第三十話 愛桜ちゃんと譲れぬ思い
翌日の火曜日。
前日に遅くまで会社にいた日は、出社するのが億劫になる。
まあ、別にいつでも出社したくてしているわけではないから、何とも言えないけど。
そんな気持ちを翌日まで引きずった僕は、ゆるやかに寝坊をかまして、定時より一時間ほど遅い時間から始業した。
ほとんど遅刻の言い訳としか使われていない、フレックス制度に感謝である。
育児とか介護とか、そういう事情もない独身男性にとって、早上がりしてまでやりたいことって、そんなに無いんだよなあ……。
それなら、むしろお金欲しさに残業する方がいいと思ってしまうタイプの人間だ。
強いていえば、使い道として思いつくのは、病院に行くことくらいだろうか。
でもまあ、体調の悪い日には、有給か半休を取っちゃった方がいい気もしているので、これまた微妙だ。
結論:フレックス制度は意外と使わない。(でも、ないよりある方がいい。)
さて、僕が出社すると、当たり前のように愛桜は既に業務を始めていたようだ。
昨日僕より遅く帰ったはずなのに、今日は僕より早くから働いていることになる。
うーん。仕事しすぎじゃないだろうか。
*
業務開始時刻をずらすと、ランチ休憩がいつもより早くやってくる。
まあ、その代わりに休憩後から退勤までの時間は長くなるんだけども……。
いつもは外出先やオフィス外の飲食店で昼ご飯を食べていることの多い愛桜だが、今日は自席でおにぎりを食べているようだ。
実は僕も、それに倣って、最近は会社におにぎりを作って持っていくことが多くなった。
なお、見ての通り今日は遅刻したので、適当にコンビニで買う羽目になったのはご愛敬だ。
デスクに控えめに広げたランチョンマットの上には、たぶん手作りのおかずを入れた小さなお弁当箱がある。
手作りお弁当。なんて魅力的な単語だろうか。
それを好きな子が作っているのであれば、なおさらである。
僕がカップラーメンにお湯を入れて席で待っていると、愛桜が僕に話しかけてきた。
「鶴野さん、今日はお昼ご飯、珍しくカップラーメンなんですね」
「はい。寝坊したので、おにぎりを作ってくる暇が無くて……」
「そうなんですね。私のおかず少し要ります?」
僕は、「悪いですよ」と遠慮しつつも、内心では踊り出しそうな気持ちでそのお誘いを受けた。
愛桜は、僕に海苔の巻いてあるチキンを差し出してくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。おいしいです」
「まあ、冷食ですけどね……」
知っていた。どう見ても、みんな大好き『のりっこチ〇ン』である。
チキンナゲットなんて、手作りしている人がいたら逆にすごい。いつもありがとう、冷凍食品。
ちなみに、ハート型が入っていたらラッキーらしいぞ。
あと、最近の冷凍食品の全般に言えることだが、シンプルにおいしすぎないだろうか。
とにかく技術の進歩が著しい。
つまり、冷凍食品は、暖かな母の味でもあり、甘酸っぱい恋人の味でもある。
今、独り身の僕の心を温めているのも、工場でキンキンに冷やされて出来たての品質をキープしている冷凍食品なのだ。
僕があまりに冷凍食品を褒めちぎるので、愛桜はちょっとムスッとした顔をしている。
次に愛桜は、僕がチキンナゲットを咀嚼し終わるのを待ったあと、綺麗な焼き色のついた卵焼きを差し出してきた。
「これも食べてください」
「いいんですか?」
「はい、これは手作りですからね」
愛桜に見つめながら、卵焼きを口にいれてゆっくりと味わう。
なんか、謎に緊張するな……。
愛桜の家は、卵焼きはしょっぱい派らしい。
出汁のきいたふわふわの卵の食感が口の中に広がって、ひいき目無しでおいしく感じる。
僕が、興奮気味に感想を伝えると、愛桜はほっとしたようにつぶやいた。
「よかったです」
「ほんとにおいしいです。煙山さん、料理上手なんですね」
「……卵の賞味期限切れてたから、大丈夫そうでよかったです」
妙に僕を見つめてくるなと思ったら、そういうことかい。
おいしい卵焼きをもらった恩もあって、賞味期限切れを食わせてきたことをあまり強く攻める気にならなかった。
愛桜は、自分を正当化するかのように、「うんうん」と頷きながら言葉を続ける。
「まあ、火を通せば、賞味期限は伸びますから」
「正直言いたいことは分かりますけど……。気を付けてくださいね……」
「はーい……」
そう言って、愛桜と僕は愉快そうに笑い合った。
ここ数週間はお互いに忙しくしていたから、愛桜とこんな風に話すのも久しぶりの思う。
よく考えると、愛桜の笑顔自体も、最近はあまり見ることができていなかった。
……やっぱり、愛桜自体に元気がないような気がする。
そもそも、愛桜はよくご飯を食べる方だ。
これまでも僕と同じくらいの量を僕よりおいしそうに食べるから、つい目がそちらを見てしまって、愛桜に怪訝な顔で見られることが何度かあった。
その愛桜が食べる量としては、冷凍食品のおかずと卵焼きの小さい弁当箱と、混ぜご飯のおにぎり一つは、少し少ないように思う。
その数少ないおかずも、僕にくれたし。
ダイエットだろうか。別に、愛桜がこれ以上、痩せる必要はないと思うから違うか。
でも、仮にそうだったとして、「ダイエットしているの?」なんて女子に聞いて、良いことが起こった試しはない。
……いったん気づくと、愛桜の体調がますます気になってくる。
とはいえ、あんまり愛桜の方ばかり見るのも仕事にならないので、僕はカップラーメンをすすりながら手元のパソコンを動かしていた。
昨日修正要請が出た資料の、代わりとなるデータを探す作業である。
その量の少ないご飯を食べ終わったのか、愛桜が床を蹴って移動式の椅子をスライドさせ、僕のすぐ隣に来てパソコンを覗き込んだ。
「データ集め、進捗はどうですか?」
「うーん。……実は、けっこう難航しているんですよね」
「そうなんですね」
僕は、パソコンに目をやったまま、いくつかの愛桜の疑問に答えた。
今は、公的機関や大学などが実施している調査や研究結果を確認しているのだが、なかなか目的に合うデータが見つからない。
グラフや論文の内容を読み解くのが難しいのにくわえて、純粋に量が多いのもある。
効率のよいやり方を模索する必要はあるだろうが、最悪、残業などで時間をかければ解決すると思う。
そんなことをざっくばらんに話していたら、愛桜が僕の肩に手を置いてきて、目をまっすぐに見つめて言った。
「私、お手伝いしましょうか?」
正直、手伝ってくれたら大いに助かる。
だが、愛桜も愛桜のやるべき業務もあるだろう。
こんなに忙しく動き回っているはずなのに、久しぶりに正面から見た愛桜の目には、まだ生き生きとした光が宿っていた。
でも、そのキラキラした目の下にできているであろう、深いクマを隠すために厚塗りされたコンシーラーが、愛桜の身体が疲れていることを主張してくる。
これ以上、愛桜に仕事を渡すことはできない。
僕は、感謝を伝えながら愛桜のありがたい申し出を断った。
愛桜は、ちょっと残念そうな顔をして、僕に「頑張ってくださいね!」とエールを告げて自席へと去っていく。
その後を追うように、僕も立ち上がってカップラーメンの残り汁を流しに捨てに行った。
さて、午後も頑張りますか。
去り際の愛桜から渡された飴の袋を破ると、口のなかに甘ったるいハニー味が広がった。
甘すぎる飴だと悪態をつきながらも、不思議と何でもやれるような気がする。
なんだかんだ、久しぶりに愛桜とまともに話せて喜ぶ自分がいた。
*
それから、それぞれの通常の業務をこなして、夕方になった。
僕たちは、最終選考の追い込みをするために、山崎さんや賀来さんのいる机の周りに集合する。
お昼以来に顔を合わせた愛桜が、開口一番に言った。
「データ集め、お手伝いしますね」
「本当ですか?」
「はい、他の業務は何とか終わらせてきました」
そう言って、愛桜は成果物を色々と見せてきたので、一緒に確認する。
たしかに、愛桜の担当分については、想定よりもだいぶ早い進捗のようだ。
すごいと思う反面、この短時間で仕上げてくるということは、昨日今日でどれくらいの無理をしたのか心配になってくるところである。
それなら、あとは僕が頑張る番だな。
なんとなく、この修正作業の終わりが見えてきたので、僕は愛桜を休ませることにした。
「今日は、進捗もいいですし、煙山さんはもう帰りましょうか」
「いや、それだと鶴野さんの部分が……」
「僕の部分は僕の方で進めておきます」
僕がそう言うと、愛桜は考えてもみなかったという驚いた顔を見せた。
それで納得する訳もなく、愛桜はその後もまだ引き下がってくる。
「でも、煙山さん、体調良くないですよね?」
「そんなこと……ないですよ」
「……体調、悪いですよね?」
僕がそう言うと、愛桜は一瞬歯切れが悪くなったものの、すぐに否定してきた。
本人にも少し自覚はあるようだが、危機感はあまりないようだ。
でも、いつもより愛桜のことを多く観察していた、僕の目はごまかせない。
今日の愛桜は、一見すると作業にずっと集中しているように見えたが、話しかけられた時の反応がワンテンポ遅れていることがあった。
お昼ご飯もいつもより少食だったのは、僕も一緒に食べていた通りである。
また、作業をしながらも、無意識に自分の肩や首に手を当てて、凝りをほぐすような仕草をしていたことが多かった。
ところどころ席を立って、肩や腕をぐるぐると回す体操をしていたり、頻繁に目薬をさしていたのも確認済みだ。
そしてなにより、昨日今日と舐めている飴は、マヌカハニー配合ののど飴だった。
以上のことから、今日の愛桜の疲労感はピークに達していると言えるだろう。
……我ながら、ちょっとキモイな。
いや、愛桜のことばっかり見てないで、仕事しろよ僕。
僕は、現場の数少ない証拠を取りこぼさないように、念入りな捜査や聞き込みを行う探偵のごとく、愛桜に矢継ぎ早に尋ねた。
「熱はありますか? 喉は痛くないですか? 咳は?」
「ありがとうございます、すべて大丈夫です」
「肩は凝ってないですか? 疲れはありますか?」
「鶴野さん、ちょっと過保護すぎますよ! 私、まだやれます!」
「季節の変わり目は体調を崩しやすいんですよ」
やる気があるのは良いことだ。
いつもだったら、僕もここで引き下がって、愛桜に手伝ってもらっていたかもしれない。
でも、僕にはどうしても愛桜に無理をさせたくない理由があった。
去年のインターン生の二人のことは、愛桜にも既に伝えているはずだ。
今年こそは絶対に、他のチームメンバーに無理はさせない。絶対に。
愛桜を守ること。それが僕の役目だ。
僕は、ここは絶対に折れないという強い意志を示すかのように、一切の揺るぎの無い確固たる口調で愛桜に詰め寄った。
「煙山さんは、自分が思っている以上に疲れている状態です。いつ倒れたっておかしくないんですよ!」
「私のことは私が一番よく分かります! なんでそんなに私を休ませようとするんですか!」
「……煙山さんには少し話したかもしれないですが、去年のインターン生の二人が体調を崩して、会社を辞めてしまったのもこの時期です」
「たしかにそれは聞きました。でも――」
「それなので、今日は絶対に帰ってもらいます」
僕の有無を言わさぬ雰囲気に気圧されたのか、愛桜が少したじろぎ、糸が切れたかのように後ろの椅子に腰かけた。
これでいい。
少し僕と愛桜の関係性にひびが入ろうとも、愛桜の身体と精神の健康を維持できるのであれば、それが一番だ。
僕が小さく息を吐いて、この話の終わりを告げようとすると、愛桜がもう一度椅子から立ち上がった。
「でも、私はあの二人ほどできることは少ないから、もっと頑張らなきゃいけないの!」
驚いた。愛桜がそんなことを考えていたなんて。
たしかに、碧と響は非常に優秀だったが、愛桜も同じくらいのパフォーマンスを発揮しているはずだ。
実際、愛桜がいなかったらこのプレゼン大会は勝ち進めることができなかっただろう。
愛桜のこれまでの努力や功績を認めない人は、許すことができない。
――たとえ、それが愛桜自身であっても。
僕は、今自分が会社にいることも忘れて、愛桜の叫びをかき消すくらいの大きな声で叫んだ。
「愛桜も頑張ってるだろ! あの二人にも負けないくらいに!」
「いや、足りない! まだまだ私はやれる!」
「でも――」
「二人とも、そこまでだ」
その時、僕たちの口論を止めたのは、山崎さんだった。
そこで、会社に残っている人の目が僕たちに集まっていたことに気づいて、急に我に返る。
「山崎さん、すみません……」
「私もすみません……」
山崎さんは、僕たちの顔を交互に見て、それからゆっくりと腕を組んで言った。
「二人とも、今日はもう帰れ」
「え……。あの……僕もですか?」
「たしかに、煙山が疲れているというのは俺も同意見だ。だが、煙山が疲れているということは、鶴野。お前も同じくらい疲れているということだ」
「それは……そうですが……」
「二人とも分かったな。これは上司命令だ」
この場で一番偉い人に、そう言われては仕方がない。
僕と愛桜は、渋々と帰り支度をした。お互いに無言だった。
山崎さんは、そんな僕たちのことをピクリとも動かずに見つめていた。
愛桜の方が先に帰り支度が終わって、消え入りそうな声で部署の人に挨拶をし、僕には目もくれずに帰っていく。
僕は、愛桜を乗せたエレベーターが下の階に着いたことを確認すると、カバンを持って立ち上がった。
愛桜の出社から少し間を空けてから帰ろうとする僕を、賀来さんが引き止めてくる。
「鶴野くん。作りかけの資料とデータって、どこにある?」
「それなら、部署の共有フォルダにありますけど……」
「あー、あそこね。分かった、じゃあ今日はゆっくり休んでね。おつかれさま」
「おつかれさまです……」
賀来さんの用事はそれだけだったようで、すぐに開放された僕は、数分前に愛桜が通ったエレベーターを通って帰路についた。
――よくよく考えると、今日の僕って遅めに出勤して早めに帰っているよな。まあいいか。
オフィスの正面入り口を出ると、定時前の時間帯にもかかわらず、もうすっかり空が暗くなっている。
薄々そうだとは思っていたけど、もうすっかり冬だな。
そのまま駅に向かって進んでいると、ライトアップされたイチョウの葉っぱが、ゆらゆらと舞い落ちるのが視界に入った。
落ち葉の舞う歩道は、まるで金色の絨毯を一人で歩いているみたいで、萎んでいた気持ちがだんだんと元に戻ってきた気がする。
東京は、ものすごくイチョウの木が多い。
もうしばらくすると、落ちて割れた銀杏が独特の臭いを放つようになるが、今だけは本当に綺麗だ。
僕は、乾いた冬の空気から指先を守るかのように、コートのポケットに手を入れて歩き出す。
ポケットの中に異物があるかと思ったら、愛桜からもらった飴の包装フィルムだった。
――愛桜に連絡してみようかな。
僕は、両手をポケットから出して、カバンを肩にかけ直すと、金色の絨毯を一歩一歩踏みしめた。
*
その夜、僕は一時間くらい考えた末に、愛桜宛に今回の件についての謝罪のメッセージを送った。
どちらかというと、謝罪というよりかは、心配が全面に出ているような文面になってしまったが。
その後は、晩ご飯を自炊してみたり、湯舟に浸かってみたり、掃除してみたりと普段の平日ではなかなか時間が取れない家事をやってみた。
――焦る気持ちを落ち着かせるかのように、ゆっくりと丁寧に。
だけど、いくら待てどもその夜、愛桜からの返信が来ることはなかった。
やがて空が憂鬱に明らんで、朝がやってくる。
寝るときに握りっぱなしだったスマートフォンを開いた僕が、起きてからまず目にしたものは、返信が無いどころか「既読」すらついていない愛桜とのトーク画面だった。
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