第三十一話 愛桜のいない日
それから、ベッドから飛び起きて、愛桜のことを考えながら朝の支度をする。
――どうして返信が無いのだろう。
例えば、携帯電話の充電が切れていたんじゃないだろうか。
それとも、インターネット接続やメッセージアプリの不具合だろうか。
もしかして、風邪をひいていて、返信できるような体調ではないんじゃないだろうか。
もしくは、家事や趣味などが原因で、返信する時間が取れていないのだろうか。
じゃあ、メッセージを何かしらの理由で見落としているじゃないだろうか。
はたまた、僕にたいして怒っているか、失望しているか、嫌っているのだろうか。
どれも合っている気もするし、合っていない気もする。
ここで考えていても、愛桜の本当の気持ちは分からない。
意図的なのか、仕方なくなのかは分からないが、愛桜が僕のメッセージに返信をしていないのはたしかだ。
とにかく出社して、愛桜に直接聞いて確かめるしかないようだ。
僕は、重い足取りで会社へと向かった。
*
昨日あんなことがあった後なので、さすがに会社の人と会うのは少し気まずい。
オフィスの入り口のドアに手を当てたまま立ち止まっていたら、急にドアが軽くなった。
僕は、体勢を崩して建物の中へと転がり込む。
何事かと思って後ろを見ると、賀来さんが得意げな表情で僕の顔を覗き込んできていた。
「鶴野くん、おはよう」
「おはようございます……」
「昨日はよく眠れた?」
「おかげさまで、その辺で携帯を持ったまま寝落ちしていました」
僕がそう言って首を振ると、賀来さんは肩をすくめて「やれやれ」というポーズをした。
「それは、……最高な睡眠だったね」
「はい。ベッドとか布団を使わない睡眠のなかでは、ですけど」
僕と賀来さんは、顔を見合わせてニヤリと笑うと、一緒にうちの会社が入居するフロアへと入った。
なんか、今の一連の流れ、洋画っぽくていいな。
不覚にも、ちょっとテンションが上がってしまった。
賀来さんのアホみたいな(?)ノリのおかげで、朝はあんなに荒れていた僕の心は、すっかり元通りだ。
もしかして、賀来さんは、僕に気を遣ってくれたのだろうか。だとすれば、本当にありがたい。
でもまあ、賀来さんのことだから、普通に素の可能性もあるけど……。
僕は、ちょっと晴れやかな気持ちでいつも使っている机にパソコンを置くと、昨日の退勤後に来ていたメールや今日の予定を確認した。
でも、普通の出勤時刻を過ぎても、なかなか愛桜がやってこない。
五分が経って、十五分が経って、三十分が経った。
――なんとなく嫌な予感がする。
僕がチラチラと時計を気にしていると、先ほどぶりの賀来さんが近くまで来て声をかけてきた。
「鶴野くん。良いニュースと悪いニュースがあるのだけど、どっちから聞きたい?」
あ、さっきの洋画のノリ、まだ続いていたんだ……。
僕は、苦笑しながら顔の前で手を振ると、賀来さんの口調には付き合わずに言葉を返した。
「……煙山さんのことですか?」
「そう。……よく分かったね?」
「まあ、昨日の今日ですから」
賀来さんは、アメリカンジョークのノリに付き合わなかった僕に気を悪くした様子もなく、心底驚いたといった風に両手を上げた。
「愛桜ちゃん、今日お休みらしいよ」
「……そうですか」
賀来さんが、いつもの軽い笑みを引っ込めて真面目な顔で僕に言ったちょうどその時、パソコンが「ピコン」という音を立てた。
会社内のチャットツールからの通知のようだ。
見ると、愛桜が僕に「体調不良のために欠席します」という連絡を送ってきている。
僕は、すぐに「お大事にしてください」と返信した。
その後に何を続けようかと考えていたら、チャット画面に「入力中……」という表示が出てきて、何も返信が無いまま時間だけが経過した。
愛桜が何か打ち込んでいるらしい。よっぽどの長文だろうか。
僕が愛桜の返信を今か今かと待っていると、背後で賀来さんが軽く咳払いをしたのが聞こえた。
あ、完全に忘れていた……。
賀来さんは、そんな僕の様子を見ると、「そういうことだから、また後でねー」と言って去っていった。
心の中で「すみませんでした」と賀来さんに謝りながら、ふと思う。
――これが悪いニュースだとするならば、良いニュースとはいったい何だったんだろう。
寝不足でズキズキと痛んでいる頭をフル回転させて悩んでいると、パソコンの通知がその思考を中断させた。
すぐにパソコンの黒く暗転した画面を解除して、愛桜とのメッセージ画面を開く。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
文字を打ち込んで、消してを繰り返したのだろうか。
時間を使って考えたわりには短すぎるその一行だけが、僕の画面には表示されていた。
その後、僕も何を返すか一時間くらい迷って、無難に「ゆっくり休んでください」とだけ返信する。
会話を続けてもらうために、疑問系にした方がよかっただろうか。
あと、愛桜の私用の携帯電話に届いているはずのメッセージは読んでくれているのだろうか。
言いたいことや聞きたいことはたくさんある。謝りたいこともちょっとある。
でも、そのすべてが喉をつっかえて出て来なかった。
――けっきょくその日、愛桜からの返信が来ることは無かった。
*
僕が心ここに在らずという風体でオフィスを彷徨っていると、山崎さんが声をかけてきた。
僕は、反射的にすぐ心を取り戻して、ハキハキと返事をしながら山崎さんに近づく。
そしてすぐに頭を下げて、昨日のことを謝った。
山崎さんの眉毛がピクリと数ミリ上がる。
しばらく間があって、僕の謝罪とお礼をそんなこと気にもしていないという風に一蹴すると、淡々と自分の要件を伝えてきた。
「昨日、うちの部の手が空いている人を集めて、資料の修正をした」
「……あ、ありがとうございます!」
「探していたデータについても見つけておいたから、後は鶴野の方でそれを確認してくれ」
「助かります。本当にありがとうございます!」
もしかして、これが賀来さんの言っていた「良いニュース」なのかもしれない。
僕は、山崎さんにもう一度頭を下げてお礼を言って、資料の確認をするために自席へと戻った。
結果的に、資料の修正は水曜日のノー残業デーの業務の範囲内に収まるくらいだけで済んだ。
これで、明日のプレゼン本番にも問題なく間に合いそうである。
更新後の資料を使って、愛桜とのプレゼン練習をすることができないことだけが不安要素だが、資料を修正してくれた部署のみんなには本当に頭が上がらない。
すべては、明日しだいだ。
*
定時で上がって会社を出て外の空気を吸うと、今日一日感じていた倦怠感が少しはマシになった気がした。
あー、早く帰って寝たい。
そう思いつつも、足は自然と帰る方向とは真逆の方面の改札へと向かっていた。
もうホームに入ってしまったので、ちょうど滑り込んできた電車に乗り込む。
ぼんやりとしながら歩いて、気づくとバッティングセンターのある古いビルの前に来ていた。
当たり前だが、ここに来たとしても愛桜は隣にはいない。水曜日なのに。
――せっかくだし、体でも動かしていくか。
僕は、慣れた仕草でブースに入ると、マシンにお金を入れた。
そして、古くて動作の悪い旧型のピッチングマシーンと相対する。
ここ数ヶ月ですっかり見慣れた景色が目の前に広がり、目に馴染んだ白くて薄汚れたボールが、僕の記憶のなかの軌道と同じコースに飛んできた。
そのはずなのに、ボールはまったくバットに当たらずに空を切る。
それから最後までボールはかすりもせず、僕の持ったバットが快音を響かせることは無かった。
だめだこりゃ。せめてもの救いは、愛桜が見ていなかったことだろうか。
……いや、逆に愛桜が見ていないから、こんな散々な結果なのかもしれない。
僕はさっさと見切りをつけ、すぐにバッティングセンターから出ていくことにした。
今日はダメだ。ダメな日だ。
愛桜と仲直りしたら、またここに来よう。
いや別に、喧嘩したわけでも、嫌われたわけでもないのだが。少なくとも、僕はそう思っている。
帰りの電車に乗り直して、いつもより混んでいる帰宅ラッシュに巻き込まれながら、僕は昨日と今日のことを振り返った。
今日一日過ごしてみて、気づいたことがある。
つまるところ、愛桜と会っても会わなくても、僕の頭のなかは愛桜でいっぱいなのだ。
愛桜は明日、会社に来てくれるだろうか。
でもきっと、責任感の強い愛桜のことだから、最終プレゼンは何としてでも来ようとするはずだ。
――愛桜と会って、話がしたい。
僕は、明日何を話そうか考えながら、必要最低限の家事だけして布団の中に潜り込む。
今日も眠れないかと心配していたが、体は思ったより疲れていたみたいで、すぐに僕の意識は夢の世界へと旅立っていった。
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