそうだった膝を伸ばして直立する。
単純なもので、愛桜に話しかけられただけで頭がスッと軽くなるのを感じていた。
「ありがとうございます。はい。今大丈夫になりました」
「……そうですか? それなら良かったです」
「はい」
会った時に何と話しかけようといくら迷ったとしても、会話が始まってしまえば意外と何とかなるものだ。
正確に言うと、何とかするしかない、とも言うのだが。
僕は一度深呼吸をして、風邪へのお見舞いと、この間の謝罪を伝えようと愛桜の方に向き直そうとした。
「煙山さん。そ、その……。あ、この間は本当に――」
「おっはよう皆の衆! あ、愛桜ちゃん! 風邪は大丈夫?」
それから言葉を発そうとした瞬間、元気よく後ろのドアが開いて賀来さんがやってきた。
そしてすぐに愛桜の姿を見つけると、手を振りながら近づいてくる。
この人、こういうとこあるよな……。
愛桜は、僕の胸元あたりをチラリと見つつも、賀来さんからの挨拶を無視するわけにもいかないのか、入口へと向かっていく。
その去り際に一瞬見せた横顔は、緊張から解放された安堵感と申し訳なさが、ぐにゃりと複雑に混ざり合っていたように見えた。
その後、朝礼があったり打ち合わせが続いたりと、なんだかんだ愛桜と話す時間が取れなった。
そもそも、今日は社員総会のせいで、業務は午前中だけで終わらせないといけないので、なかなかに忙しい。
気づけば、もう社員総会の会場へ移動しなければいけない時間だった。
きっと社員総会が始まってしまったら、社員同士で雑談することはできないだろう。
そう考えた僕は、他の言いたいことはすべて後回しにして、ひとまず愛桜とプレゼン大会についての話をすることにした。
僕のパソコンを横で開きながら歩いて、愛桜と資料の修正点について話す。
昨日部署の皆が手伝ってくれた部分は、愛桜もきっと把握するのは大変だろうから、僕が説明することになった。
最後の最後にぶっつけ本番の部分が発生するとは思わなかったが、もういまさら言っても遅いだろう。
後はやりきるのみだ。
今回の会場に着くまでに必要なことだけをなんとか会話し、愛桜は新入社員たちの方へと歩いていった。
*
これから全社員に向けたプレゼンの発表が控えている状態では、難しい話なんて入ってこない。
僕は、偉い人たちの含蓄ある素晴らしい話を、絶賛聞き流していた。
後で、他の人に何話していたかを聞こう……。
そんな不真面目なことを考えていたら、横に座っていた賀来さんが声を潜めて話しかけてきた。
「社長、なんか難しい話してるね。鶴野くん、分かる?」
「正直、この後のプレゼンで頭がいっぱいで聞いていませんでした」
「だよねー! あとで何言ってたか教えてあげるね」
社員総会なんて、このくらいのスタンスでいいのかもしれない。
でも、賀来さんに聞くのだけは止めておこう……。
僕は自分のことを棚にあげて、心の中で賀来さんの配慮を断った。
もっと声を潜めた賀来さんが、内緒話をするみたいに僕の耳に手を当てて言葉を続ける。
「プレゼン、がんばってね」
「ありがとうございます」
「愛桜ちゃんにもよろしく言っといてね。ほんとは直接言いたかったんだけど」
「伝えておきます」
賀来さんの言葉通り、愛桜は今、僕たちの近くにはいない。
なんの罰ゲームか知らないが、例年その年入社した社員だけは、最前列の席が確保されていた。
僕も去年、必死に眠気をこらえて最前列で話を聞いた記憶がある。
やがて、退屈だった第一部が終わって、数十分間の休憩の時間になった。
その後は、『第十回 インテリアザラシさんの空間創造フェス』の最終選考、社員全員へのプレゼンの始まりだ。
僕が席に座って休んでいると、いつかの第一選考で僕たちの審査員をしていた男性が呼びに来た。
『インテリアザラシさん』が『ヒュッゲ(Hygge)』を体現する生物であるという大切な(?)ことを、気づかせてくれた大恩人である。
その男性も僕のことを覚えていたのか、「頑張れよ」と笑って声をかけてきた。
僕は一次選考のなかで、真剣な雰囲気の会議室が、一瞬で笑いに包まれたあの暖かな瞬間を思い出し、お礼を言って頷く。
いよいよ、最終選考が始まろうとしていた。
*
司会が休憩時間の終わりを告げると、僕の緊張は否が応でも高まっていく。
でも、それはきっと、横にいる愛桜も同じだろう。
僕と愛桜は、特にお互い何も喋らず、案内されたステージ裏で、他の登壇者たちと静かに自分たちの順番を待った。
ステージの裏は暗くて、埃っぽくて、おまけに熱がこもらないのか少し肌寒かった。
去年、碧と響の二人が会社を辞めてから、丸一年。
あれから、色々なことがあった。
あの時の自分の選択を責めて、自分の意思決定を呪って、自分の行動を後悔した。
まるで暗くて冷たい氷の下の海を泳いで、酸素を求めて踠いているのかような一年間の日々。
周囲もよく見えないまま、踠けば踠くほど状況が悪くなったように感じられた時もあった。
今だって僕の手は緊張で震えているし、僕の心臓の鼓動も呼吸も早い。
ついでに言うと、喉もカラカラだ。
でも、今、僕はもう絶対に出場しないと決めていた、『インテリアザラシさんの空間創造フェス』の舞台に立っているし、その隣には愛桜がいる。
やがて、司会が高らかに僕と愛桜の名前を呼ぶと、ステージの裏にも聞こえるくらいの拍手が聞こえた。
僕は、「僕たちの番ですね」と言って、愛桜の手を優しく包み込んで立ち上がる。
間髪入れず、愛桜が小さな声で「冷っ」と漏らしたのが聞こえた。
そのまま愛桜は顔を逸らし、僕の手を握っているのとは反対の手で、僕の脇腹を小突いてくる。
ごめんって。
たぶん、緊張で血液が心臓に集まったことで、手先が冷たくなっているんだと思う。
意識せずとも、口から自然と出てきた謝罪の言葉に、僕は今日ずっと言いたかった謝罪の言葉を重ねた。
「あと、この前はほんとにごめん」
「私こそ、ごめんね」
そう言って、僕の手を握り返してきた愛桜の手の、柔らかくて暖かな感覚が、僕の心を奮い立たせる。
よし、行こうか。きっと大丈夫。
僕たちは、どちらかが前に立って先導することなく、同じ歩幅でスポットライトの当たるステージへと歩き出した。
*
運命の最終選考は、練習通りに始まった。
たとえ全社員が聞いていようとも、愛桜の説明が乱れることはないようだ。
よどみなく進んでいく愛桜のプレゼンを壇上で聞きながら、今回僕が話す内容を心の中で準備してみる。
そうすると、何か大切なことを忘れているような、嫌な感覚があった。
……何か事前に愛桜に伝えるべきことが、伝わっていないような気がする。
プレゼンの導入部分が終わった頃、やっとそれを思い出せた。
そうだ。今回の直前の修正で、プレゼン資料の順番をより聞き手が理解しやすいように変えたんだっけ。
その変更部分はこれまで愛桜が説明していたところだが、事前に愛桜を伝えるのを忘れていた。
やがて、順番が変わったその部分のスライドが、プロジェクターで映し出される。
愛桜が想定外のスライドを見て固まっている一瞬の隙に、僕は自然な形で説明に割って入った。
何回も愛桜の説明を間近で聞いていたし、説明内容についてはよく頭に入っている。
説明を奪われる形になった愛桜だが、この間にスライドの順番が入れ替わってることを把握したのだろう。
僕がその一枚のスライドの説明を終えてページをめくると、愛桜は特に合図もなく続きの説明を始める。
その後にあった修正部分についても、僕たちは完璧に役割を分担して進めることができた。
打ち合わせは、直前のたった数分間しかしていないのにも関わらず、だ。
図表があったり、文字の多かったりするスライドにおける、聞き手が内容を把握しやすいような間。
ポインターやアニメーション、身振り手振りによる視線誘導。
そういった僕の癖とも呼べる仕草を把握し、愛桜は完璧なタイミングでプレゼン資料を一枚ずつめくっていく。
このプレゼンのなかで、僕たちの呼吸は寸分の狂いも無く合っていた。
この僕たちの関係性に、もし名前を付けるのであれば、何がいいだろう。
きっと、ただの先輩でも、ただの同期でも、ただの後輩でもない。
相棒? 仕事仲間? 共闘者?
チームメイト? パートナー? バディ?
どこかで聞いたことのあるすべての関係性が、しっくりくるようで、しっくりこなかった。
たぶん、わざわざ関係性に名前なんて付けなくたっていいのだろう。
――ただ、僕は、愛桜の隣に立っていたいんだ。
今、大勢の観客に向けて、この舞台の壇上で一緒にプレゼンを行っているように、将来的にずっと愛桜の隣にいれたら。
そして最後に、愛桜がプレゼンを締め、僕も一緒に頭を下げる。
その頭上には、僕たちを祝福するかのような万雷の拍手が降り注ぎ、しばらくずっと鳴りやまなかった。
*
プレゼン大会の、すべての登壇者が発表を終えた。
結果は最優秀賞の一チームだけ、この社員総会の最後に発表して、それ以外の賞については後ほど社長以下の話し合いで決められるらしい。
発表が終わって気が抜けた僕たちには、他のチームの発表を聞いている余裕は無かった。
なんなら、気づいたら終わっていたくらいの気持ちである。
そのため、当然のことながら、その発表の後の各表彰や、細かい伝達事項を聞いている余裕も無い。
あれ? 今日の僕、全然話聞いてなくないか?
これも後で、賀来さん以外の誰かに聞こう……。
僕は、年間で高い成果をあげたらしい社員たちが表彰されているのをBGMに、プレゼン後の流れでそのまま横に座っている愛桜の顔を見た。
イマイチ話に集中できていないのは、きっと愛桜も同じだったのだろう。
僕の視線を感じたのか、愛桜もすぐに僕の方を向いた。
「今日まで色々と、おつかれさまでした」
「本当におつかれさまでした」
「ありがとうございます」
愛桜は、まっすぐに僕を見つめてお礼を言ってきた。
その時、今日初めて愛桜と目が合う。
色素の薄いブラウンの、綺麗な透明感のある目。
その瞳に映る僕は、何かを言い出したそうで、言い出せないような、何かが喉につっかえた表情をしていた。
我ながら、分かりやすい表情で笑ってしまう。
しばらく愛桜を見つめていたら、突然、そこら中から鳴り響いた拍手が、僕の耳をつんざいた。
僕と愛桜は我に返り、急いで周りの人と同じように拍手をする。
どうやら、社長が壇上で何かを発表していて、知らない社員たちが何かしらの賞を貰っているらしい。
その拍手の音にかき消されるくらいの小さな声で、僕たちは会話を続けた。
「ねえ、愛桜。さっきも言ったけど、この前はごめん」
「ううん。私の方こそごめん。自分の体調のこと、全然分かってなかった」
「むしろ、無理させすぎてごめん」
「いや、私が勝手に無理してただけだよ。ごめんね、与一は私を止めようとしてくれてた」
お互いに謝り出したらキリがない。
だから僕は謝るのを一旦止めて、昨日からずっと頭のなかを支配していた、愛桜に伝えなきゃいけないことを考えてみる。
そもそも、僕はこのプレゼン大会に乗り気ではなかった。
でも今は、参加して心からよかったと思っている。
――それはもちろん、愛桜のおかげだ。
そのことを、伝えたいと思った。
「それと、僕を、このプレゼン大会に引っ張ってきてくれてありがとう」
「私、与一の助けになれたかな?」
「それはもちろん。この選考は、愛桜がいなきゃ成り立たなかった」
「そうかな」
「うん。愛桜は誰よりも頑張ってた」
「そう言ってもらえるなら嬉しいな」
その時、急に周囲の照明の光量が落とされて、他の社員たちから小さく短い悲鳴があがった。
薄暗い暗闇のせいで、愛桜の表情はよく見えなくなってしまったけど、電気の消える直前に見た愛桜は泣きそうな顔をしているように見える。
そして、爆音でドラムロールが流れ出した。
話を聞いていなかったから正確には分からないけど、何かともったいぶるこの感じは、どうやら大きな賞の発表みたいだ。
僕は、きっと愛桜も聞いていないだろうと思いつつも、ダメ元で横にいる愛桜に尋ねてみる。
「ちなみにこれ、何の賞?」
「……私にも分からない」
「だよね」
うん。思っていた通りの返答だ。
あと、なぜだか知らないが、会場の視線が僕たちのいる方に注目している気がする。
まずい。もしかして、雑談している声が大きすぎたのか?
僕が身構えていると、ドラムロールが止まって、壇上にスポットライトが当たって誰かが出てきた。
現れたのは、とても賢そうな博士帽をかぶり、丁寧に手入れされたモフモフの白い艶やかな毛並みを持つアザラシ。
――の、でかい着ぐるみ。
そう。等身大の、我らが『インテリアザラシさん』である。
初めて見たんだが、着ぐるみとか作ってたんだ……。
その姿が見えた瞬間に会場から大歓声があがり、横の愛桜は、「かわいい……」と呟いてうっとりしている。
というか、『インテリアザラシさん』が出てくるということは、十中八九『第十回 インテリアザラシさんの空間創造フェス』の最終選考の発表だろう。
僕たちは、息をのんで最優秀賞の発表を待つ。
でも、結果として、そこで僕たちの名前が呼ばれることは無かった。
その発表をもって、長きにわたった『第十回 インテリアザラシさんの空間創造フェス』は終了した。
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