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団長室を出て、とにかく針路を自宅へ向ける。リベルタスの本部で出来ることはもうない。そうなれば取り敢えず家に戻って、一旦休むのが吉に思えた。
アイリスを伴いながら、自警団の本部の外へ出る。外部は表通りに直結していて、少なくないヴェントゥス人が雑踏の中を進んでいた。その中に流れるように紛れて、そのまま自宅へ向かっていく。雑踏に紛れると周囲の人々は灯籠のようにぼやけていて、自分が多少疲弊していることを意識する。アイリスシリーズの真実。そしてアイリス自身の軍事利用。その要素はどうやら脳のリソースの多くを割かなければならない事柄のようで。どうして自分はアイリスの軍事利用を先送りにするような発言を行ったんだろう。ガーベラや幹部たちの言う通り、今アースは危機に晒されている。いつメリディオンが侵攻してくるか分からない状況下で、何故あのような発言が出来たんだろう。アイリスを戦場に送り込む。その光景が脳裏に浮かぶと、どうしても胸が締め付けられるようで。アイリスが自分に背を向け、敵の軽戦車に向かって走っていく。その様子をどうしても視界に収めたくなくて、目を逸らしたくなってしまう。何故、どうして。そのような問いは無意味に中空を彷徨って霧散してしまうようで、どうも掴みどころのない星幽な存在に思えた。
ぼんやりと表通りを進んでいくが、隣には変わらずアイリスがいる。彼女はいつも通りの無表情で沈黙を決め込んでいた。やはり彼女の様子から心情を斟酌することは困難に思える。だけれど今までと比較すれば、アイリスは多彩な表情を浮かべるように成長したはずだ。それは彼女自身の学習機能が周囲に適応するために講じた手段なのかもしれない。だけれど、アイリスの面持ちの変化は、どうしてかとても高尚なものに思えて。機械人形が感情を有する。それはやはり御伽噺かもしれないが、それでもアイリスに感情が宿ることを夢見ている自分もいた。人を、同族の機械を殺す、もしくは破壊するために生まれた兵器。銃を手に取り戦う無感情の兵士が、簒奪に罪悪感を覚える。やっぱり与太話に思えるけれど、機械に感情が宿れば、きっとそれはとても素晴らしい事なんだろうと、そう信じている。決してそれがあり得ないことだとしても、だ。そう信じたい自分がいることには、どうしても嘘は吐けなかった。
「……どうしてですか?」
自宅へ流されるように進んでいると、不意にアイリスが声を上げる。一瞬自分に向けられた言葉だと理解できずに受け流してしまうが、すぐにその台詞がこちらへ向けられていることに気付く。静かにアイリスの方を見やると、彼女は凛とした瞳をこちらへ向けて来ていた。
「……何が?」
「――先ほどの件です。私をリベルタス自警団の人員として徴兵し、子機を運用する話ですが。何故、あのような発言を行ったのですか?」
意図がわからずポカンとしてしまうが、こちらの内情を察したのかアイリスは言葉を続けた。
「私の運用を先送りに――いいえ、ある意味では拒絶するような発言についてです。ガーベラや幹部たちの発言では、アースは危機的状況という話でしたが。私見ですが自分も彼らに同意します。アースやリベルタスはかなりの切迫状況にあり、打開策に乏しい今、私の軍事運用は妥当なものだと判断しますが。どうしてあなたは拒否するような対応を行ったのですか?」
アイリスの弁に口を噤んでしまう。だって、自分でも良くわからないのだ。何故アイリスの軍事利用に不快感を覚えたのか。ガーベラは何故かその理由について勘付いていそうだったが、結局アイリスやデイジーに聞けと突っぱねられた。アイリスが戦場にいる姿を思い浮かべるだけで胸が詰まされるような思いになるだけで、やはり理由に見当が付かない。とても単純なことにも思えるのだが――やっぱり自己解決は困難らしかった。
無言を貫いていると、アイリスはその澄んだ瞳をこちらの双眸に向けて、じっと見つめた。まるでこちらの意図を読み取ろうと努めているみたいに。だけどアイリスは途中で目を瞑ると、諦めたように前へ向き直る。
「……やはり理解できません。何故断ったのか。ドッペルが何を考えているのかも」
しかしそこで、アイリスはハッとしたような表情を浮かべた。そしてすぐさまこちらへ振り返り、何かを悟ったかのような顔で、
「――これが、人間の“心”なのですか?」
重大なことに気が付いたような弁で、アイリスは呟く。心、人間の魂。理解できないもの。機械には存在しない意思。アイリスはきっと俺のままならなさから、理解不能なものを“心”と呼称しているのだろう。だけど彼女の感覚は、果たして誤りなのだろうか。人間が自分の心を正確に理解できること自体は珍しい。そう言った完全なる理解が不可能な存在だからこそ、“心”と呼ぶのではないだろうか。
「――わからない。理解できない。ですがきっとそこにある。不器用で優柔不断で、だけどどこか温かさを感じる。そういったものが、人の心なのですか?」
純粋な疑問を尋ねてくるアイリス。彼女の表情はあまりにも純朴で。その視線の眩しさから逃れるように顔を逸らし、そのまま自宅へ足を進める。
心がなんだ。魂がなんだ。自分でも理解できないものを、決して機械人形が会得することが可能なのか。そのような哲学じみた思考が脳裏を埋めて、自然と唇を噛み締めるのだった。