諷刺であって綺麗な歌ではない、一つの目的の為に文化が作られている
和歌の本当の読み方を紹介する。
和歌とは何か、諷刺である。
日本書紀にはこうある。
「密策を奉承て能く、諷歌・倒語を以て妖気を掃蕩す」
諷歌・倒語を纏めて言うと、隠語。
そして、諷歌とは和歌の六種の一つで、和歌の様と言われる物だ。
また、古今和歌集の序文には他にも幾つかの着目点がある。
「遠き所も出で立つ足元より始まりて年月を渡り、高き山も麓の知里比治(塵泥)よりなりて、雨雲棚引くまでお日登れる如くに、この歌もかくの如く成るべし。」
ここでは、和歌の単体と文化と言う集合体で対比されている。
単体、出で立つ足元、麓の知里比治(塵泥)。
集合体、遠き所、高き山。
また別の個所ではこうだ。
「今は飛鳥川の瀬に成る恨みも聞こえず、さざれ石の巌となる喜びのみぞあるべき。」
単体、さざれ石。
集合体、さざれ石の巌。
良く理解できない場合、礫岩と言う概念を調べて見れば良い。
そしてこれ等から、和歌全体が、一つの目的を持って作られている事が分かる。
更に、六歌仙を批評したのちに来る文章ではこのようになる。
「この他の人々、その名聞こゆる野辺に生ふる葛の這ひ広ごり、林に茂き木の葉の如くに多かれど、
歌とのみ思いて、その様知らぬなるべし。」
「其大底皆以艷爲基、不知和歌之趣者也。」
他の者は名前を聞く者はとても多いが、歌とのみ考えていて、様(六種)を知らない。
艶(綺麗である)という事だけが基準になっていて、趣を知らない。
ここら辺の訳は、『様』と言うのが、「様になる」「様にならない」に使われている物と同一なんだが。
体裁が整うと言う意味で使われている。
また、趣と言うのも、『古い』とは異なる意味であり、『趣味』の『趣』である事に注意が必要だ。