リリー、駆け落ちされる
人生は何が起こるか分からない。
伯爵令嬢リリーはつい最近まで思い描いていた将来の姿と現状を比べて笑いたくなった。ウェディングドレスを着る自分の隣には長年の婚約者がいるはずだった。。
同い年の婚約者、ラルフのエスコートでトラブルもなく、リリーは卒業パーティーを終えた。リリーは透き通るような白い肌に平凡な茶色の髪、瞳も周りによく居る緑で、特徴と言われるのはスレンダーで平均よりも身長が高いことくらい。ラルフも同じ髪色と瞳の色で人の良さが滲み出たタレ目がチャームポイントな男だった。一年後には結婚式を挙げる若い貴族の中では目立たないごくごくありふれた十八歳同士だった。
一つあるとすればラルフは身長が男性にしては低く、リリーがヒールを履くと目線が同じなことくらい。
卒業式の次の日、ラルフが駆け落ちするまではリリーは婚約してからの二人の関係は良好だと思っていた。
『リリーすまない。僕はアンジェリータと共に暮らすことを選ぶ。君もどうか幸せに。』
一言綴られた手紙を父親から渡されたリリーは、茫然自失のまま自室に戻った。
それから一週間
「で、アンジェリータって誰なのよ?」
「どうやらお屋敷の使用人みたいですよ。色気のある美女だとかお嬢様、知ってます?」
「あ、いたわ。やけにワケあり感溢れるお色気たっぷり赤毛の美女。スカートがやけに短かった。」
「侯爵様の愛人だったそうです。」
「父親の愛人と駆け落ち?」
「無理やり愛人にされたとか吹聴していたみたいですが、誘ったのが本当だとも言われてますね。」
「で、ラルフは父親から美女を救ったと。」
「奥様は愛人のことは黙認してたみたいですよ。何せ仮面夫婦で有名でしたから。ただ今回のことで大激怒して実家にお戻りになったと聞いております。」
「そりゃそうだわ。侯爵様はどうなさるの?」
「ラルフ様は一人息子ですから、家を継ぐ者を親類から探される予定だそうです。奥様の実家からは抗議が来てますし、慰謝料をリリーお嬢様から請求され、おまけに愛人にも逃げられて地獄へ真っ逆さまでしょうね。」
リリーがショック一割と怒り九割を胸におさめ、同い年で貴族に忖度しない噂好きの侍女と話が出来るまでに一週間かかった。もちろん伯爵家の使用人としての立場は弁えているので、伯爵家の情報を流したことは無い。リリーが歯に衣着せぬ物言いを気に入っているので、私室での振る舞いは無礼講である。
「ちなみに私のことは?」
「幸せいっぱいに先日までパーティーに参加していたリリー嬢は痩せ細るほどにショックを受けて、心の病にかかったようだ。って感じですかね。」
「適当な噂ね。」
「まぁ所詮噂ですから。お嬢様は痩せ細ることなくウエストが二センチ大きくなっております。」
メジャーでリリーの腰を測り、けらけらと笑う彼女の肩を軽く叩くと壁際に控える若い使用人も思わず笑った。
「しょうがないでしょ。卒業パーティーに合わせて食事を制限していて、次の日から料理長が私の好物ばかり作ってくれるのよ。いつもなら嫌味を言うお兄様だって黙ってるんだもの。ここぞとばかりに食べたわよ。おまけに外出も出来ないし、太るしかないわ。」
リリーにラルフへの恋慕の情はない。仲良くしていたはずの幼なじみが自分に相談もなく、もうすぐ始める共同作業から逃げたという衝撃のみである。恋愛感情があったのなら、小説によくいる令嬢のように嘆き苦しんだことだろう。
「そうは言ってもリリーお嬢様は細いです。平民だったらもっと食えって言われるレベルです。」
「令嬢では太っているのよ。」
「価値観の差が違いますよね。ところでどうして私はメジャーでお嬢様の採寸をしているんですか?」
「見合い用のドレスを作るためよ。あちらが布の名産地だからってドレスも普段着も大体プレゼントされて着ているのなんて恥ずかしいわ。破棄されても伯爵令嬢ですもの。お父様の決めたところへ嫁がないと。そのための顔合わせまでには新しいドレスを作らなければいけないでしょう?」
リリーの言葉に侍女は眉をしかめた。
「お貴族様って落ち込むとか出来ないんですか?すぐに見合いの準備って早すぎますよ。もう少しお嬢様は落ち込んでも良いと思います。」
侍女の慰めはリリーには有難いが、そろそろ兄を止めなければならない。いつも嫌味ったらしい二つ上の兄は六日前、好物を手当り次第に食べるリリーを黙って見つめ「毟り取ってやる。」という言葉を残して去っていった。金なのか、侯爵の残り少ない髪なのか、恐ろしいことである。少々ふくよかになった腹をどうやってへこませようか考えていると、三回、三回、三回と続けざまにドアがノックされる。癖のあるこの叩き方と返事を待たずにドアを明ける態度の悪さは問題の兄である。
「見ない間にぶくぶくと太ったな。我が妹よ。さっさと痩せろ。まずは顔だ。」
父親譲りのつり上がったキツネ顔に金髪、糸目の隙間からうっすら見える赤い目の兄ダニエルの口は妹にだけ悪くなる。結婚したばかりの妻にこんな言葉は吐いたことがないらしい。
「お兄様、まだ社交界には出られないのですからもう少し休ませてくださいませ。どうせ噂の的になるだけ。明日から頑張りますわ。」
リリーは涙も出ていないがハンカチを目に当てて悲しげな声を出してみせると、途端にハンカチは兄に取り上げられた。
「ダニエル様、リリーお嬢様がお可哀想です。」
侍女の二人が非難めいた目で訴えると、兄はハンカチを軽く宙に投げた。
「明日リリーに見合いがある。時間が無くて悪いがあちらに令嬢だと思っていただけるくらいには妹を整えてやってくれ。」
妹に投げつけた言葉よりも数倍マシな言葉で侍女に命じる内容にリリーは目を丸くした。
「お見合い?お相手はどなたなの?」
出来ればあまり癖が強いタイプでないといい。三年くらいで離婚を繰り返す公爵とか、趣味の悪い服を強要して婚約者に逃げられた男爵とか、リリー本人が選ぶことが出来るなら勘弁して頂きたい。
「先日奥様を亡くされたクルム公爵だ。」
見合いの相手を聞いた壁際の侍女は高い悲鳴を上げ、話し相手をしていた侍女はリリーの手を思わず握った。目を輝かせる侍女を横目に当のリリーは困惑を隠せなかった。
クルム公爵は二十八歳。黒髪短髪に金色に輝く瞳を眼鏡で遮らなければ女性が卒倒するのではないかと噂されるほどの美形だ。五年前に結婚した五歳年下の夫人を昨年病気で亡くしたばかりの大変な愛妻家だったと言われている。夫人のために公爵領地の穏やかな土地に本邸を移動させ、夫婦同伴でしかパーティーには参加しない。王都には一つ下の弟を常駐させ、妻と共に領地で仕事をすることを王家に許可させたことでも有名だ。そんな強硬策を行っているにも関わらず、領地経営は良好。民衆に愛され、国内の貴族での発言権も強い。有力貴族である。
その妻ミシェルは金髪のウェーブがかった美しい髪を腰まで伸ばした姿が印象的な美女だった。幼い時から病気がちで、傍らにはクルム公爵が常にいて支えている姿しか見たことがない。声を出すこともあまりなく、クルム公爵がミシェル夫人の口元に耳を寄せる姿はご婦人方の中でも人気の姿でロマンス小説よりもときめくシーンだと評判だった。
そのミシェル夫人がついに儚くなられたのが一年ほど前。棺に入れられた姿はクルム公爵と娘以外見ることを許されなかったと聞く。
噂好きの侍女がリリーの顔のマッサージをしながら捲し立てる内容はリリーの記憶と何ら違っていない。その愛妻家クルム公爵が自分と見合いとはおかしな話だ。まだ心を癒していても良い時期に、新しい妻など探すだろうか。
「顔合わせ後にお断りされて、まだ傷が癒えていないと周知させるおつもりかしらね。」
ぼんやりと呟いたリリー言葉に、腕を揉んでいた侍女は思わず唇を尖らせた。
「クルム公爵はそんな方ではありません。ですよね、お嬢様?」
「私に分かるわけがないでしょ。それより痛いわ。」
力を込められた腕に抗議すると、侍女の圧も緩む。
「私は噂しか知らないわ。直接お話したこともないんだから。」
「では、御息女からクルム公爵にお話が伝わったのでは?」
「有り得ないわ。確かに在校生代表でパーティーには出席していたけれど、お話したこともないのよ。」
クルム公爵の娘、ミレーヌはリリーが卒業した学園に入学したばかりの十歳。体を気遣い出産を諦めたクルム公爵がミシェル夫人の遠縁の不幸な環境で生まれた女の子を養女に迎え入れた。ミシェル夫人と同じ金髪は前を眉、後ろを肩で切り揃えられ、瞳はアメジストのような紫の神秘的なイメージの美少女だ。幼い時から神童と崇められており、優秀さから年長者を差し置いてパーティーではスピーチをしていた。彼女の婚約者は王都で動いているクルム公爵の弟のゴードンらしい。二人が結婚すると、クルム公爵は父でありミレーヌにとって義兄となる。何やら複雑だが、クルム公爵のミシェル夫人への執着が窺い知れる関係性だとリリーは感じている。
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