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「アイリス!」
黒煙を発散する大型トラックへ、国境警備隊のモトラッドを乱雑に乗り捨てて駆け寄っていく。先ほど街の建築物に車の端を擦らせながら停止したからか、ボンネットは完全に破砕し、機関部が暴発する可能性があった。こちらからはアイリスの無事を確認できないが、とにかく迅速に彼女を救出する必要がある。市場の入り口はどよめく人々で溢れかえっていて、全く統制が保たれていない。下手に騒ぎが拡大する前に、アイリスの無事を確認したかった。
タイヤを撃ち抜いたのが原因で、運転席の底部は地面との摩擦でひしゃげていて、間接的に車の扉を歪ませている。扉が開くか半ば疑問だったが、そんな不安を度外視して、運転席の扉を力尽くで引き開けた。多少の抵抗感は覚えたが、幸運なことに扉はすぐさま開いて、中の状況を知らせてくれる。
「アイリス! 無事か?!」
彼女はトラックが急停車した慣性で上体が前の方へつんのめっていた。顔が確認できないので生死――機械人形に生き死にの概念が適用できるか不明だが――は判然としない。しかし無理矢理彼女の身体を起こしてやると、アイリスは無表情な瞳を確かに開いて、こちらを真っ直ぐに見返す。
「――指揮官。ご無事でしたか」
彼女は自分の生死より、こちらの無事を先に言及する。その自己犠牲的な発言が胸をギュッと詰まらせた。だけれど今の状況下で、安穏に語らう訳にもいかない。
「――ボンネットが破砕している。すぐに出るぞ」
「……了解しました」
アイリスは首肯すると、そのまま身体を運転席から起こして、車の外へ脱出しようと試みる。その際にこの大型トラックを暴走させた男の屍体が妨害して、俺も亡骸を手早く押し退けながら、彼女を手伝った。この男には色々と尋問したいことが残ってはいたが、屍者に口無しという言葉通り、遺体を確保したところで得はないだろう。一応彼はメリディオン人であったことを記憶し、亡骸を運び出すことは取り止めた。
アイリスに肩を貸しながら大型トラックを離れ、放置した国境警備隊のモトラッドの方へ距離を取る。俺たちがモトラッドの付近まで到着した頃には、迅速なことに自警団の連中が周囲の安全確保を開始していた。その中にガーベラの姿を確認して、わけもなく安堵の溜息を漏らす。このような末端――街の緊急事態ではあったが――の現場に顔を出すという気心が、彼女の魅力とも捉えられるだろう。彼女らは大型トラックが爆散する可能性に一早く勘付いていたのか、ある程度の範囲を保ちながら、その内部に人間を接近させないよう対応を行っている。そんな中、状況が一旦完結したこと悟って再度大きく息を漏らすが、異変が起こったのはその瞬間だった。
アイリスがこちらの頬に手を伸ばす。多少警戒心が低下していたからか、俺はその動作への対応を遅らせてしまう。ハッと顔を上げた頃には、アイリスはこちらの頬の前に手を逆手で伸ばしきっていて、その手の内に小石が収まったことに気が付く。
小石。彼女が前から握っていたものではない。ならどうして、アイリスは石なんて握っているのだろう。だけれど、その理由はすぐに判明した。
顔を市場の方へ移す。そこにはバリケードのようにトラックに対して背を向け、民衆を保護している自警団の団員と、その奥で眉間に皺を寄せて、小石をこちらへ投擲しようと身構えているアースの民がいた。
住民たちは皆表情を醜く歪ませて、こちらに――いや、恐らくアイリスに対して――投石を再開する。
「――おい、やめろ――」
そう口をついて叫んで、何故彼らがアイリスに石を投げつけているのかという理由を理解する。その答えは彼らの怨嗟に満ちた絶叫が、詳らかに語っていた。
「メリディオン人が! また俺たちを虐殺するのか! 城塞都市に籠って慎ましく暮らしている俺らに、何の恨みがあるってんだよ!」
「私の夫と息子を殺しておいて、まだ殺そうって言うのかい! どれだけ私たちを蹂躙すれば、アンタたちは気が済むんだよ!」
最初、その声は僅かなものだった。しかし人の力というのは想像以上に強力で、一つの負が次なる悪感情を生起させ、その波はこの場を訪れていた人々に伝播し、巨大な津波となって俺たちを直撃した。
「メリディオン人は鬼畜だ! 地獄の使者だ! 今だって、このトラックで俺たちを皆殺しにしようと企んでいたんだ!」
「メリディオンは滅びろ! 悪魔の帝国め! 人の生き血を啜る外道どもが!」
さざめきは大きな合唱に移り変わって、俺たちの鼓膜を嫌というほど刺激した。民衆は自分たちの感情の制御に齟齬をきたしたようで、自警団のバリケードを突破して、こちらへ怨嗟の集積をぶつけようと必死な形相である。
「ドッペル! 往け!」
ふと気が付くと、視界の端でガーベラがこちらへ絶叫しているのが映っていた。そして瞬時にこの場に長居すると身が危険であることを悟り、俺は羽織っていたジャケットをアイリスの頭に被せ、民衆とは反対方向へ逃げ去っていく。
「メリディオンは消えろ! メリディオンは去ね!」
そんな怨恨の大合唱を後ろ手に、俺たちはアース正門付近の大通りから、手早く撤退を決め込んでいた。
アイリスに上着を乱雑に被せたまま、大通りから裏手に入って、治安の悪い路地裏へ逃げ込む。この辺りは貧民街も間近で危険性が高いが、今は四の五の言っていられない。だって、現在は裏通りの無法者よりも、共通の悪者を得た市民の方が危険なのだから。
しばらく路地裏を進んで、時々背後を振り返り、追手の類が付随していないことを確認する。そして危険地帯である大通りからある程度の距離を賄ったところで、俺たちはその場で立ち止まった。
荒く乱れた呼吸を粗雑に整えて、取り敢えず付近に人影な皆無なことを再三チェックし、アイリスに被せた上着を外してやる。少しだけ顔を伏せていた彼女は視界が開けたのか、こちらへ曇りのない視線を送ってきた。
「大丈夫か?」
何を語りかけようか逡巡して、とにかく安否を聞き質す。アイリスは無言で短く首肯し、その美しい顔立ちを来た道へ向け直した。
「――メリディオンは恨まれているのですね」
小さく呟かれた言葉に、返事として細く息を吐く。アイリスは横目でこちらを見やって、静かに視線を大通りの方へ戻した。
「多く殺されたからな。人口が半減するくらいに」
「城塞都市は、いえ、ヴェントゥスは、メリディオンに恨まれるような罪を過去に犯したのですか?」
「いや。前提として、メリディオンは侵略国家でな。ヴェントゥスは大陸の最西端だから、制圧すればこれ以上西進する必要はなくなる。そう言った意味で、攻略は優先されたんだろう」
説明を施している最中も、アイリスは大通りの方を見つめたままだった。彼女に“魂”と呼べる心が存在しているとは到底思えないが、もし俺が彼女の立場だったら、やり切れない思いを抱えてしまうだろう。機械人形を慰める必要なんてなかったが、多少気を遣うべきか。
しかし何か慰めの言葉をかけようとして、アイリスが綺麗すぎる瞳をこちらへ真っ直ぐに向けてきた。
「どうして助けたのですか?」
「――どういう意味だ?」
彼女の言う意味が分からず、そのまま聞き返してしまう。
「あの大型トラックはボンネットが破壊され、機関部が爆発する危険性がありました。しかし何故、危険を冒してまで私を助けようとしたのかについて、尋ねているのです」
アイリスは本当に理解ができないと言った風に、純粋な疑問をぶつけて来ていた。だけど彼女の質問を聞いて、逆に尋ね返してやることにする。
「なら聞くが、お前は俺を指揮官と呼んでいたな。ならこちらの命令を聞くのは当然のはずだ。だがお前は待機していろという命を破ってモトラッドに乗り、そしてトラックへ飛び移った。危険性については、俺と同様に理解できているはずだ。しかしどうしてお前は勝手な行動を取った? もしかしなくても、死んでいた可能性だってあったんだぞ」
「指揮官の命令がなくとも、望む行動を選択するのが私の役目です」
「俺がトラックに飛び移って、ブレーキを踏んで欲しいと思っていたとでも?」
「はい」
呆れてものも言えない。あからさまに大きな溜息を漏らして、頭を抱える。
「それと付け加えますが、アンドロイドに死という概念はありません。ですので、“死”を畏れることもないのです」
「なら、俺がお前に死ねと命令したら、その通り死ぬと」
「死ね、という命令自体が適切かは不明ですが」
顔を上げて、アイリスを見やる。彼女は当然のことを口にしていると言わんばかりの表情を浮かべていて、ある意味若い反骨心さえも感じられるようだった。
しかし、ここは一つ諭してやる必要がありそうだ。今日何度目かわからない溜息を吐いて、ゆっくりとアイリスの双眸を見つめる。彼女はこちらの視線を真っ直ぐに見返していて、お互いの視線が交錯した。
「アイリス。お前が自分自身をどう思っているかなんて知らないし、俺が知る必要もないと思っている。だがな、少なくともデイジーは、お前の帰りを待っていてくれるんだ。このご時世、他人を思いやってくれる人間は少ない。そんな人の思いを無下に扱って、勝手に死ぬのは話が違う」
アイリスの視線が一瞬だけ揺らぐ。どうして彼女が瞳を揺らめかせたのかはわからないが、そのまま話を続ける。
「お前は機械かもしれないし、心なんてないから、死を畏れる必要だってないのかもしれない。だけどお前がスクラップになれば、最低限デイジーは悲しむだろう。――お前は俺の内心を慮って行動を起こすと言っていたな。だったら、今俺が思っていることを当ててみろ」
そう言い放つと、アイリスは少しだけ無表情を固めて、
「――申し訳ありません。わからないです」
「デイジーが悲しむような真似は今後一切するな。これが今、心の中でお前に下した命令だ」
ハッとしたような表情を浮かべたアイリスに上着を投げて、そのまま路地裏の先へ向かう。ここから自宅までは多少距離があるし、買い物もできなかったため二度手間になるが仕方ない。ズボンのポケットに両手を突っ込みながら適当に歩を進めていると、背後から小走りで付いてくる足音が響いた。