太平洋の架け橋 ー 新渡戸稲造
太平洋の架け橋 ― 新渡戸稲造
本稿では当時としては珍しい国際人である新渡戸稲造をご紹介したい。
新渡戸稲造は、生没年は1862年~1933年。明治から昭和初期に活躍した教育者・思想家・農学者である。
1983年~2003年までに使用された5000円札に彼が起用されたので、ご存知の方もおられよう。この紙幣に彼の名前が印刷してあるが、ニトベと読むのは難しく、印字も小さいので読み辛い。ほとんどの人が彼の容貌を5000円札で見慣れていると思うが、名前と人物を記憶するほどには至っていないと思う。いわんや、彼の生涯、業績を知っている人は少なかろう。
先ずは、彼の生誕からその後の主な出来事を振り返ってみたい。
現・岩手県盛岡市で、新渡戸稲造誕生。16歳で札幌農学校(北海道大学の前身)に入学し、新渡戸と内村鑑三は同じ2期生だった。クラーク博士はこの農学校の初代教頭(事実上の校長)であり、自宅に良く学生を招き食事を振舞ったとされるが、1年も経たないうちにアメリカに帰国したので、2期生とは面識がない。
21歳で農商務省御用掛となり、2年後に渡米。その後、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、官費でドイツへ留学。帰途、アメリカに寄り、以前のアメリカ滞在中に懇意になっていたメアリーと結婚して、帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。その8年後、フィラデルフィアにおいて英語で「武士道」を発刊。世界的に高い評価を受ける。
59歳で国際連盟事務次長となる。67歳の時、東京女子経済専門学校の初代校長となる。新渡戸が71歳の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。10月15日に手術が行われるが容態が急変し、客死する。
上記の「武士道」はアメリカでの刊行であるが、フランス語にも訳され、私が70年代前半、ヨーロッパに行った時、「武士道」「さむらい」という言葉をよく耳にしたのは、彼の功績であったのかもしれない。又、彼は生涯、平和に尽力し、一生の願いを込めた言葉は「願わくばわれ太平洋の橋とならん」であった。
新渡戸は又、台湾で糖業政策に携わっている。日本ではその経験を生かして、植民政策の講義を行うが、「土地利用と人間生活との関係」を解明するという目的をもつ郷土研究へと結びついてゆき、各種の研究会を開いた際、聴衆の1人に柳田國男(日本民俗学の創始者であり、近代日本の生んだ思想家)がいて、新渡戸の考えに触発され、1907年頃から自宅で「郷土研究会」という名の集まりをもつようになる。集まってくるメンバーの一人に小田内通敏(地理学者、大学教授)がいた。
1910年に、小石川小日向の新渡戸邸で、新渡戸を会の後援者、柳田を幹事役として「郷土会」を発足させる。
この会は各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を自主的な、制約のない立場から研究し調査することを主眼とした。
「郷土会」には、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤(農林官僚)、牧口常三郎(教育家、人生地理学の著者)、中山太郎(民俗学者)、前田多門(実業家、文筆家)ら、錚々たるメンバーが加入していたほか、多くの人々が参加していた。特に素晴らしいのは、庶民に焦点を合わせて、ひざ詰め議論であったということである。
終わりに、日本の民俗学が、他の学問のような西欧のものまねを免れて日本独自の道を辿ったことは評価されるべきであろう。しかし、その反面、西欧の「郷土学」のように総論として体系づけられることがなかったのは残念である。当時、地域主義が叫ばれながら、過去の郷土会・郷土研究の動きが、実践的な活動の広がりにつながっておれば、地方の活性化に役立ったと思われる。この時代から、惜しむらくは、人口が大都市に集中し地方で減少する二極化が鮮明になったことだ。 今でも大都会集中型は終わりを見せていない。
ただ、新渡戸の郷土会、柳田の郷土研究が見いだした多くの人材が、日本全国各地で「郷土教育」を実践し、いま再び、彼らの実践教育の軌跡が評価されつつあるということは、称賛されるべきものがあろう。
新渡戸稲造の肖像が描かれた5000円札