第二十六話 愛桜さんとカミングアウト
次の日。朝起きて冷たい水で顔を洗い、まだ少し腫れていた頬の痛みに顔をしかめる。
五分おきに鳴り響くスヌーズの四重奏を止めようと携帯電話を開くと、凛から夜の間に連絡が届いていたことに気づいた。
内容は、その日のうちに接近禁止命令が下されることになったことと、僕を巻き込んでしまったことへの謝罪とお礼のようだ。
交番でこれでもかというくらい、時間をたっぷり使って話し合いをした甲斐があったようでなによりだ。
送信時間は、深夜の一時半。
凛は当事者ということもあって、あれからもっと長い時間、あの場に拘束されてしまったことが分かる。
それにくわえて、その男はもともと会社でも部署を異動させられていたらしく、今では凛と仕事上での関わりは薄かったようだが、今回の件で別オフィスへの転勤が命じられたらしい。
男も今では反省していると聞いたし、一応ひと段落がついた形といえるだろう。
だが、もしかすると一時的に感情が高ぶって事に及んでしまっただけなのかもしれないが、やったことの責任はしっかりとってもらう必要がある。まだ頬も絶妙にヒリヒリするし。
次の日、出社するとすぐに愛桜から声をかけられた。
「鶴野さん、昨日大丈夫でした?」
「はい。なんとか……、でも交番でむちゃくちゃ話聞かれました。……まあでも、ある意味、パトカーに乗る経験なんて滅多にできないので、新鮮ではありましたよ」
「うわあ、それは大変でしたね……」
「煙山さんも、警察呼んでくれてありがとうございます」
「いえいえ、間に合ってよかったです」
いきなり交番やパトカーなんて言葉を言ったからか、近くにいた名前も知らない同僚が、こちらにギョッとした顔を向けてきた。
まあ、それはそうだ。
愛桜は、そんな周囲の視線に気づくと、僕との距離をさらに人ひとり分ほど詰めてきて、声をひそめて話を続けた。
「凛ちゃん、大丈夫だった?」
「うん。あの後、男に接近禁止命令が出て、勤務地も変えてもらったから、ひとまずは安心できそうって言ってた」
「そっか……! 良かった……。」
「むしろ逆上してもっと行為がエスカレートする、なんてこともあるかもだから、少し気を付ける必要はあるけどな」
「あー、そうだよね」
そう話して、僕たちは少し暗い表情になる。
昨日の今日で接近禁止を無視する可能性は低いだろうが、念には念をいれる必要があると思った。
そんなこともあって、僕は今日、退勤後に凛と夜ご飯を食べるついでに、家の近くまで送り届ける予定だ。
そう告げると、愛桜はほっとした表情をして、「やるじゃん」と言った。
続けて、僕の顔を見て思い出したかのように、付け加える。
「そうだ、叩かれてたところは治った?」
「うーん。昨日に比べて、わりと痛みは引いたかな」
「そっか。よかった。たしかに少し赤みがあるくらいで、見た目は普通そうだね」
愛桜は、そう言って僕の頬を人差し指でツンと突いた。
少しヒリヒリする程度だったので、ほとんど表情を変えずに愛桜を見つめ返す。
僕の無言の抗議にニヤリとした愛桜は、さっきとは違って周囲から突き刺さる視線を意に介さずに、パソコンの画面に向き直って仕事に戻った。
*
早く帰る用事がある日ほど、仕事が想定通り進まないものだ。
愛桜にも色々仕事を振って手伝ってもらっていたが、二次選考の準備もあって、僕たちが退勤する頃には日がすっかり落ちていた。
凛にはあらかじめ、「遅刻するかもしれない」という連絡を入れていたが、案の定、もう約束の時間を三十分くらい過ぎている。
凛は既に駅に着いているみたいで、周囲を散策がてら、ぶらぶらしているらしい。
僕は凛に「今出たのであと五分くらいで駅に着く」とメッセージを送って、同じタイミングで退勤した愛桜と一緒に、急ぎ足で凛の待つ駅へと向かおうとエレベーターに乗り込む。
ちなみに、「今出た」というときは、本当はまだ出ていない。せいぜい、出る直前だ。
こんなの誤差なので、ほとんどの場合では問題ないのだが、たまにこの数分の差が事故を引き起こすことがある。
エレベータのドアが開き、エントランスのドアから出ようとした瞬間、後ろから「あ!」という声が聞こえた。
「与一! うわあ、ここ、与一の会社のビルだったんだ」
「凛!? どうしてここに?」
「コンビニを探してたら、このビルに着いた」
「あー、そういうことか」
オフィス街には、路面店のコンビニは少ない。
地下鉄の駅なんかだと駅前にもコンビニは無いのだが、その代わりにオフィスビルの一階にコンビニが入っていることがある。
自分の会社のビルにある分には大歓迎なのだが、他の会社のビルに入るときには、妙な入りずらさと背徳感があるんだよな……。
そうした事情を考慮すると、たしかにこの辺りのコンビニで駅から一番近いのは、うちのビルのコンビニだろう。
凛は、買いたてのビターチョコレートをカバンにしまうと、僕の隣で存在感を消しながら、そっとビルのドアに手をかけて逃走しようとしている愛桜に目をやった。
「……それで、愛桜さんと与一が、どうして一緒に会社から出てきたんですか?」
愛桜は、ビクッと体を震わすと、縮こまりながら凛の方を振り返り、観念したかのようにため息をついた。
「あちゃー、バレちゃったか」
「……まあ、一目で愛桜さんだと分かりましたね」
「そうだよね……」
迂闊だった。
凛を会社の最寄りの駅に呼んでいる以上、公共スペースに出た瞬間、このようなことが起こる可能性は十分に考えられただろう。
いつかはバレるだろうなと思っていたことではあるが、じゃっかん気まずく思った。
三人で実家の方へ帰省していたという比較的仲の良い僕たちの間柄で、そのうちの二人だけが知っていた隠し事があるという事実が、僕たちの口を重くする。
とはいえ、よくよく考えれば、隠していたからといって別にどうということはない。
愛桜は、通行人の邪魔にならないように通路の端にずれた後、意を決したように凛に告げた。
でも、愛桜の顔には、重大な秘密を打ち明けるときのような重々しさはなく、むしろワクワクを隠しきれていない楽し気な表情だ。
「そう、実はね! 私たち、同じ会社に勤めているんだ!」
「へえ、やっぱりそうだったんですね」
「……あれ? あんまり驚きが無くない?」
愛桜は、「想定していた反応と違う」とでも思っていそうな、少し不満そうな顔をした。
凛は、そんな愛桜の表情を見て、逆に楽しそうな顔になる。
「与一と愛桜さんと一緒に実家に帰ったとき、なんとなくそうかなと思っていたんですよ」
「え? そうだったの?」
「はい。あれ、この二人、大学のときより仲良くなってない? と思ってました」
「あー。そういうことね……」
愛桜が、納得したように頷きながらも、その先を言いよどんだ。
たぶん、ゼミでは上下関係があって特に仲良く見えなかっただけで、本当は大学時代も仲が良かったことを思っているのだろう。
でも、この重大で些細な秘密は、まだ愛桜の心のなかに隠しておくと決めたのか、これには言及せずに愛桜は凛へと言葉を返す。
「それを言うなら、与一くんと凛ちゃんも、大学のときより仲良く見えたけどね」
「そうですかね? たしかに、幼なじみであることは言ってなかったですけど」
「うん。まあ、私たち二人とも、与一くんともっと仲良くなれたってことなのかな」
「そういうことにしておきましょう」
二人がまとめに入ったと思ったら、なぜか僕に話の矛先が向いていた。
僕は、とりあえず感情のこもっていない形だけの感謝を述べる。
それから、凛に心からの心配の感情をこめて、昨日のことを労った。
「凛、昨日は本当にお疲れさま。災難だったね」
「いえいえ、私の方こそ、与一がいてくれたから大事にならずにすんだよ」
「それならよかった」
この詳しい話は、ご飯を食べながらでもするとしよう。
愛桜も、凛を心配そうに見つめて言った。
「凛ちゃん、昨日は大丈夫だった?」
「ありがとうございます。……あれ? 私、愛桜さんに昨日のこともうお伝えしましたっけ?」
「いや、直接見てたから知ってるけど……」
愛桜は、怪訝そうな顔で聞き返した。
それから、たぶん昨日の凛が周りを見る余裕がなかったのだと気付き、納得したように続ける。
「そういうことか。実はね、私も昨日与一と一緒にあの場にいたんだよ」
「すみません! そうだったんですか? 気づきませんでした」
「昨日、警察を呼んでくれたのは愛桜さんだよ」
「そうだったんですね! ありがとうございます! お手数をおかけしました」
僕も割り込み、愛桜があの場にいたことを補足する。
このまま話を続けようにも、この場では会社の誰が通るか分からない。
いつまでも立ち話を続けるのもあれなので、場所を変えようと提案した。
「ちょっと、店にもう一人追加できるか聞いてみます!」
「いや、私が急に来たのが悪いから、今日は二人で行っておいで」
店へ電話をかけようとした凛を、愛桜が制止する。
その後、何度か押し問答があって、凛は渋々「分かりました」と言って、別日で行く約束を取り付けた。
それから、意外と食い下がってこなかった愛桜とは駅で別れ、僕と凛は予約してあったおしゃれな韓国料理屋へと足を踏み入れた。
今回もお読みいただきありがとうございます。
次の更新は、12/28 or 29の予定です。




