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長い沈黙の末に。項垂れていた頭を上げて、アイリスに行こうと言葉を掛けた。アイリスの方は少しの無言を通して、コクンと頷いてくれる。かなりの時間、このテントに滞在してしまった。時間を要せば要するほど、敵兵に勘付かれる可能性は上昇する。未だ連中はこちらの侵入には気が付いていないと思われるが、やはり下手に長居するべきではない。今はアイリスと共にいるため、多少の敵は撃退できるだろうが、発見されずに脱出できるに越したことはないだろう。武装としても特注の大型サプレッサーを装着したリボルバーと、申し訳程度のスローイングナイフしかない。テントの出入り口で絶命している門番から多少の武具は鹵獲できるものの、大勢を相手取れば確実に制圧されてしまう。絶望的な状況下に陥る前に、手早くメリディオンの陣地から脱出する必要があった。
身体を起こしたアイリスに頷き掛け、静かに移動を開始する。アイリスは過去に戦術プログラムを施された軍用機械人形であるし、隠密行動のノウハウは恐らく身に着けているだろう。脱出の際はアイリスを同伴させながらの行動になるが、母数が一増えただけで、発見の可能性は指数的に上昇する。一人なら隠れられた場所に二人は身を隠せないわけで、使える障害物や物陰は限られるだろう。その上意思疎通の必要性が生じるため、逃亡の難易度は加算ではなく累乗で跳ね上がる。危険度が上昇することに変化はないものの、素人を護衛しつつ逃げるわけではないので、多少は緩和されているだろうが。
アイリスを伴いながらテントの出入り口へ近づき、外部を窺う。見たところは未だにこちらの存在は露見していないようだったが、出入り口に屍体を置き去りにするのは危険に思える。そう結論付けて、後方のアイリスに無力化した兵士の一人をテント内へ運び込むよう指示を出し、こちらも残ったもう片方を引き摺りながらテント内へ引き込む。首元へスローイングナイフを投擲したため、出入り口付近には多少の血痕が付着してはいるが、現在は未明であるため、照明器具の類を使用されなければ朝まで隠匿は可能だろう。血痕が発見されないことを祈りつつ、屍体をテントへ引き込み、一応亡骸を検分する。アイリスもこちらに倣って片方の遺体を検めるが、特段有用な物品は見当たらなかった。そこである作戦を思いつき、そのまま撃破した敵兵の衣類に手を掛ける。カムフラージュのために彼ら二人分の衣類と装備を剥いで、自らに着込んだ。アイリスもこちらの意図を察したのか同様に衣類を脱がせて着用すると、傍から見ればただのメリディオン兵に誤認できるほどの外観になった。まぁ首から流れた血と体液で上着は汚れていたが、兵士たちが所持していたスカーフを適当に巻けば、ある程度誤魔化すことが可能だろう。衣類の変更を完了させて、自分たちの着込んでいた洋服は持ち寄った圧縮袋に詰めて、敵兵から鹵獲したリュックサックに投げ込んだ。取り敢えず怪しまれないように自動拳銃をレッグホルスターに、それと小銃を装備しながら、何気ない雰囲気を醸し出しつつテントの外部へ出る。もちろん俺は髪色で怪しまれないようにキャップを被りながら。
そろそろ、朝日が昇り始めてもおかしくない時間帯。明るくなれば血痕の存在が露見し、アイリスが消えたことで騒ぎになるだろう。怪しまれる前に早いところ脱出して、ガーベラのところへ帰還するべきだ。
小銃を抱えながら、アイリスと共にメリディオンの陣地を歩く。一応カムフラージュを施しているため、敵兵に接近しなければ疑われることはないだろう。そう思いつつ静かに、かつ迅速に司令部から離脱を開始していると、簒奪した敵兵の無線機から荒いノイズが溢れ出した。
『――各員に伝達。前方の歩兵隊が敵兵と思われる人物に襲撃を受けた。直ちに警戒態勢を取れ。各自隊の人員の安否の確認も怠るな。以上』
背筋を冷たい汗が伝うのを意識する。どうやら先ほど気絶させた敵兵が覚醒したか、気絶させた彼が発見されたようだった。この調子だとアイリスの不在が悟られるのは時間の問題である。敵兵の身包みを剥がしている以上、変装も勘付かれるはず。警戒の目が厳しくなる以上、より一層の慎重さが求められるが、俺たちは今敵地の奥深くまで侵入しているわけで、安全な帰還はかなり困難に陥ってしまった。
「どうしますか、ドッペル?」
左斜め後ろから、アイリスが小声で尋ねてくる。頭を回して対応策を練ってみるが、今のところ良さげな手段は浮かび上がってこない。素早く脱出したいにしても、無暗に目立つ行動を取れば確実に疑われてしまう。しかし慎重に動けば動くほど、警戒態勢は行き渡って、更に危険な状況へ陥る。そのような反比例の関係が存在し、目ぼしい解決手段は思いつかなかった。
そうして対応策に惑っていた時。不意に後方から止まれ、と鋭い声色が聞こえた。心臓が大きく危険に跳ね上がる中、しかし立ち止まらない訳にはいかず、そのまま足を止める。アイリスもそれに倣って歩行を止めて、背後を向き直った。
そこにはメリディオンの兵士が二人いて、訝しげな表情を浮かべつつ、油断なさそうにこちらを睨んでいる。こちらの黒髪がバレないように多少俯きながら佇んでいると、
「お前たち、官姓名は? どこの所属だ?」
いつでも発砲できるぞと言わんばかりに、片方の兵士は小銃をこちらへ向けて来ていた。だけれど先ほど敵兵の身包みを剥がした際に、無力化した彼らの官姓名、所属は確認している。危なげなくアイリスと交互に応答するが、彼らは未だにこちらを猜疑しているようで、眉を潜めてねめつけて来ていた。
「――おい、男の方。少し顔を上げろ。何故俯いている」
背筋か凍るような感触。心臓がどくどくと脈打って、危険が目の前まで迫りつつあることを認識する。マズい。ここで顔を上げれば、間違いなくこちらがヴェントゥス人だということが露見する。そうなればすぐさま射殺されるか拘束されてしまうかで、アイリスの存在もバレるだろう。ここは確実に凌ぐ必要があった。
「彼は元々あまり身体が強くない方で……行軍で疲弊しているのですよ。勘弁してはくれませんか?」
すかさずアイリスが助け舟を出してくれる。上手い言い訳を思いついたものだなと多少関心はするが、それでも連中は納得しなかった。
「体調が悪くても、少し顔を上げることは可能だろう? 今は侵入者の件で確認を取る必要がある。協力してもらおう」
ここまで来てしまっては、見せる他ないだろう。運よくバレない可能性もあったが、ほぼ確実にヴェントゥス人だと勘付かれる。そうなれば危ない綱渡りはしたくないわけで。心の内が決まったのでその旨をアイリスに伝達しようとするが、しかし今下手に指示を出せば発砲されてしまう。現在進行形でこちらは小銃を向けられているわけで、まずはその武装を解除するべきだった。
すると隣にいたアイリスが、瞬間的に金色の閃光となる。気が付いた頃には、アイリスは俺に向けられた小銃を蹴り上げて吹き飛ばしており、彼女はどうやらこちらの意図を察してくれたようだった。
「貴様ら――!」
言い終わる前に、アイリスは小銃を構えていた男に組み付き、首を締め上げた。それとほぼ同時にこちらも目の前の男を羽交い絞めにし、口を押えながら首を絞める。すると間もなくもがいていた男たちは気絶して、その場に崩れ落ちた。何とか現状は制圧が完了したものの、すぐに遠方から声が上がる。
「おい! どうした!」
アイリスがこちらへ視線を寄越す。すぐに頷き返すと、俺たちは一目散にリベルタスの陣地へ向けて走り出した。
「いたぞ! 侵入者だ!」
するとすかさずサイレンが響き渡って、周囲にざわめきが立ち上る、舌打ちをしつつもとにかくリベルタスの陣地へ向けて走るが、まだだいぶ距離があった。この状況では走っても確実に拘束されてしまうだろう。素早く頭を回転させると、すぐ近くにモトラッドがいくつか駐車されている場所を発見する。渡りに船だと思ってアイリスと共にモトラッドへ近づくと、緊急時に素早く起動できるようにかキーが挿しっぱなしのものがあった。アイリスが後部座席に収まったのを流し見て、こちらも素早く運転席に跨りエンジンに火を入れる。鈍い振動が肚を据えるなか、多少温まったのを確認してすぐにアクセルを捻り開けた。
原動機の駆動音と、緊急時用のサイレンが響き渡っている。そんな中俺たちはモトラッドを駆って一直線にリベルタスの陣地へ向かっていて、数あるテントや瓦礫を避けながら、一か八か辿り着けることを祈った。しばらくは追手もなく、テントから這い出てきた敵兵たちをホーンで蹴散らしながら進行するが、
「――ドッペル。後方からモトラッドが追尾してきます」
サイドミラーで後方を確認すると、数台のモトラッドが全速力でこちらを目指して来ており、その後部座席から小銃を構えた男が覗き見えたので、すぐさまアイリスに指示を出す。
「迎撃しろ! 回避行動は何とかする!」
「了解しました」
涼しく告げたアイリスはレッグホルスターから自動拳銃を取り出すと、そのまま装填を再度確認して、後方へ銃口を向けた。
「――来ます」
アイリスの言葉に合わせて、モトラッド自体を左右へ振って、回避運動を展開する。一秒前までに車体が走行していた場所を小銃弾が穿って、アスファルトを深く掘削した。乱雑に車体を左右へ傾けつつ回避行動を継続するが、今のところ搭乗者にも車体にも被弾はない。そして車体を一度真っ直ぐに戻した段階で、後部座席にいたアイリスが自動拳銃を発砲した。
破壊的な発砲音が周囲に響き渡って、耳孔内をハウリングする。サイドミラー越しに、アイリスの放った弾丸は追跡を掛けて来ていたモトラッドの編隊の操縦者一人に命中し、急所は敢えて避けたのだろうが走行不能に陥り、被弾部を庇いながら減速を開始した。一つは仕留めたが、まだ二つ残っている。彼らは攻撃に屈することなくその速度を上昇させ始めて、こちらとの相対距離を詰めようと画策しているようだ。
「いいぞアイリス。そのまま次も頼む」
「了解です。ドッペル」
涼やかに答えたアイリスに内なる信頼感を覚えながら、再度回避運動を展開する。小銃弾が飛来し、寸でのところを通過していくが、被弾はやはり一切ない。モトラッド自体が俺のものと同様に軍用モデルで、ある程度の速度と小回りが利くから上手い具合に被弾を抑えることに成功していた。アイリスの射撃もダーツの時と同様に精確であり、任せておけば追手を全て撃退することが可能だろう。彼女の能力に舌を巻きつつ、また戦いに付き合わせていることに罪悪感を覚えながら。それでも彼女を戦わせなければ生き残れない。自分の、いや人間の矮小さを直視しているようで、苦い舌触りを覚えた。
回避運動の最中、車体が地面と垂直になったタイミングで、アイリスが再度の発砲を行う。すると先程と同様に後方のモトラッドの操縦者に直撃したようで、彼は肩を押さえつつ減速を始める。アクセルを握る方の肩を射撃し、スロットルを捻れないようにの対処。アイリスの攻撃は精確かつ人命に配慮した、そして非常に有効な射撃だった。
二車両を撃破したのを確認し、前方に気を配りつつ回避運動を継続する。残り一車両となった敵はこのまま追うべきか追わずに撤退するべきか多少逡巡したようだったが、意を決したようにアクセルを捻って、加速を続けた。
このまま下がってくれれば、無暗に怪我を負わせる必要もなかったのに。そんな場違いな悔恨を抱きつつも、唇を絞って運転に集中する。もう既に俺たちはメリディオンとリベルタスの境界線にまで近づいていて、最後の一機を撃破すれば、そのままリベルタスの陣地へ逃げ込めるだろう。そんなことを想いつつ出鱈目な回避運動を講じていると、また躯体が真っ直ぐになったタイミングでアイリスが射撃を敢行した。
言うまでもないが、その放った拳銃弾は精確無慈悲に敵兵を貫いていて。回避を行っていたにも関わらず、直撃を食らった最後のモトラッド運転手は溜まらず被弾部を抱えて、そのまま追尾コースを外れた。何とか追手を回避し切ったことに安堵していると、アイリスは自動拳銃をレッグホルスターへ戻して、メリディオンの陣地の奥、東の空を見る。サイドミラー越しに彼女の視線の先を見やると、そこには淡く太陽が昇り始めていて、天球を橙と紫に染め上げているのだった。