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第二十七話 愛桜さんへの気持ち

 韓国料理屋の店内は、これでもかというくらい冷房が効きすぎていた。

 熱帯夜の街を歩いて火照った身体が、一気に冷やされていく。寒暖差がえぐい。


 でも、冷蔵庫の中かと思うほど店内が冷やされていた理由は、メニュー表を見たらすぐに分かった。

 注文してお腹を空かせて待っていると、ぐつぐつと沸騰したスンドゥブチゲが机に置かれ、アサリか何かの旨そうで爽やかな香りが立ち込める。


 ちなみに、スンドゥブチゲは、よく日本においては『スンドゥブチゲ鍋』と呼称されることが多いが、「チゲ」が「鍋」という意味なので重複することになるので注意だ。

 でも、例えば『東大寺』は英語表記だと、『Todaiji-temple』と「寺」の意味が重複して表されるから、翻訳間ではよくあることなのかもしれない。

 たしかに、「チゲ」よりも「チゲ鍋」の方が、何の料理か伝わりやすいように思う。


 そんな「チゲ鍋」の、赤を帯びたオレンジ色の、見るからに辛そうなスープを一口、スプーンですくう。

 近い遠い隣国の冬を乗り越えるための工夫である唐辛子が、夏の東京の僕たちの胃袋を温めた。

 

 しかし、寒いところで食べた方がおいしいのはたしかだが、そのためにわざわざ店内を寒くするのは、自作自演な感じがするな……。

 例えるなら、冬にコタツに入って、ひんやりでもちもちの『雪見だい〇く』を食べるみたいなことだろうか。

 

 いや、おいしいからいいんだけども。


 凛は、「辛い辛い」と言いながらも、幸せそうに韓国料理を食べ進めている。

 字面からも分かる通り、辛いモノは幸せなのだ。

 

 昨日と同系統の綺麗めの服が汚れないための白い紙エプロンも、凛が着けるとどこか上品に見えた。


 なお、愛桜も第一印象の清楚さは凛に匹敵するのだが、すぐに行動で化けの皮が剝がれる。

 まあ、ゼミや会社においては、ところどころ怪しくもまだ演技を続けているのだが……。


 そう考えると、凛の()()()()所作は、長い年月をかけて積み重ねた結果、自然と体の一部のように身についたものなのだろう。

 幼いころの凛を知っているだけあって、大学で再会するまでの空白の期間に、凛が何を考えて、どのような生活を送っていたのかが気になった。

 

 あらかた机の料理を食べ終わったころ、凛が場を仕切り直すかのように、何度目かもわからないお礼を言った。

 

「あらためて、昨日は本当にありがとうね」

「いえいえ。無事でよかった」

「一緒に実家に帰った時以降は、けっこう落ち着いてたんだけどね……。ここ数週間で急に行動が激化したんだ」

「そっか……。何があったんだろうな?」


 僕がそう言うと、凛は少し考えてから、さっぱり分からないといった様子で首を振った。


「なんだろう。最近変わったことと言えば……。うーん、特に無いしなあ。強いていうなら……、夏のせい?」

「毎回、言い訳に使われる夏と冬の気持ちも考えてあげて」

「ふふっ。冗談冗談。あ、でもメイクとか服とかは夏っぽくなったかもね?」

 

 たしかに、先ほどまで羽織っていたカーディガンを脱ぎ、腕や肩を露出したノースリーブのワンピース一枚の凛は、華やかな女性らしい魅力が増したように感じる。

 ストーカーの行動の原因なんて考えても分からないが、もしかしたら肌面積が増えたことも、原因としてあながち間違いではないかもしれない。


 でも、凛がいくら素敵だからといって、もちろんストーカーすることが正当化されるわけではない。

 だから、僕はその魅力を正当な方法で凛に伝えるために、素直に凛を褒めたくなった。


「凛の格好って、おしゃれだよな」

「そう? 嬉しい」

「うん。なんか、自分に似合う服装が分かっているっていう感じがする」

「ありがとう。……まさか、与一にそんなこと言われるなんてね?」

「年がら年中ジャージと制服で過ごしてた頃とは違うんだよな、これが」


 別に今もファッションには興味がないが、大人になるにつれ、それなりに良し悪しが分かるようになってきた。

 あと、困ったときはスーツまでいかなくても、シャツにジャケットを羽織ればなんとなく様になるし……。

 

 ただしチェック柄。テメーはダメだ。シャツインもやめてくれよな!

 

 総じて、比較的ファッションの粒度が低い「男性」に生まれてよかったと思う反面、「女性」に生まれていたのなら、逆に服を選ぶ楽しみを見つけられたのかもしれないとも思う。

 

「いやー、ファッションって難しいよな」

「うん。ほんとに難しい。私もまったくファッションに興味なかったから、すごく勉強したんだよ」

「そうだったのか」

「そうなの。転校した先がけっこう都会で、みんなおしゃれだったからさ……」


 そうだったのか。

 今の凛を見た人は、凛が昔はファッションに興味がなかったなどとは想像もしないだろう。

 

 もしかすると今も、そこまでファッションに興味はなくて、周りから期待されている自分のキャラや属性を、服装を通じて自身に反映させているだけなのかもしれない。

 

 でも、昔の凛を知る人からするとそう意外でもなく、なんだかすんなりと納得できた。

 

 少しずつ、昔の凛と今の凛がつながってくる感覚が生まれてくる。

 だからこそ、今回のストーカー男への凛の対応には少し違和感を覚えた。昔の凛だったら取り付く島もなく断っていただろう。


 凛がどのようにファッションについて勉強したかについて相槌を打ちながら、僕のなかの違和感がどんどんと膨らんでいった。


「そっか、凛にも色々あったんだな」

「そうだよ。与一にもきっと色んなことがあったのと同じように、ね」


 そう言うと、凛は意味深そうに肩をすくめた。

 その仕草は、おしとやかというよりかはどこか幼気(いたいけ)であり、昔を彷彿とさせるような眩しい笑みがその印象を加速させる。


 そんな凛に影響されてか、周囲への気遣いなんてせずに、ただ言いたいことを言いたいように言っていた幼少期のように、僕は率直に思っていることを言ってしまった。

 

「前の凛だったら、そんな男の誘いなんてきっぱり断ってそうだけど」

「そうかな……?」

「うん。なんて言ったらいいのかな。凛の全方向への配慮はほんとにすごいと思うけど、言わなきゃ分かんない人もいるしなあ……」

「うーん。たしかに、幼いころの私が、今の私を見たらびっくりするかもね」

「そうそう。今回も、ガツンと言っちゃえばよかったのに」


 凛は、困ったように眉をひそめた。

 やっぱりそうだ。この短い会話からも、僕への配慮どころか、ここにはいないストーカーの男への配慮を忘れていないようにふるまっていることが分かる。


 それから凛は、胸の深いところから一つひとつの言葉を絞り出すように、途切れ途切れに息を吐いてつぶやいた。

 

「結果的にはそうだよね。私がちゃんとお断りできていれば、こんなことにはならなかったわけだし……」

「やっぱり少し言いづらかったの?」

「……うーん。いや、それは無かったんだけど……」


 凛はそこまで言って少し言いよどむと、やがて意を決したように小さいけれども力強い声で言った。

 

「そうだね。私は、私が嫌われないように立ち回っているだけ……なんだろうな」


 何も言えない僕をよそに、凛からはどんどん言葉が続けられる。

 

「昔の私は、ガサツで荒っぽかったし、全然女の子らしくなかったよね」

「でも私は、そんな自分を変えたくて! 女の子らしく振舞おうって頑張って――」

「ファッションも、メイクも、笑い方も、話し方も、座り方も、立ち方も、走り方も、全部変えようと努力してきたの!」


 矢継ぎ早に続けられる凛の言葉を受け止めていると、僕の口から独りでにポツリと言葉が滑り落ちた。

 

「そっか。色々がんばってたんだな。……でも僕は、昔の凛も今と同じくらい好ましく思うよ」


 その瞬間、涙がこぼれそうだった凛の目が大きく見開かれ、泣き声以外の何かがあふれ出すことを堪えるかのように、唇がギュッと結ばれた。

 そのまま数秒間経っただろうか。


 やがて凛は、その目に真剣な光を宿しながら一度深呼吸をして、フッと表情を崩して微笑んだ。

 口角をあげるけど歯は見せないような、見るものを安心させるいつもの優雅な笑顔だ。

 

「ねえ、与一。今から大切なことを言うからよく聞いてね」

「うん」

「好きだよ」


 今度は、僕の時間が止まる番だった。

 今、何と言った?


 僕が固まっていると、凛は「行こうか」とだけ言って立ち上がり、僕の手首をつかんで入口のレジへと歩き出した。

 辛うじて財布を出して半額を支払って店の外へ出ると、凛は歩く速度をさらに早める。


 前だけを向き、僕の方を振り返らずに進んでいく凛の小さな背中を見ていると、ふと昔の頃を思い出した。

 

 生徒が帰った後の放課後の校庭。

 ブランコと滑り台しかない小さな公園。

 潰れてしまったタバコ屋のあとにできた、家族経営のコンビニ。

 

 あの頃は色んな場所を遊びまわったが、いつも先頭を歩くのは凛だった。

 僕を始めとする仲間たちは、「今日はどこに行くんだろう」とワクワクしながら、凛の背中を追いかけたものである。

 

 ――でも今は、目的地のことなど何も考えずに、掴まれた手首にただ身を任せて、きらめく夜のオフィス街を歩いている。

 

 やがて僕たちは、高層ビルの切れ間にある小さな広場に出た。

 冬はイルミネーションで飾り付けられ恋人たちで大いに賑わうが、今の季節は人通りもなく小さなベンチがポツリと点在するだけである。

 

 僕らは言葉もなく、そのベンチに並んで座った。

 お尻に伝わるひんやりとした木の感触と、「ねえ」という凛の少し震えた声が、僕を現在へと引き戻す。

 

「ごめん、もう一回やり直していい?」

「いいけど……。えっと、それ必要?」

「そんなこと言わないの。ちょっと気持ちがあふれちゃっただけなんだから。ちゃんとした場所で言わせて」

「……うん」

「あのね与一、あなたのことが好きです」


 今度はちゃんと正面から凛の言葉を受け止められる気がした。

 凛が僕のことを好き。考えたことも無かった。


 あらためて言うまでもないが、凛は客観的に見てもとても魅力的な女性だ。


 例えば、努力を続けて身につけてきたという上品な立ち振る舞いもそうだが、困った人を放っておけないような思いやりと配慮に溢れた言動は、男女問わず周りの人間が放っておかないだろう。

 さらに、優等生然とした態度の奥底に秘めた芯の強さは、心地よいギャップとして好意を持って受け入れられるように思う。

 

 また、ルッキズムとそれにまつわる議論が渦をまくこの時代において、大きな声で言うことは(はばか)られるのだが、率直に言ってとても美人である。

 街を照らす電灯に反射して自然な光沢を放つ黒い艶やかな髪からは、生まれ持った遺伝子に胡坐(あぐら)をかくことなく、美容の維持のための適切なケアを怠っていないことが見て取れた。

 

 そして何より、お互いの幼い頃を知っていることもあって、積み重ねた年月が凛の努力と成長の影を際立たせる。

 共通の過去やエピソードがあるので話題も尽きないだろうし、家族かのような親しみやすさがあり、一緒にいることに安心感すら覚える。


 ――でも、それでも、脳裏に浮かぶのはなぜか愛桜(あいら)の顔だった。


 僕は、凛の方に向き直って言葉を返そうとする。

 その時に凛と目が合って初めて、気丈そうな声色とは裏腹に、凛が泣きべそをかきそうな顔をしていたことに気づいた。

 

「ありがとう」

「……好きの返しに、ありがとうは酷じゃないかな」

「……ごめん」

 

 なぜ、凛からの告白を受けているときに愛桜の顔が思い出されるかなんて、本当は分かっていた。

 

 鈍感な物語の主人公を気取って、自分の気持ちを見失うつもりはないし、自分の心の中くらいは正直であっていいと思う。

 うん。そっか。そういうことなんだろう。

 

 ――僕は、愛桜のことが好きみたいだ。

 この結論に至って、それを告げようと口を開こうとした瞬間、決まりきったことを確認するかのような、はっきりとした口調で凛が言葉を被せてきた。

 

「ねえ、与一って、愛桜さんのこと好きでしょ」

「え?」

「違うの?」

「……合ってる。だから。……凛と付き合うことはできない」

 

 言ってしまった。

 

 もしかしたら、僕と凛は、これまで通りの関係性には戻ることはできないかもしれない。

 そう思うと、自分が告白を断ったくせに、なぜか失恋したみたいに胸の張り裂けるような喪失感を覚える。


 でも凛は、まるで学校の定期テストの「問一」の設問に答えるかのような確信をもって、受け入れがたいはずの自分の告白の解答用紙を埋めてしまった。

 そのことが、僕には理解できなかった。


「……なんで?」

「自分の好きな人のことだよ? 分かるにきまってるじゃん」

「そうだけど……。そっか」

「それに私、愛桜さんのことを先輩として好きだし、ほんとに尊敬してるから……。この人には、きっと勝てないなって思っちゃったんだよね」


 凛だけでなく、ゼミの皆が愛桜のことを心から尊敬しているのは、傍から見ていても分かった。

 

 だからこそ、僕のこの返事によって、凛と愛桜の関係性も崩れてしまうのが、ただただ申し訳ない。

 凛はそんなこと承知のうえで告白したのだろうが、そのことに甘えてすべてを凛のせいにするのは違うと思う。


 だけど、僕の返事が変わることはないし、そんなことで気持ちを捻じ曲げるのは、凛にも愛桜にも失礼だろう。


 無言の僕たちの間を、生暖かくて乾いたビル風が通り過ぎていった。


 やがて、オフィスビルの電気が次々と消えていくのが見え始めたころ、俯いて伏目がちの凛が、僕の方をわざとらしくチラチラ見ながら言う。

 

「あー、与一にフラれたって、誰かに相談したいなあ……。例えば、信頼できる女性の先輩とか……」

「えっと、それは……誰?」


 凛の悪だくみをするような無邪気な笑みに、嫌な予感がした。

 場違いかもしれないが、普段と違うどこかチャーミングな凛の表情からは、彼女の「尊敬する先輩」である愛桜の姿が思い起こされる。

 

 凛は、間髪入れずに答えた。

 

「もちろん愛桜さん」

「おいっ! えー、止めていただけないでしょうか凛さん。まあ、僕にはそんなこと言う権利も無いんですが――」

「えー、どうしよっかなあ……」

「あの、凛さん? そこを何とか……!」


 凛が恐ろしいことを言い出した。

 もし、その声色が冗談めかせたもので無ければ、気まずさの極みみたいなシチュエーションが起こるかと勘違いしていたことだろう。


 僕は、よっぽど焦った顔をしていたらしい。

 凛は僕の顔を見ながら、「冗談だよ」と言って肩をすくめ、最初はぎこちない表情で笑っていたが、ツボに入ったのかしばらく笑いやまなかった。


 それからしばらく経って、凛がゆっくりとベンチから立ち上がって、丁寧にスカートについた埃を払う。


「ごめんね。もう大丈夫。行こうか」

「……分かった」


 あまりに自然に凛が立ち上がったので、本当に気持ちの切り替えができたのかと思った。

 でもきっと空元気だ。


 その証拠に、凛の瞳は充血して赤くなっており、目尻には隠しきれない涙が浮かんでいるのが見える。

 

「ごめん。ちょっと感情が迷子で……。悪いんだけど、やっぱり今日は一人で帰らせてもらってもいいかな?」

「あー、いや、でも、ストーカー男がいるから送っていかないと」

「そうだったね。ほんとにタイミングが悪いなあ……」

「……かもな」

「いや、むしろ逆に良いと言えるのかな?」


 結果的に、この日に二人で一緒に帰り、無事に家に凛を送り届けることができたことで、僕たちは表面上ほぼ普段通りの会話を取り戻すことができた。

 

 それから、開き直って好きという気持ちを全面に押し出してくる凛に、僕はずっと翻弄され続けることになる。

 でも、僕と凛の関係性がこれ以上近づくことは、生涯を通して無かった。

10万字突破しました。ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。

次の更新は、12/31 or 1/1の予定です。

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