その1
人間の意識は元来動物的生存を維持するための機能であり、それが発達したものである。しかしその発達の結果、人間に於いては意識に課せられた動物的生存の枠が意識自体にとって桎梏と感じられるようになった。つまり生存を保つためのあれこれの思慮、およびそれにもとづく行為の結果が、恐怖、嫌悪、後悔、恥辱、自責、など苦慮の意識を伴うようになったのだ。
この苦痛と意識されるようになった生存の枠組から意識を解放しようとしたのがブッダの教説である。
縁起はブッダの根本教説である。「此あれば彼あり、此生ずるがゆえに彼生ず、此なければ彼なし、此滅するがゆえに彼滅す」と要約されている。此は存在するものの相互依存を述べたものである。他と切り離されて、それ独自に存在するものをブッダは認めない。あらゆるものは相関相依のうちにあり、因縁の理法によって生滅・変化している。ここから無常が導き出され、無我が宣言される。
西欧は我を立てる。自我と他者、人間と自然は常に対立している。西欧的思惟はこの対立の枠内にあり、主客は明確に分離されている。この苛酷な二元対立を救済するものとしてキリスト教の愛があるのであろう。西欧の強固な自我を否定できるものは絶対者、即ち神の愛でなければならないのである。
縁起の理法はそのうちに他者を含んでいる。他者、他物を自己の存在の前提としている。他者への配慮、他物との調和をその論理的帰結として要請している。自他は一如であり、主客の対立は表象であり、相互依存、相互交流の連関をこそ実相と見ている。この認識を情的な言辞で表したものが慈悲であろう。慈悲=他者、他物への配慮は縁起という存在論の中に包含されているのでわる。慈悲を愛と考えるならばブッダの教説の中に愛は含まれている。
付言すればマルクス、エンゲルスの弁証法は存在物を連関と発展においてとらえる。あらゆる存在物は相互に連関しており、その中で生成、発展していると説く。これは西欧的思惟のなかで生まれた思想であるが縁起の理法との親近性が認められる。