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ブッダとの出会い  作者: 坂本梧朗
Ⅰ ブッダのことば――スッタニパータ
3/18

その3  同 上   2

  三 悪意についての八つの詩句


七八○ 実に悪意をもって(他人を)(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒むことがない。


七八一 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。


七八二 ひとから尋ねられたのではないのに、他人に向って、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人々は語る。


七八三 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。


七八四 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。


七八五 諸々の事物に関する固執 (はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、物事を斥け、またこれを執る。


七八六 邪悪を(はら)い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつはりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか? かれはもはやたより近づくものがないのである。


七八七 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの論議(誹り・噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。


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